あらすじ
フーコーは、私たちが自明視する世界のありようを、全く違ったしかたで見せる。最高傑作『監獄の誕生』を糸口にフーコーの思考の強靱さと魅力を描き出す。正常と異常の区分を生み出す「知」の体系と結びつき、巧妙に作用する「権力」。そうした秩序が社会の隅々にまで浸透する近現代の先に何を見定めたのか。革命的入門書。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
フーコーの代表作『監獄の誕生(監視と処罰)』(1975年)とその背景を中心に、フーコーの思想を小器用に要約せず、混沌も含めて提示しようと試みた一冊...とのこと。
フーコーの規律権力論は良くも悪くも影響力が強く、いろいろな論者に援用されており、そのせいでやや古い本書(2011年発行)は、2025年時点で前半120ページの内容に新味がなくなっていると感じました。
ですが、この本の読みどころは後半の120ページかと...後半になればなるほど話が錯綜し訳が分からずな部分もありますが、しかし著書のフーコー愛が爆発しつつ、ブーストがかかったように面白さも増していきます。
読み終えた後には、一体何を読まされたんだ? とかすかな笑いが込み上げてくること必至。
読めばフーコーが読みたくなる、クセ強系のフーコー入門書としてオススメ。
Posted by ブクログ
最近、フーコーの名前を見かけることが多く気になったので読んでみた。難しいが、筆者の表現、文体が心地よくて、2日で読み通すことはできた。これからゆっくり読み直す。
「不快に思うべきことを不快に思いつづける力と元気」(p214)。「あれ?」と思っても流れてしまう感情を拾っていくことが大事かもしれない。
ちなみに、書店で『監獄の誕生』を見てみたが、とても読めない。
Posted by ブクログ
色々他の本に浮気しながらだけど、読み切るのに1年くらいかかった気がする。220ページしかない新書なのに!
なぜかと言うとこの本、何が言いたいのかよく分からないから時間がかかった。というか、題材となっているフーコーの著作『監獄の誕生』がもともと難解で、その難しいものを変に易しくせず、分からんものを分からん構造のまま解説した、ということらしい。
つまり、自分で読み解いて再構成するという主体的な読み方を要求されている。それは流動食のような分かりやすい本だけを摂取していたら鍛えられないものであり、また遊びのようなものにもなるだろう。ただ、「これは要するにこういうことを言いたいんだな」という形の理解は間違っているのだろうとも思う。
あとがきの「大好きな人の大好きな本についてなぜ好きかを書いて出版できるということは、それ自体とても幸運なことだ。」という一節には深く共感した。
Posted by ブクログ
フーコーにフォーカスした新書は、中山元氏の『フーコー入門』、慎改氏の『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学』、箱田氏の『ミシェル・フーコー 権力の言いなりにならない生き方』があるが(内田氏の『フーコー 主体の系譜学』は現在講談社学術文庫化)、そのなかでもっとも彼のたくらみに触れやすい書籍だと思う。
フーコーの書籍を「読む」ことに重きを起き、そこから彼の思想を他の書籍なども引きながら紹介していく本書は、後半になるにつれて著者のギアがあがっている印象はあるが、ライトな書き口で読みやすかったし、唸らされた。
現代社会が大きな監獄に見えてくるので、漠然とした生きづらさを抱えている人はその根本要因が言語化されていて気持ちいいかも。
Posted by ブクログ
一見は軽妙な語り口。『監獄の誕生』を淀みなく読んでいる気持ちになってしまう。
著者が示すフーコーを読む「作法」がなにより参考になる。特に終章のことばが頂門の一針という言葉以外思い浮かばなかったほど、フーコーから権力との付き合い方を教わろうと思っていた私には深く刺さった。
フーコーを読みたい。そして自分と社会の今を考えよう、そう思えた。
・P192:フーコー自身、権力について「何が」「誰が」ではなく「どのように」を問うべきだとくり返していた。これは言いかえれば、権力にどちらの側から接近するべきかについて、その接近方法をなぜとるのかの意図だけでなく、そこから何がどのように見えてくるのかの帰結も含めて常に敏感であれということだ。
