あらすじ
リストラ、転職、キレる若者たち──日本はいま「安心社会」の解体に直面し、自分の将来に、また日本の社会と経済に大きな不安を感じている。集団主義的な「安心社会」の解体はわれわれにどのような社会をもたらそうとしているのか。本書は、社会心理学の実験手法と進化ゲーム理論を併用し、新しい環境への適応戦略としての社会的知性の展開と、開かれた信頼社会の構築をめざす、社会科学的文明論であり、斬新な「日本文化論」である。
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Posted by ブクログ
非常に勉強になる本でした。1999年に初版が出されていますが、この本で述べられている事象は年々強まっているのではないでしょうか。日本は信頼が崩壊しているという言説があることに対して、そうではなく「安心」社会が崩壊しているのだと著者は論じます。
本書では「一般的信頼」という言葉が重要な概念として紹介されていますが、これは見知った人をどのくらい信頼するかではなく、一般的に他の人をどれだけ信頼できるか、見知らぬ人がどれだけ信頼できるか見抜けるということを意味します。これは狭義の信頼にあたるのかもしれませんが、結論から言うと日本人はこの能力をこれから鍛える必要がある、なぜなら、そういう社会環境に日本がどんどんなりつつあるからだ、ということになります。
その理由を端的に述べれば、日本の経済社会が得意としてきた長期的コミットメント方式(企業の終身雇用しかり、取引での系列、グループ化しかり)は「ウチ」と「ソト」を明確に分けることで、「ウチ」の中での不確実性を低下させ安心を生み出してきたけれども、「ソト」に様々な機会があふれるようになってきた、つまり経済学的に言えば長期的コミットメントによる機会費用が大きくなってきた、という社会変化を意味します。たとえば雇用を例にとれば、2-30年前ですと会社の転職は非常に難しかった。つまり受け入れ先を見つけることが難しかったのに対して、現在は転職・引き抜きは当たり前ですし、起業という選択肢も珍しくなくなりました。つまり「ソト」に機会がたくさんあるなら、今の会社でじっと耐え続けながら人生を送り続けることは、あまりに非合理的、非効率的であるということになります。そしてこのように社会が流動的になると、どんどん新しい人と関係を築く必要がありますから、必然的に人間を見極める能力を鍛えなくてはならなくなります。
そして著者は社会的知性という概念を紹介しつつ、社会的知性は大きく2つあること、1つは「ウチ」のなかで見知った人の間の関係性を検知する「関係性検知能力」、もう1つは
見知らぬ人についてその人が信頼できるかどうかを検知する「人間性検知能力」だと紹介します。そしてこれまでの日本社会は前者の「関係性検知能力」に長けていることが重要だったが、社会が流動化し、「ソト」の機会を人々がつかむようになると、それは「人間性検知能力」を鍛えることになるだろうと言います。そしてこれこそが「信頼社会」と著者が呼ぶ未来像です。ただこれはスムーズに実現するとは思えない。なぜなら閉ざされた社会に居心地の良さを感じている人もいるし、あえて情報の非対称性というか、情報を外に出さないことで自分の優位性を保とうとする人がいるからです。
などなど記述は尽きませんが、さすがに一流の学者が書かれた本で、単に理論を披露しているだけでなく、実証実験の興味深い結果を多数紹介しているので、それだけでも一読に値します。しかも素人にも読みやすく書かれていますので、久しぶりに大満足の本でした。
Posted by ブクログ
読んで良かった。
安心社会にいる(もしくはいたい)人と信頼社会にいる人(もしくはいたい人)はコミュニケーションの方法が違うものだろうなと思った。
Posted by ブクログ
日本社会の特徴を語られる時、集団主義的で和を重んじるとか、閉鎖的な村社会だとか、言われることが多いように思うけれど、体感として、そんなことはないような気がしていて、和を重んじると言われる割には、他者に厳しいと思っていた。一方で、物を落としても戻ってくる世界的にも珍しい国だとも言われていて、それは確かにありそうだなと、体感では思っていた。では、日本社会とはいったいどんな社会なのだろうかというイメージが固まらずにいたのだけど、本書を読むことで、一定の整理ができたように思う。
