あらすじ
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日本、アメリカ、中国等で大ヒットした『海辺のカフカ』。カフカ少年とナカタさんのパラレルな物語に"癒し"や"救い"を感じた人も少なくなかった。けれども、本当にそういった内容なのだろうか?丁寧なテクスト分析によって、隠された構造が浮かび上がる。暴力が前面に現れつつある「九・一一」後の世界に、記憶と言葉の大切さを訴える、渾身の村上春樹論。
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Posted by ブクログ
小森陽一氏の村上春樹論である。『海辺のカフカ』を再読した後、この本を読んでみようと思い立ち、再読をして今回読み終えた。
自分自身の研究のアプローチに役立った点がある。自分が援用しようとする理論を十分に説明した後で、それを作品の解釈に当てはめていく点である。まあ当然のこととはいえ、これをやることが必要なのだなと改めて感じた。
小森氏はこの『海辺のカフカ』において村上春樹を痛烈に批判する。そして文学の貶めるものだという。だが、かくいう小森氏の文学観はどこから来ているのだろうか。どうもそれが十分に説明されているとはいいがたい。その文学観はアプリオリに設定されていて、自明のもの、そしてそれしかないもののように扱われている。そしてそれに、『海辺のカフカ』は反している、と批判しているのだ。
その批判の論旨はそれなりに説得力がある。『海辺のカフカ』における「入り口の石」の意味など、新たに理解できるものもある。だが、氏が批判する『海辺のカフカ』に示された諸々のものを読者に提示するということも、また文学の意味合いであり、働きなのではないだろうか。
私には、村上春樹が『海辺のカフカ』で提示したことそのものこそが、現代日本の姿であり、現代という社会のありようなのだと思う。そうした中で我々は生きざるを得ないのであり、その中にあってわずかな希望を、ラストシーンで田村カフカ君が示しているのではないか。
無論、私は筋金入りの村上春樹ファンである。よって、批判意見はあまり賛成できないというバイアスがかかっている。それを認めた上でも、やはり小森氏の批判もまたある種のバイアスがかかっているように思う。