・P209:(監獄の失敗から)フーコー:警察なんて最近できたうっとうしい制度、犯罪者集団がいなきゃ誰も認めませんよ。
・P213:権力は人の相互作用を通じて、戦略的に作用する。
・P230:系譜学とは著述の方法というより、むしろそれ以前のところ、政治的直観に基づく「立ち位置」に関係している。
・P234:流行は消費されるが、時代とまともに向き合うとは、それ自体消費に抗う営み。それは現実を、人々の痛みや軋みを、それが逃げ去ってしまう前に一瞬でとらえようとする熱意の言いかえなのだ。
・P238:彼の著作はまさに理解に抗うところがある。結局何が言いたいのか、どんな「オチ」なのかよく分からない。・・・なぜなら現実の世界には明確なストーリーもオチもないからだ。
Posted by ブクログ
解説書であれ一般への紹介書であれ、フーコーをテーマとする本を読んだのは初めて。
この重田という明治大学の先生の名前は、初めて見た。ずいぶん若いし、校内暴力で中学校が荒れていた世代、しかも悪名高い愛知県管理教育を受けた人。だから「監獄の誕生」に魅せられているのか。
重田の個人的想いがいたるところに横溢しており、堅苦しくなくて面白い。読み流す中で「フーコーの思索・思想」についての興味が出てくるということで、思想・政治・社会についての100%素人でも興味深く読めるという点でオススメと思う。
Posted by ブクログ
感動した 代表作の『監獄の誕生』にだけ焦点を当ててるんじゃなくて他の著作や研究者の著作からも引っ張って来てるからいい意味で「他人事」として読めた フーコーの隠れた熱意みたいなものが著者のおかげで見れて嬉しかった
Posted by ブクログ
・18世紀の犯罪
フーコー先生の指摘「18世紀の犯罪は従来のイメージと異なり、17世紀ほど暴力的なものではない」というのが、すごく興味深かったです。
具体的には、「飢えた赤貧の人々が暴走する形で起こっていた殺人や傷害など身体への危害を伴う犯罪が18世紀には減少し、また大規模な強盗団や武装した密輸団なども姿を消しつつあった。これらの犯罪は、人目を偲んだ少人数の巧妙な犯罪や職業的な悪党による詐欺や盗みへととって代わられつつあった(p79)」だそうです。
レミゼではパリでのテナルディエやパトロン・ミネットもまさにそうなので、ユゴー先生は当時のパリの犯罪について的確に描写しておられたんだなと思いました。
・犯罪構造の変化の理由(p80)
前項の犯罪の変化について、フーコー先生は取り締まる側(司法装置)が17世紀以降変容していたことに起因するのではと指摘されてるそうです。
それまでは司法装置は「暴力的な犯罪にそれを凌駕する力の行使で臨む」方法をとっていたそうですが、17世紀以降は多様で巧みな介入で犯罪に対応し始めたそうです。
具体的には「放浪の厳重な取り締まり(『狂気の歴史』に詳しいそうです)」「小さな違反を見逃さない方の網目の構築」「ポリスの装置の導入による、大掛かりな犯罪組織の追求と撲滅」などなそうです。このポリスについては、のちの章でまた詳しく解説がありました。
こうした司法の変化と社会自体の変化から、犯罪は「綿密に計算されたプロの小規模集団による、人目を忍んだ商品や金品の搾取」の方向に変わっていったという指摘でした。パトロン・ミネットですね。
・犯罪と刑罰
「処罰とは罪を犯した本人より、将来犯罪に走るかもしれない一般大衆に向けたもの」というベッカリーア先生の啓蒙主義的刑罰思想に、ふむふむ確かにと思いました。犯罪に対して刑罰が軽過ぎれば人々はチャンスを捉えて犯罪を繰り返し、逆に重すぎるなら「恣意的な権力行使」と非難され、また刑罰と犯罪の相関関係が傍目に分からなければ、同じ非難を受けたり抑止力を欠いたりする危険がある、とのことです。
刑罰の軽重についてはレミゼ第1部でのバルジャンも、「俺は確かに盗みという悪事はした、だが刑罰が重すぎる」と恨んでましたね。彼の場合は脱獄しまくったので刑期が伸びたんですが。
・ポリス(行政警察)
私もよくわかってない話なので、このテーマの書籍も読みたいです。
フランスの警察活動は1795年の「罪刑法典」に基づいて司法警察(Police judiciaire)と行政警察(Police administrative)の二つに分かれているそうです。1808年の治罪法制定により法律上の区分は廃止されたものの理論上は区分が維持され、現行のフランス刑事訴訟法でも両者は区別されているそうです。
