【感想・ネタバレ】安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方のレビュー

あらすじ

リストラ、転職、キレる若者たち──日本はいま「安心社会」の解体に直面し、自分の将来に、また日本の社会と経済に大きな不安を感じている。集団主義的な「安心社会」の解体はわれわれにどのような社会をもたらそうとしているのか。本書は、社会心理学の実験手法と進化ゲーム理論を併用し、新しい環境への適応戦略としての社会的知性の展開と、開かれた信頼社会の構築をめざす、社会科学的文明論であり、斬新な「日本文化論」である。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

他人を信頼することが本人にとって有利な結果を生み出す社会的環境と、他人を信頼しないことが有利な結果を生み出す環境が存在する。そしてその環境は我々自身が作り出している。

アメリカに代表される西欧社会における「信頼」崩壊に対する危機意識の高まりと一般的信頼の低下により。1990年代に入ってから、「信頼」に対する関心が急激に高まってきた。

お役所仕事は非効率の典型とされるが、その原因は無数の煩雑な規則にあり、それらは役人に対する国民の不信から生まれている。逆に、人体資本につながる関係資本が充実している社会では、煩雑な規則が生み出す非効率さは存在しない。

日本型システムに対する不信の拡大は、経済面では金融機関の信用の低下、リストラに伴う雇用不安という形で表れ、教育面ではいじめや不登校、校内暴力という形で表れた。これはこれまでの安定した社会関係のあり方が崩れつつあることの一つの表れで、欧米のような「信頼」の崩壊の問題ではなく、「安心」の崩壊の問題である。

「信頼」とは、やると言ったことを実行する能力を持っているかという「相手の能力に対する期待としての信頼」と、やると言ったことをやる気があるのかという「相手の意図に対する信頼」があるが、混同され、一口でまとめられている。この本で扱う信頼は、後者のみ。

社会的不確実性とは、相手の行動によっては自己利益を含む自分の「身」が危険に晒されてしまう状態である。

よって、信頼とは「社会的不確実性が存在しているにもかかわらず、相手の人間性ゆえに相手が自分に対して酷い行動を取らないだろうと考えること」で、安心とは「そもそも社会的不確実性が存在していないと感じること」と定義される。

これまでの日本社会を特徴づけていた集団主義的な社会関係のもとでは、安定した集団や関係の内部で社会的不確実性を小さくすることでお互いに安心していられる場所が提供されていた。

夫婦が離婚する確率は、一般に結婚後しばらくの間が高く、結婚期間が長くなるにつれて低くなる傾向がある。こうした背景のもと、総人口に占める割合が大きい団塊の世代が歳をとった結果として。1980年代後半に離婚率が減少した。

日本は信頼社会であり、アメリカでは信頼関係よりドライな契約関係が重要視されているという常識的な理解に反して、アメリカ人は日本人よりもずっと他者一般に対する信頼感が強い。

周りの環境やらで、それ以外に行動の選択の余地がない場合には、「心が行動の原因である」という前提は意味をなさない。つまり、日本における手段主義のような集団的心の性質は原因ではなく、社会の「構造」の中に存在している。だから、実験をすると、常識に反した行動が生まれることとなる。

「日本でのビジネス関係は集団主義な関係である」とは、人々が集団の内部で協力し合っている程度が、集団間で協力し合っている程度よりもずっと強い状態を指し、これにより集団の内部に留まっている限りは「安心」して暮らすことができるようになっている。しかし、これはよそ者に対する不信感と表裏一体の関係で、日本における信頼の育成を阻害する要因となっている。

「今まで一度も名前を聞いたことがないようなメーカーの製品は信頼できない」というのは、名の通っているメーカーは粗悪品を販売すれば評判が低下し、メーカー自身が被害を被るからが根拠で、これは「信頼」ではなく、社会的不確実性が小さいという「安心」の問題である。よって、信頼が必要なのは、社会的不確実性が大きな状態に直面した場合のみで、この場合に人々が取る行動は「相手を信頼する」か「社会的不確実性そのものを客観的に取り去る」かで、後者の方法としては担保の提供が挙げられる。

互いに好意や魅力を感じているコミットメント関係の形成は、一方では関係内部での社会的不確実性を低下させ、安心していられる環境を生み出すが、同時に他のより良い相手から得られるはずだった利益を犠牲にする機会費用を生み出す。よって、「よそ者」を避けた「仲間づきあい」が最も利益を生み出すかはわからない。

一人一人の個人が機会費用を払いながらコミットメント関係に留まっている状態は社会全体から見ると巨大な無駄である。

社会的な楽観主義者は社会的知性を身につける機会に積極的に向かうため、次第に社会的知性が身に付く。(高信頼者=「お人好し」)これにより、騙されて酷い目に遭う経験も少なくなり、ますます楽観的になり、社会的な知性が身に付く循環へ。逆に社会的な悲観主義者は社会的知性を身につける機会を避けるため、社会的知性を発達させることが困難で、そのため他人との関係で酷い目に遭う可能性がいつまでも付きまとう(低信頼者=「人間不信」)これにより、ますます悲観的になり、より社会的知性の発達の機会を遠ざける。

差別の文化は個々の人間の頭の中にあるのではなく、差別を生み出す行動を適応的な行動としている社会の仕組みの中にある。そして、その仕組みを生み出し、維持しているのは差別社会への人々の適応行動である。(企業において「女性はやる気がない」とされるのは、やる気を示すことで得られる利益が女性にないから。)よって、非鯖越的な行動が適応的になるような社会環境を作れば、差別はなくなる。

終身雇用では、能力が低いだけでは首を切れない。よって、経営者は一旦無能を雇ってしまえば定年になるまで無駄金を払い続ける必要がある。これは、人材採用に伴う不確実性が大きいことを意味する。これにより、男女や学歴といった雇用に際しての統計的差別の必要性が大きくなっている。そのため、終身雇用(日本型雇用)の崩壊に伴い、雇用が流動化することになり、言い換えれば雇用の安定と引き換えに、差別の撤廃を手に入れることになる。

日本社会が直面しているのは「安心」を提供してきた集団主義的社会の組織原理が機会費用の増大という形で高くつきすぎるようになったことが生み出した「安心崩壊」で、これには様々な組織における情報開示あるいは情報の透明性という担保による情報の非対称性を低めることによる社会的不確実性の軽減が有効である。

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2025年08月23日

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