あらすじ
天保9年、金六、宇三郎兄弟は、松前を出帆、江戸に回航途中、西風に遭い、漂流6ヵ月、天保10年、米捕鯨船に救助され、ハワイ群島オワフ島に着く。兄と仲間3人を失った宇三郎達生残りは、ロシア領カムチャツカ、オホーツク、シトカを経て、エトロフに送られ、天保14年9月上旬、宇三郎をのぞいて、松前城下に着いた。"自選全集"版未収録の芸術院賞受賞の鏤骨の名品。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
冒頭で主人公宇三郎の富山船長者丸での遭難とその後の彼の人生がかいつまんで紹介される。そして彼と越中東岩瀬村の船乗り仲間十人が遭遇した海難事故の顛末、漂流、漂着地での生活、帰還へと続く困難で絶望的な体験が展開される。
よくある漂流譚は、どうなるかわからず迫る災難に生きるか死ぬかのものが多いが、この話の宇三郎は故郷には帰らないが、最初の漂着地ハワイに戻りそこで結婚し子供にも恵まれそれなりの生涯をまっとうするということがわかっている。しかし、その時の彼らは荒天のなか舵の効かない水漏れ船で飢えに苦しみもがき抜く。登場人物たちの心の動き、その繊細で微妙な描写はそれぞれの人柄を浮かび上がらせ臨場感がある。
一人残った宇三郎は先の漂着し仮寓したウワフ島の時計職人から入婿を懇望され結婚する。一緒に生活した時の混血児の娘オイレンの彼への想いにつまされほっとして暖かいものが漲る。
筆者の億劫でついでに書くような何気ない文章は背後に何倍もの思いを感じ想像を楽しませる。
漂流中、兄の金六が責任を感じて自殺したり、五三郎や善右衛門が飢餓で死に、二人が帰還途中病気で倒れる。最終的に出航から十一年後、宇三郎を除く四人が厳しい鎖国体制下、当局の冗長極まる手続きを経て出身地の東岩瀬村に帰り着く。
宇三郎は帰還途中仲間とのいざこざがあり、故郷に帰らずオアフ島に戻ることになる。
彼は漂流中、貴重な生米のなかに見つけた糯米(もちごめ)の籾(もみ)一粒と八左衛門の生き形見の粳米(うるち)の籾一粒を神棚の引き出しに大事にしまう。それを漂着したところで蒔いて育てようと考えていた。
この種籾がこの物語のもう1人の主人公である。
漂着して最初に住んだオアフ島の時計屋親娘の家の庭に苗代をつくり種籾を蒔く。オイレンも一緒に覗き込む姿が想像できる。
本当に芽が出るか、発芽しても育つか、手入れはどうする、育ったあとはどうするのか、帰還のため一時はそこを捨てた宇三郎を尻目に、気を揉むこと頻りであった。
宇三郎や仲間たちが故郷に帰るために数奇な運命にさらされている間、種籾のことはまったく知らされない。しかしその間も、この種籾は着実に生命の息吹を育みすくすくと成長していた。それを知った時の気持ちは何とも言えない。
だからといって、その後の稲栽培を格別何とかするわけでもない。あくまでも何気ない文章の淡々とした書き振りなのだ。
筆者十年後の作品『黒い雨』を読んだ時の原爆症に怯える姪と叔父夫婦の命の儚さへの愛惜を思い出す。
それがこの作品ではふた粒の種籾に仮託される。
逆境に映える儚い命への賛歌は心を揺さぶり生きる希望を呼び起こす。