行政警察活動は「道路交通の管理」「路上デモ活動の整理」「暴動鎮圧部隊の配置」、司法警察活動は「犯罪被疑者の追跡と逮捕」「司法調査の各局面での被疑者の尋問」「証拠の収集」「捜索令状の執行」だそうです。
レミゼの警部殿のされてるお仕事は主に司法警察のお仕事な気がしますが、よく分からないのでもっと勉強したいです。
『ミシェル・フーコー 近代を裏から読む』での話に戻ると、ポリスは「社会の隅々でくり広げられる日常生活のあらゆる場面、些細な出来事、闇にまぎれて姿を隠しかねない人々を、間断なくきめ細かに掌握するための装置」であり、その目的に適っていたのが規律のテクニックだそうです。
規律がポリスにとって最良の道具であり、王権が行政を通じて国土中に広めようとしたポリスの装置が、規律が一般化するための強力な回路になっていったんだそうです。
『監獄の誕生』によれば、ポリスは規律が普及する契機の一つに過ぎないそうです。家庭や学校、監獄、仕事場など様々な場所に規律が浸透していきましたが、それらのどれか特定の場だけが規律と同一視できるわけではないそうです。
Posted by ブクログ
『監獄の誕生』を紹介する件では、なんだこの著者はと思った。が、その肩肘の強張りを外した「最後の数ページ」には、この著者のイワンとしたことが力みなく伝えられている箇所に出会った。
途中で諦めないでよかった。
Posted by ブクログ
ミシェル・フーコーの持つ魅力を、「監獄の歴史」を中心に、できる限り分かりやすくならないように、でも分かりやすく伝えてくれている本。
著者が、フーコーをこよなく愛していることがすごく分かりました。
「監獄の歴史」を頑張って読んでみようと思います。
Posted by ブクログ
チラチラとハゲ頭がちらつく、などのユーモアや著者のフーコー愛が伝わってくる。フーコーの、というより、監獄の誕生を通じたフーコー入門書。
国家理性論のあたりから難しくなったが、おおむね理解できた気がする。権力の狡知。非常事態とシュミット。
Posted by ブクログ
内容はさておき、たぶん好みが分かれる書き方で「実はさっき気づいた」とか出てくる。個人的にはこういう雰囲気は嫌いではない。
内容については入門書としてある程度指標になってくれてる気がするのでよかった。
何よりこちら側にもフーコー読んでみよかなと思わせてくれるのがいい。
Posted by ブクログ
ダミアンの残酷な処刑風景 p冒頭
【記号としての刑罰】p97
『言葉と物』第3章「表象すること」第4節「二重化された表象」
刑罰は犯罪の記号、あるいは記号の中のシニフィアンと呼ばれる能記。刑罰を見れば人の頭の中で犯罪が思い浮かぶということは、犯罪とは刑罰という記号において意味されるもの、すなわちシニフェ(所記)である。
[古典主義時代末期、近代の入り口にあたる18世紀後半に存在した刑罰の3つの体系]p99
①時代遅れになりつつあった身体刑の体系。
②刑罰と犯罪を記号として結びつける啓蒙主義の体系。
③監獄。
【「統治性」の研究】p146
近代国家―ポリス―規律権力
【ディスクール】p154
国王封印状を求める嘆願書の中の呻きや悲嘆、浮浪者の数や状況を記録する文書、そして施療院に収容された者立ちについての報告、売春婦による治安当局への密告の記録、罪人の尋問調書も、こうした「知」の一部をなしているのだ。どうまとめたらいいのか分からないこれらの言葉の集まりを、フーコーはとくに「ディスクール(言説)」と呼ぶことがあった。
【国家理性】p162
国家理性とは、近代主権国家がキリスト教普遍帝国から自立を要求するための一つの表現であったことが分かる。
【生権力とは】p184
規律権力について調べを進める中で見出された、生をめぐる権力。この権力は、法を楯にして剣を振りかざし、死をちらつかせて被治者を脅すのではなく、生そのものに介入し、コントロールし、支配し、生きて生活する人間により多くのものを産み出させるような権力だった。⇔君主の絶対支配が握る生殺与奪権。
Cf. 金森修『<生政治>の哲学』
【フーリエ主義】p200
シャルル・フーリエ
「普遍の僭称」(とりわけブルジョワ的な尺度の規範)を反転させることで、既存の価値観が政治的な構築物であること、権力作用の結果であることを示した。
Posted by ブクログ
