あらすじ
郷里の村の森を出、都会で作家になった語り手の「僕」。その森に魂のコミューンを築こうとする「ギー兄さん」。2人の"分身"の交流の裡に、「いままで生きてきたこと、書いてきたこと、考えたこと」のおよそ総てを注ぎ込んで"わが人生"の自己検証を試みた壮大なる"自伝"小説。『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』に続きその"祈りと再生"の主題を深め極めた画期的長篇。
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Posted by ブクログ
柳田国男が現在の成城に居を構えたことがあると知って、ぎくりとした。Kちゃんがやろうとしたことがまさに民俗学であったからだ。共同体で語られる物語/歴史としての神話をまとめる者。
ギー兄さんは作者自身をも含むさまざまな人物像の集合だと著者が言っててなるほどなと思った。長兄の投影でもあるし、自分の理想像の投影でもある、またその他多くの人の断片の結集としてのギー兄さん。
カトー=ギー兄さんとも読めるような気がする。先導者かつ巡礼者であるギー兄さんを案内する異端者かつ自殺者のカトー=ギー兄さん。「ギー兄さん」のモデルの多面性を考えるとあり得ると思うのだけれど。ただこの辺りは『神曲』を読み通してないとうまく掴めない箇所なのかもしれない。
『神曲』を全く読んでないから分かんないのだけれど、「巡礼」のような行動を登場人物たちはよくとる。ギー兄さんにしたって出所後に日本各地を回っていたし、僕=Kちゃんも、小さな範囲で言えば「在」の屋敷と谷間の村、やや広がって松山、そして東京、中国、メキシコシティ──。
物語の構造も面白い。最初に色んな登場人物やら用語やらがわんさかでてきて、それから回想をいくつも挟みながら次第に物語が進んでいって流れが掴めてくる。主人公の記憶を辿りながら読者は読み進めていくのだけれど、この小説はそこそこ長いのもあって読者も完全に時系列なんかを整理しながら読めるわけじゃない。そうするとだんだん主人公の記憶と同期して読者は物語に入り込めるというか、個人の記憶を時間をかけて追体験するという構造になる。
そうした「記憶」はぜんぶ言ってしまえばフィクションなのだれど、太平洋戦争とか安保闘争みたいな歴史的な事象と結びついていく。フィクションのキャラクターが現実の歴史に影響を受けていく。
『奇妙な仕事』、『個人的な体験』、『万延元年のフットボール』、『M/Tと森のフシギ物語』みたいな大江健三郎のかつての作品も語られていく。それらは作品内ではKちゃんが書いた小説なのだけれど、どうしても読者は大江健三郎と重ね合わせてしまうから、フィクションがフィクションを呑み込む形になる。『万延元年』の冒頭の紅い顔やキウリの話が実は架空の存在であるギー兄さんに由来すると語られると、フィクションと現実の境がますます分からなくなっていく。
ひとつの物語がどんどんと大きくなって、過去の作品とか、史実とか、村の神話とか、筆者個人の話なんかに結びついていく。でもぜんぶが同じ物語を共有しているわけではなくて、少しずつ異なった輪郭を持つ。それらすべてを接合させるかのような何通もの「手紙」としての本作。「懐かしい年」っていうのは、いくつもの色んな年を指しうる。
Posted by ブクログ
年代はめちゃめちゃに読み進めている状態なのだけれど、「木から下りん人・隠遁者ギー」と、『燃え上がる…』の括弧付き「ギー兄さん」は知っていても、ギー兄さんとは誰か、というところがすっぱぬけていたので、やっと少し穴が埋まったような気がする、と同時に、ようやく最近読んだばかりの『ドン・キホーテ』前編によって『憂い顔の童子』の「憂い顔」の意味が分かったばかりで、今度はダンテか…(大体イエイツも読んでないし…)と以前挫折したダンテを遠く思うような。