日本社会は自分たちの仲間と見做す集団を固定化し、所属する人々の流動性を低くする(集団を構成する人があまり変わらないようにする)ことで、所属集団内でどのように振る舞うことが自分たちの利益につながるかをお互いが良く理解できている状態を作っている。お互いの損得に基づく行動規範が共有されているため、お互いの振る舞いをある程度予測することができ、それが社会の不確実性を低下させる、そのような社会を本書では「安心社会」と呼んでいる。この「安心社会」は、その性質上、よそ者に対して厳しく排他的、閉鎖的な側面を持つ。
このことは、社会全体の不確実性が高くない時には、集団外の他者との取引コスト(見ず知らずの人と取引して騙されるリスク)を低減するのに役立つが、社会全体の不確実性が高くなると集団外の他者を排除することによる機会費用(見ず知らずの人と取引したら得られたかもしれない利益)が増加してしまう。そして、現在、社会全体の不確実性が高まり、取引コスト<機会費用、となる傾向にあるため、これまで成立してきた日本の「安心社会」が変化を迫られているという。
とはいえ、本書は1999年に発行されていて、それから20年以上を経ている。それでも、なお本書で書かれた日本社会の特質に膝を打っているようでは、結局日本社会は「安心社会」からの脱却はできていないということなのだろう。本書では、「安心社会」の対概念として「信頼社会」というものが提示されている。集団内外の流動性が高く、集団外の他者を信頼する社会のことで、そのような「信頼社会」において、全く素性の知れない集団外の他者を信頼するために、人々は他者への共感や想像力により、相手の立場であればどのような行動をするかという予測に基づき、他者を判断することになる。
その前提には、他者も自分も最低限の価値観を共有しているという考えが必要になってくるのではないか。その最低限の価値観の共有がとても難しく、実際共有しきれていないため、現代日本社会で暮らしていて、他者への不寛容を強く感じるのだろうと、暗い気持ちになってしまったが、現状認識のためにはとても勉強になった。
Posted by ブクログ
COVID19をめぐる政府方針や社会的な雰囲気の影響で、社会心理学に興味を持った。この本が出版された1999年から果たして、どれだけ社会は透明性を発揮し、個人は一般信頼性を獲得したか。21年後に読んでも示唆に富む内容だった。
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このような考え方は、古代エジプトやシュメールなど古代都市においても使われていたように思われる。村社会から都市に移ってきた人が感じることは普遍的なのであろう。
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欧米諸国は契約社会とされるが,意外にその内容は細かくない気がしていた。一方,我が国では最近,取り決めが煩雑で良く言えば緻密,悪くいえばおせっかいな部分が多いと思っていたが,著者によると同族同士の安心感はあるものの,自らが属しているコミュニティの「外側」を信頼することは不得手であるという。何となく今までの違和感に一つの回答を与えてくれたように感じた。
著者の論旨が単なる感想や主張ではなく,社会心理の実験に根拠付けられていることが書かれており,説得力がある。
Posted by ブクログ
安心と信頼は似たように解釈される言葉だが、両者は大きく異なることが書かれています。放送大学の社会心理学で紹介されていたので読んでみたのですが、とても深い内容でした。
今の時代的な話しもそうだし、マキャベリズムなどの話しもあり性善説と性悪説的な解釈についても現代的な解釈ができそうで、これを読んだ後に最近読んだ韓非子とかをもう一回読んで評価してみたら、更にもう一段面白くなるような気がしました。韓非子の時代で言うと信賞必罰で評価することを身につけることが信頼できるかどうかのリテラシーなんだと言う話しだったんだろうなと思います。
逆にそうした信頼できるかどうかのリテラシーがあると、総じて人を信用するようになる結果もあり、一周回ると性善説になるとも言えるので、改めてどちらの話しもありなんだと感じました。
Posted by ブクログ
氏曰く、日本人の「和の心」とは、他人の気持ちになって、互いに協調しあう関係を好むというよりは、
周囲からどう思われるかを気にして、まわりとの間で波風を立てないようにビクビクすることだと指摘しています。
かなり日本人の行動原理の本質に迫った指摘です。