社会で正常者と異常者を区別し規律を守る為の道具として、監獄は非常に有用だというお話し。特に反体制的な思想と暴力とが共鳴しないよう、ブルジョアが監獄を生み出したと。ニーチェ以来の系譜学とか考古学とかそっちの方面から見るとそういう意見もあるのだろう。
ただもっと素直に見ればいいのにと思う。確かに啓蒙主義的な観点から身体刑から自由刑に変化したというのは胡散臭そう。そんなことより納得しやすいのは、政治の民主化が進み体制の変更が選挙で行われ、そもそも体制保持のための見せしめの身体刑が不要となったこと。実際に、体制を死守しようとする旧社会主義国では大量に粛清が行われ、死刑としての身体刑はあったわけだし。また、以前は社会が物質的に貧しく罪人を禁固にしても養えないためやむを得ず死刑にしていたが、社会が物質的に豊かになり、食料や看守や監獄などのシステムを罪人に対して与えることができるようになったこと。
社会の網の目のような互いを互いに監視するような社会に不満がある人は、そのようなシステムが無くても自分が絶対に不正をしない、犯罪者にならないという自信のあるものだけだ。もし、他者の自由を侵害しない限りにおいて自己の自由を保障するという原則を前提とする限り。
仮に、自己が自己を律することができるという目標に向かって突き進むのであれば、それはむしろフーコーが批判しかねない近代的な理性の視座ではないだろうか。
だから個人的に子供パトロールは必要だと思っているのです。
Posted by ブクログ
著者はフーコーに惚れている。あとがきにて、「大好きな人の大好きな本についてなぜ好きかを書いて出版できるということは、それ自体とても幸運なことだ」(p.268)、と書いてしまうほどだ。フーコーという巨人の肩に乗って遠くを見通したいという願望があるのだと思う。
フーコーの数多い著作の中で、著者は『監獄の誕生』を特別視している。この本も最初は『監獄の誕生』についての本を書こうという目論見であったのが、そこに収まりきらなかったため結局『ミシェル・フーコー』というタイトルにしたとあるが、この本はやはり『監獄の誕生』に関する本として読んだ方がいい。『言葉と物』なんて『監獄の誕生』可愛さ(?)に巻末の参考文献説明で、「この本がさっぱり分からなくても落ち込むことはない。分かったところで、生きる指針を与えてくれるような内容でもない」(p.249)なんて言ってしまうほどだ(正しい?)。
フーコーは、過去の断層の向こう側の文献/言説を丹念に掘り起こすことで、すでに回りにあってあまりに当然と思っているが突き詰めて考えると全く当然でも何でもないものだということを炙りだすという手法を採る。『狂気の歴史』も『言葉と物』もそうだし、『性の歴史』もそうだ。『知の考古学』ではそのやり方について自ら解説もしている。その魅力については、著者の次の文章がよく言い表している。
「フーコーの著作はどれも古い時代から説き起こし、独特の迂回路を経て現在へとつながっている。かといって現実との関係が薄いかというとむしろ逆で、なぜこんな昔のことを書いているのに強烈に「今」が浮かび上がるのか不思議なほどだ。それが彼の人気の秘密なのだろう」(p.229)
「監獄」や「刑罰」はその最たるものであり、『監獄の誕生』は著作の順番からいってもその集大成とも言える。突き詰めて考えると「犯罪」を犯して「監獄」に入れられる根拠をは正義にもよらないし、社会的効用の最大化という理由でもない。それは「主権」、「自由」、「責任」さらには「身体」というものを通した内面化した権力による統治の仕組みに関連するものだ(と思う)。
今後、一定以下の世代においては、ほぼ全ての人がひとつ以上のソーシャルネットワークのアカウントを持つであろう時代において、フーコーが描写した「生権力」や「規律」というものがどのようにその意味を変えることになるのかは検討に値する課題であるように思う。ソーシャルネットワークに実名で向かうことで「規律」はより精緻に内面化されるとともにコントロールされ、自ら書き込むという所作を通して強化されるようなものではないかと思う。それは、かつて「権力」という言葉によって誰もが想像するような権力とは違うものだ。その意味でも、今現在においてフーコーが言う「断層」が多くの地点で発生しつつあるのではないか。分析対象としてのアルシーヴはかってないレベルの量とアクセス容易性を備えている。そういう観点でフーコーと今とをつないでくれる考察はないものかと思う。ちなみにタイトルから、ジョン・キムの『逆パノプティコン社会の到来』はその種のことを扱っているのかと思ったら全く期待外れであった(勝手な期待ではあったのだけれども)。
