あらすじ
桜井章一の流儀はこうだ! 変化に合わせて生きていけば動きは柔らかくなる/いい仕草は「流体のカラダ」から生まれる/「一口食べる」感覚で力を抜く/強い人は動作が見えない/耳で見ろ!/軸は取ったほうが勝つ/カラダが消しゴムになって、いい動きを消してしまう/底力を引き出すカラダの整理術<実践編>等々……かつて棲んでいた「感覚の世界」を取り戻そう。
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Posted by ブクログ
チェック項目12箇所。力が入ると何事も嘘っぽくなる、力まず、そっと触れるという感覚、力を入れる生き方から離れて、そっと触れる感覚を取り戻せば、どんなものごともスムーズに何かを成せることをカラダは素直に教えてくれる、幸せもつかみにいくのでなく、そっと触れる感覚を持てたときに、本当の幸せを感じるのかもしれない。カラダを使った遊びのおもしろさ、人が成長するにつれ、言葉を増やし、知のほうへ行くに従ってそれは見えにくくなるが、本来は本能に根差した無条件の喜びを伴うものだ。「力を抜く」ということは力が入っていない状態だが、これは何に対しても「~しよう」という思考の癖を持っている人にとっては難しい、だから、力を抜こうと思うのでなく、カラダの動きを流れにするという感覚を持ったほうがカラダは素直になるかもしれない、カラダが素直になる、正直になるということが、カラダのもっとも自然な状態なのである。カラダを正直にすると、気持ちも正直になる、それが、みんな気持ちから入って「気持ちを正直にしいよう」とするから、嘘っぽくなるのだ、気持ちをいくら正直にしたつもりでも、カラダに対しては正直になれない、カラダはどこか力が入っている。目線は地面と平行でなく、やや上にして遠くを見るようにするといい、立った状態で目線を下にするときと目線をやや上にするときを比べてほしい、目線がやや上を向いていると、気持ちが広がっていく感覚があるはずだ、カラダも流れだし、動きも軽くなる。カラダというものは部分でなく、全体で考えるべきだ、部分だけに囚われてあれこれ努力したりするのではなく、全体のバランスの中でこの部分をどうしようという発想をしないといけない、そうしなければ、必ずおかしなことになるものだ。指が開いていないと不自由に見えるが、軽く閉じたものが自由に力を操れるのである、だが、生活習慣などで指を開く癖がついていたりすると、相撲をとっている最中に微妙に開いてしまうことがあるのだろう、また指を開いてしまうことでカラダが硬くなってしまう。膝が痛くなったり、腰痛になるのも、すべてはカラダが下に下がって負荷が膝や腰に強くかかるからだ、その意味でも、縦の動きをふだんからよくしている人は、歳を取ってもカラダ全体が下へ下がるスピードが遅くなるのである。素直な人は癖が少ない、素直とは「素」になることである、背伸びも飾りもない自分の基本に戻ることである、人が素の状態でずっといることがもしできれば、癖はできない。人は動物である、動物というのは動くから動物なのだ、働くという文字も「人が動く」と書く、常に動くことがすなわち生きるということである、変化という流れの中で生きていれば、当たり前のことだ、生身のカラダを持っている限り、人のカラダは絶えずどこかへ動こうとする本能的な意思を秘めている。
Posted by ブクログ
ギャンブラーが身体の事を語ることができるのか?という問いがある。
しかし、そのような問いなど全く無意味かのように、スパスパと本質を語っているように思った。
この本は、気功、体操、整体、の棚には無く、ギャンブルの棚にあった。ギャンブルと身体が繋がらないように感じたのだが、その面白さもあって購入した。
ギャンブルと身体の関連性については「触れる感覚」が大事であるということ。チャンスは掴んではいけない。チャンスは触れなければならないと言う。それは身体が固い状態で、掴みにいっては駄目だということ。体の流れを意識し、ゆるりと目的に触れる大切さ。それが大事であるということ。
筆者に気功、体操、整体の知識があるかどうかわからないが、それらをギャンブルでも意識しているという事実がある。専門用語を使うことによって表現される嫌らしさがなく、ごくまともな、自然な言葉使いが体への深い理解を生む。