人に嫌われることを極端に恐れ、嫌われないないようにする。なぜかというか、この行動が日本社会では合理的だからです。自分の主張を押し殺して、
みんなで協力するというよりは、自分のしたいことを遠慮する、したいことをすると、仲間はずれにされてしまう可能性が出てくるからです。
しかし、今、企業(仲間内)がリストラが当たり前のようになりました。外の世界に投げ出されることがあたり前になりました。日本人の所属意識は、所属することで、少なくなくない対価・そして賃金が得られるからでしたが、その前提が今崩れ去っています。
その中で氏は、仲間うちを超えてどこでも通用する良い評判を確立することが、これから、最も合理的な行動だと言っています。非常に、示唆に富む良書だと思います。
Posted by ブクログ
誰のオススメ本だか定かではないのだが、素晴らしい気付きをいただきました。(読んでいる最中に、TBSラジオで尊敬する宮台真司氏もこの著者、山岸俊男を尊敬しているとかたっていました)
第一章
・ 「安心」とは相手が自分を搾取する意図がないという期待の中で、自己利益の評価に根ざした部分。
「信頼」とは相手が自分を搾取する意図がないという期待の中で、相手の人格や自分に対して抱いている感情についての評価にもとづく部分(*社会的不確実性が
存在している場合に意味をもつ)という言葉の定義と、
これまでの日本が安心してこれたのは、社会的不確実性が存在しているにもかかわらず、集団や関係の安定性がその内部での勝手な行動をコントロールする作用をもっていたから
第二章
・ 常識として語られている集団主義的行動(集団の利益を優先した協力行動を取り易い)のはそう行動することが自分を利する「しくみ」が社会の中に存在しているからであり、その背景には、日本の『恥の文化』(集団内での非協力行動に対するコントロールが、その行動に対する相互規制により個人の外部から維持されている)ことによるものであり、そういった規制を取り除いてしまうと日本人はアメリカ人(『罪の文化』をもつ)に比べても、集団主義に行動しえなくなる。
Posted by ブクログ
他人を信頼することが本人にとって有利な結果を生み出す社会的環境と、他人を信頼しないことが有利な結果を生み出す環境が存在する。そしてその環境は我々自身が作り出している。
アメリカに代表される西欧社会における「信頼」崩壊に対する危機意識の高まりと一般的信頼の低下により。1990年代に入ってから、「信頼」に対する関心が急激に高まってきた。
お役所仕事は非効率の典型とされるが、その原因は無数の煩雑な規則にあり、それらは役人に対する国民の不信から生まれている。逆に、人体資本につながる関係資本が充実している社会では、煩雑な規則が生み出す非効率さは存在しない。
日本型システムに対する不信の拡大は、経済面では金融機関の信用の低下、リストラに伴う雇用不安という形で表れ、教育面ではいじめや不登校、校内暴力という形で表れた。これはこれまでの安定した社会関係のあり方が崩れつつあることの一つの表れで、欧米のような「信頼」の崩壊の問題ではなく、「安心」の崩壊の問題である。
「信頼」とは、やると言ったことを実行する能力を持っているかという「相手の能力に対する期待としての信頼」と、やると言ったことをやる気があるのかという「相手の意図に対する信頼」があるが、混同され、一口でまとめられている。この本で扱う信頼は、後者のみ。
社会的不確実性とは、相手の行動によっては自己利益を含む自分の「身」が危険に晒されてしまう状態である。
よって、信頼とは「社会的不確実性が存在しているにもかかわらず、相手の人間性ゆえに相手が自分に対して酷い行動を取らないだろうと考えること」で、安心とは「そもそも社会的不確実性が存在していないと感じること」と定義される。
これまでの日本社会を特徴づけていた集団主義的な社会関係のもとでは、安定した集団や関係の内部で社会的不確実性を小さくすることでお互いに安心していられる場所が提供されていた。
夫婦が離婚する確率は、一般に結婚後しばらくの間が高く、結婚期間が長くなるにつれて低くなる傾向がある。こうした背景のもと、総人口に占める割合が大きい団塊の世代が歳をとった結果として。1980年代後半に離婚率が減少した。
日本は信頼社会であり、アメリカでは信頼関係よりドライな契約関係が重要視されているという常識的な理解に反して、アメリカ人は日本人よりもずっと他者一般に対する信頼感が強い。