フーコーを研究するものは、フーコーが試みたことを読み解くだけでなく、フーコーが試みたことを現在の課題に適用して鮮やかに切り取ることも試みてくれないかと思う。著者はきっとこの世界では脂がのった新進気鋭の若手女性研究者と目されているのだと思う。次は肩に乗った先に見た景色を描写してくれることを期待している。
さて次は積ん読本になりつつある中山元を読もうかな。
Posted by ブクログ
フランス現代思想家の入門書の中でも類書が最も多いのはミシェル・フーコーだろう。このことはそれだけフーコーの思想が注目されていると同時に、単純化や歪曲されて受容されていることの証左かも知れない。もちろん優れた先行研究があることを全否定するつもりは毛頭ない。
本書が注目するのは、中盤の労作『監獄の誕生』だ。これをフーコーのひとつの到達点と見なし、議論を配置する。初期の『言葉と物』が認識構造を問うものだとすれば、周到な「まなざし」を丁寧に分析したのが『監獄の誕生』であり、それは後期の『性の歴史』へ展開・応用を予告する周到な準備でもある。通常『言葉と物』ないしは『性の歴史』が重宝されるという受容状況があるが、認識と実践が交差する『監獄の誕生』抜きには、フーコーの関心や実践(例えば「監獄情報グループ(GIP)」の立ち上げ)を理解することは不可能だ。
権力はどこに存在するのか--。
彼岸に存在するのではない。フーコーは可視化された権力よりも自ら服従していく規律権力こそが問題だと喝破した。読んでいてすがすがしい一冊だ。後に展開される統治性や生権力との関わりについても丁寧に著者は描写する。フーコーの権力論は、フーコー自身がその実存として関わったという経緯を情熱を込めて描く手法には感動さえ覚えてしまう。
まなざしの網の目から抜け出すことは現実には不可能だろう。そしてひとつの網から抜け出したとしても十重二十重に再構成されるのが世の中の常なのかも知れない。しかしそうした不可避の権力性にどのように対峙し“続ける”ことが可能なのか。
一見すると取り囲みに無力になってしまう自分が存在する。しかし著者が読み直すフーコーの足跡を辿ると希望を見出すことができる。フーコーの入門書はあまた存在するが、まずは本書を最初の一冊としてすすめたい。
Posted by ブクログ
やっと読み終わった…。1度目は????????2度目で???!!!。筆者は章ごとの概要を図示しながら読み進めてようやくフーコーの頭の中を少しだけ理解できました。本の帯には「入門書で感動したことがありますか?」と書かれているけど、この入門書の解説本がほしいくらい(笑)ただただ丁寧に読み進めていけば理解できない事は決してないので頑張って負けずに読み進めてほしい。後半の統治性・国家理性・生権力の行を理解出来たら完璧です!色々書いたけど、この本を読んでから『監獄の誕生』を読むと理解が格段に増しますよ!
Posted by ブクログ
「現代思想入門(千葉雅也著)」「疾風怒濤精神分析入門(片岡一竹著)」「ミシェル・フーコー 自己から抜け出すための哲学(慎改康之著)」からの流れ読みだ。
フーコーの思索への尊敬と親しみを感じている著者が学生に講義するように口語調で語られている。「フーコーは専門分野を持たず、永遠のアマチュアだった。(後略)」(39頁)、ここでは短いがフーコーへのアプローチの方法がさりげなく示唆されている。なるほど。
フーコーの解らなさを深掘りすることで、世の中を見る新たな「眼」が得られるということだ。
Posted by ブクログ
高校2年現代文教材に「私はどこへ行く」という哲学系教材がある。
内容は、
今まで、デカルトの心身二元論によって意識する私が主導権を握っていたが、デジタルテクノロジーの発達によって身体的な私が主導権を持つようになった。これによって、今までの権力者と非権力者という構図が成り立たなくなる。
21世紀はデジタルテクノロジーによるパノプティコンの時代である。
…というお話。
一体、パノプティコンってなんだ!?と思って本書を手にとった。
本書は一般的な入門書とは異なり著者の熱意が伝わる読みやすい本。
是非、読んでみてほしい。
サイコパスというアニメにもパノプティコンは登場しますね。
知っていると楽しめます。