それにしてもこの『懐かしい年…』は私の最も好きな独特の言い回し、冒頭が一番読みにくい頃の大江健三郎の文章からは少し離れて来ているようだけれど、かといって『静かな生活』以降の女語りや読みやすい三人称の狭間にあるようで、600ページ程度あるのに、すらすらとても楽しく読め、何度も読んで石橋の強度を確かめうるような堅固らしい構造の中にありながら、それでいて逸脱していくような細部も非常に魅力的で、中でも近頃私が解しかねていた『感情教育』の作品、とりわけタイトルの意味について、ギー兄さんが「悪しき無邪気さから脱皮するという、たいていの男が結婚前にすましておかねばならず、成績はBであれCであええ単位をとっておかねばならぬ、感情教育(エデュカシオン・サンチマンタール)…」と説明してくれたことによって、なるほどとそういうことだったのかと膝を打ちつつ、『感情教育』から、さらに映画の『ポンヌフの恋人』を見つつ、私が読み取った「結局幾度か死んで行くことでしか生き延びて行けない我々」という思いに苦々しさを感じたが、しかしこのギー兄さんの、さらに続く「この悪しき無邪気さということは…(中略)でも、痛めつけられる無邪気なホラ吹きの方が、攻撃をかける海千山千の連中より魅力があるし、どんなにひどいめにあわされても、結局のところホラ吹きの方がいいめをみることになるのです。Kちゃんは、この無邪気さにおいて突進してゆくのでしょう。無邪気さから蒔いた種子に苦しむのでもあるでしょうが、むしろそれは作家として良い条件にもなりうるのじゃないでしょうか?たいていの作家が、いわば『無邪気さに呪われた者』です。」という言葉によって、幾度も手ひどい目にあいながら、そして一時的には「非常に静かな悲嘆」というものを語りながらも、その巻き返しは必ずやってくるエネルギー、老年になっても「跳ぶ(リーブ)」をやめられないでいるKにドン・キホーテを重ね合わせるのはもっともであると感じながら、生身の部分をさらけ出しながら生きて行く、ある人々にとっては、いつまでも治癒しない生々しい傷口をいちいち見せつけるられることに苛立ちを覚えずにはいられない、この小説で言う「ナイーブ」あるいは「ヴァルネラブル」さこそが、彼が私をずっと、彼を過去の人物として葬らせることを許させず、はらはらしながら今後の書き様(彼としては生き様とも言える)を見守らせるものなのである、生き生きとしたものであると痛感した。
あとp462からの、『個人的な体験』に訂正を入れて行くところは衝撃的だった。もちろん彼ならば十分にありうるし、そこが彼の良さであり、だからこそ、あのような一時的ハッピーエンドが、「その時点のものとして」やはり消されてはならない、そのときの彼の選択である、のちにこのような訂正の可能性を示されるとしても、と強く思うし、このような感情は作家に対する「信頼」である。
Posted by ブクログ
評価が非常に難しい本(笑) 巨大な物語であり、作者なりの大きい構成(目次)などを見てもそれはワクワクするのだが、登場人物たちにいちいちイライラさせられるのである笑 基本的にはギー兄さんの物語(を僕のいじらしい視線によって眺め通す)ということになるのだが、ギー兄さんも魅力的とは言えないし、あと大江らしき主人公の妹のムカつくこと。なんともいえない読後感です。まぁ大作だとは思いますが。作者にとって重要になったという点では間違いないと思うのですがねぇ……。
Posted by ブクログ
大江健三郎ならではダンテの神曲を頼りに自作の捉え直しを含んだ「自伝」的小説。
個人的には発表順に氏の著作を読んで来たので、面白く読んだ。ただ、この前に読んだのが「M/T〜」と「同時代ゲーム」の再読だったので、物語としてのダイナミズムは少し欠けるかと思った。
「懐かしい年」というのは、文字通りのイメージの昔を懐かしむという事ではなく、まさにここ数年の流行りの並行世界(しかもタイムリープ)と捉えられるのが面白い。(この後には純粋なSFにもトライすることになる。)
ただ、必ずしもここでの(懐かしい年そのものである)ギー兄さんの死がその(理想的な)世界が失われたことを表すわけではないのだけど、再生に向けた立ち上がりで物語が締めくくられることの多い氏の著作では、喪失感と悲哀を感じるラストになっていると思う。
p.s. (他の方の感想を見て)
ギー兄さんが手紙で「個人的な体験」の添削をするところは哄笑を禁じ得なかった。その上で、添削はすまいと、決断するところまで書いているのにはグッと来た。