周りの環境やらで、それ以外に行動の選択の余地がない場合には、「心が行動の原因である」という前提は意味をなさない。つまり、日本における手段主義のような集団的心の性質は原因ではなく、社会の「構造」の中に存在している。だから、実験をすると、常識に反した行動が生まれることとなる。
「日本でのビジネス関係は集団主義な関係である」とは、人々が集団の内部で協力し合っている程度が、集団間で協力し合っている程度よりもずっと強い状態を指し、これにより集団の内部に留まっている限りは「安心」して暮らすことができるようになっている。しかし、これはよそ者に対する不信感と表裏一体の関係で、日本における信頼の育成を阻害する要因となっている。
「今まで一度も名前を聞いたことがないようなメーカーの製品は信頼できない」というのは、名の通っているメーカーは粗悪品を販売すれば評判が低下し、メーカー自身が被害を被るからが根拠で、これは「信頼」ではなく、社会的不確実性が小さいという「安心」の問題である。よって、信頼が必要なのは、社会的不確実性が大きな状態に直面した場合のみで、この場合に人々が取る行動は「相手を信頼する」か「社会的不確実性そのものを客観的に取り去る」かで、後者の方法としては担保の提供が挙げられる。
互いに好意や魅力を感じているコミットメント関係の形成は、一方では関係内部での社会的不確実性を低下させ、安心していられる環境を生み出すが、同時に他のより良い相手から得られるはずだった利益を犠牲にする機会費用を生み出す。よって、「よそ者」を避けた「仲間づきあい」が最も利益を生み出すかはわからない。
一人一人の個人が機会費用を払いながらコミットメント関係に留まっている状態は社会全体から見ると巨大な無駄である。
社会的な楽観主義者は社会的知性を身につける機会に積極的に向かうため、次第に社会的知性が身に付く。(高信頼者=「お人好し」)これにより、騙されて酷い目に遭う経験も少なくなり、ますます楽観的になり、社会的な知性が身に付く循環へ。逆に社会的な悲観主義者は社会的知性を身につける機会を避けるため、社会的知性を発達させることが困難で、そのため他人との関係で酷い目に遭う可能性がいつまでも付きまとう(低信頼者=「人間不信」)これにより、ますます悲観的になり、より社会的知性の発達の機会を遠ざける。
差別の文化は個々の人間の頭の中にあるのではなく、差別を生み出す行動を適応的な行動としている社会の仕組みの中にある。そして、その仕組みを生み出し、維持しているのは差別社会への人々の適応行動である。(企業において「女性はやる気がない」とされるのは、やる気を示すことで得られる利益が女性にないから。)よって、非鯖越的な行動が適応的になるような社会環境を作れば、差別はなくなる。
終身雇用では、能力が低いだけでは首を切れない。よって、経営者は一旦無能を雇ってしまえば定年になるまで無駄金を払い続ける必要がある。これは、人材採用に伴う不確実性が大きいことを意味する。これにより、男女や学歴といった雇用に際しての統計的差別の必要性が大きくなっている。そのため、終身雇用(日本型雇用)の崩壊に伴い、雇用が流動化することになり、言い換えれば雇用の安定と引き換えに、差別の撤廃を手に入れることになる。
日本社会が直面しているのは「安心」を提供してきた集団主義的社会の組織原理が機会費用の増大という形で高くつきすぎるようになったことが生み出した「安心崩壊」で、これには様々な組織における情報開示あるいは情報の透明性という担保による情報の非対称性を低めることによる社会的不確実性の軽減が有効である。
Posted by ブクログ
実験的データを示しつつ丁寧な解説の本でした。日本的「安心」の狭さから、より広く深い「信頼」を目指したいものです。情報開示や透明性について触れられていたところも良かったです。
Posted by ブクログ
周りを見渡すと『安心』を得るためにどれだけの非生産的ルールがあるんだろうと考えさせられた。常識的な認識を改めることが出来た。発刊から年数が経っているものの、現代社会においても変わらない認識で読めた。
Posted by ブクログ
集団的な意識が強そうと思われている日本は、意外と個人主義。他人を信頼しない人が多い。
英語の「trust」と、日本語の「信頼」の
ビミョーな差が分かった気がする。
Posted by ブクログ
<感想>
「信頼」は効率とリスクの損益分岐点で発生する。
取引において相手を疑うことは検証コストが発生する。
