あらすじ
徳川の世は泰平。人びとはどこへでも旅ができる喜びを実感する。旅といえば辛く悲しいという中世以来の意識は劇的に変化し、「楽しい」「面白い」が紀行文の一つの型となり、さらに「いかに実用的か」が求められるようになる。辺境への関心も芽生え、情報量も豊富になっていく。好奇心いっぱいの殿様の旅、国学者のお花見、巡検使同行の蝦夷見聞などを通して、本書は江戸の紀行文の全体像を浮かび上がらせるものである。
...続きを読む感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
「江戸の紀行文」を読む -2011.06.10記
著者板坂耀子は’46年生れ、昨年3月、福岡教育大教授を定年退官した、と。
曰く、芭蕉の「おくのほそ道」は名作だが、江戸時代の紀行としては異色の作であり、作為に満ちて無理をしている不自然な作である。この異色の名作「おくのほそ道」でもって、江戸期に花開いた二千五百に余る数多の紀行が、正当な評価も得ることなく、文学史から顧みられることなく終始してきたことに対し、まず一石を投じ、俳諧の世界ではともかく、紀行作家たちの中では、芭蕉の影響は皆無に近く、彼やその作品と関係ない場所で、近世紀行を生み育てる営みは行われていた、と。
その背景には、「参勤交代というシステムが、各大名を軸として中央の文化と地方の文化を上手に混ぜ合わせ-略-、各藩毎の地方文化を、少なくともその上澄みの部分に於いては極めてハイ・レベルで均質なものとする事に成功した。」という中野三敏-西国大名の文事-の説を引き、旅が娯楽化し、都から鄙へという図式が崩れていったことがある、と。
芭蕉より少し時代を下った江戸中期の上田秋成が、紀行「去年の枝折-コゾノシヲリ-」の中で、旅先で会った僧の意見として、芭蕉に対し悪態をついているとして引用している。
「実や、かの翁といふ者、湖上の茅檐、深川の蕉窓、所さだめず住みなして、西行宗祇の昔をとなへ、檜の木笠竹の杖に世をうかれあるきし人也とや、いともこゝろ得ね。-略- 八洲の外行浪も風吹きたゝず、四つの民草おのれおのれが業をおさめて、何くか定めて住みつくべきを、僧俗いづれともなき人の、かく事触れて狂ひあるくなん、誠に尭年鼓腹のあまりといへ共、ゆめゆめ学ぶまじき人の有様也とぞおもふ。」
以下、二章から十章までほぼ時代を追って、異色の芭蕉ならず、主流となった江戸紀行の作者たちを紹介していく。
名所記としての、林羅山「丙辰紀行」-1616頃-
寺社縁起としての、石出吉深「所歴日記」-1664頃-
実用性と正確さに徹した、博物学者貝原益軒の紀行「木曽路紀」-1685-「南遊紀事」-1689-
益軒の曰く、「詩のをしへは温厚和平にして、心を内にふくみてあらはさず。是、風雅の道、詩の本意なるべし。-略-ことばたくみにしかざり、ことやうなる文句をつくりて、人にほめられんとするは、詩の本意にあらず。故に詩を作る人、学のひまをつひやし、心をくるしむるは、物をもてあそんで、志をうしなふ也。かくの如くにして詩を作るは、益なく害ありて無用のいたづら也。風雅の道をうしなへり。歌を作るも又同じ。」-文訓-
古学者本居宣長の「菅笠日記」-1795-
宣長は、見るもの聞くもののみならず、自らの心の内にわきおこる、さまざまな相反する感情まで何一つ切り捨てず、最大限にとりいれてこの紀行を書こうとした。彼の文体は、明晰で平明で、かつ雅文の格調や品位を失うことがない。益軒が生み出した力強さや多彩さをとりいれつつ、ひとりの個人の内面を描く古来からの日記文学とも合体し、新しい時代の紀行文学として成立させている、と。
奇談集としての、橘南谿「東西遊記」-1795頃-
古川古松軒の蝦夷紀行「東遊雑記」-1788頃-
女流紀行としての、土屋斐子「和泉日記」-1809頃-
江戸紀行の集約点としての、小津久足「青葉日記」