検証しなければコストは下がるが、騙された場合のリスクが上がる。
そのリスクを共同体の圧力で担保していたのが日本社会の「世間」だったが、それが機能しない時代となった。
<アンダーライン>
・コミットメント関係
・社会的不確実性
・機会費用
・取引費用
・レモン市場
・高信頼者
・社会的知性
Posted by ブクログ
良いとよく紹介される社会心理学の新書。
使う用語や意味合いが特殊で何度か挫折したが、書いてあることはすごい。
・「なぜ」という質問は「心に原因がある」という答えに親和性が高い。
・心に原因があると考えると、環境的要因の方に目がいかなくなる。
・一般的信頼性が高い人(基本的に他人を信頼している人。渡る世間に鬼はなし)は、他人を信頼できるかを判断する能力に長けている。
・一般的信頼性が低い人(人を見たら泥棒と思え)は、人間関係を検知する能力に長けている。ただし、共感性には欠ける、という指摘がすごい。
Posted by ブクログ
日本社会の特徴を「安心社会」と「信頼社会」という二つの切り口で解析し、その変化と、我々が感じる不安について分析したもの。本来は「日本文化論」だが、個人的には円滑なコミュニケーションや居心地の良いコミュニティのことを学びたくて購読。主張の背景は、従来は「信頼」がなくてもいきていける「安心社会」だったが、都市化や核家族化、終身雇用の崩壊が進み、「信頼」が必要になった。つまり海外並みに「信頼社会」に変貌したというもの。確かに、所属や肩書き、学歴だけで勝負できる時代は過ぎ、個人の実績や実力、評価などによって選別される傾向は強まっている気がする。特に他人の評価を気にするあたりは、これが遠因になっていると言える。ある意味フェアな社会とも言えそうだが、著者はこの世界の進展は後戻りできないものであり、コミュニケーションコストが増える社会でもあると警告する。個人対個人、組織対組織の付き合い方について、納得の一冊。
Posted by ブクログ
凄く面白かったが、凄く難しかった。
ほぼ日の糸井さんが、この本と「情報の文明学」という本をほぼ日の父と母と書いてあったので、興味を持って読んでみたのだが、今のほぼ日が組織を作る上で参考にしているのが分かった気がする。
日本のこれからを占う上で、以前からの終身雇用型、ムラ社会のような日本型システムが立ち行かなくなってくる今後を予測して、信頼を元にした信頼社会を築いていくべきだとする。
これは要するに、少し前に読んだ「弱いつながり」のことだと解釈した。以前は内側に入れさえすれば安心して信頼できたが、これからは外側に出て尚、内側のように相手を無条件に信頼するということ。そこにしか活路はないということか。またSNSの時代がそれを可能にしている。
だが、本当にそうなのだろうか。またなぜそうならざるを得ないのであろうか。
ショールームの前田氏曰く場末のスナック的コミュニティを作ればこれからどんな人でもアーティストとしてやっていける。と言っているしこれは真逆のことの様に感じる。また最近観に行ったプロ野球などは完全に球団のファンは内と外を作っている、それがよりそのチームのファンになる動機になっている。だから相手チームに対してはリスペクトと程遠い罵声を浴びせたりする。そしてAKB系のアイドルはそのシステムを利用して公式ライバルを作ってファンの敵対心を煽って商売に結びつけている気がしないでもない。違うかもまけど。
こんがらがってきた。
文中の「針千本方式」というのは、ブロックチェーンがそれを可能にすると思った。
山岸先生はそういう技術が出てきたらと書いていたがまさにそれは、ブロックチェーンのことだろうと思う。中心がいなければ、またそれを多くの人が信用すればこれほど平等を体現したシステムはないと思う。今とても不安定な時期なのは間違いないが、何とかシステムとしてうまくいくように期待したい、あとちょっと投機的にも儲けたい、いや儲けたい。
ともあれ早く世の中の権力が弱くならざるを得ないような状況になればいいのにな(それはなかなか難しいし不可能に近いのだけど少しでも今より平等に近づける)と夢想している。
何だか余り著作の内容と関係なくなってしまったので、感心した部分を
たとえばサーストンによると(中略)知能が七つの主要な能力にらわかれるという。その能力とは、言語理解力、言語流暢性能力、数能力、空間視覚化能力、記憶能力、推論能力、知覚速度能力です。
一概に能力が高いとか低いとかはないということだ。
自分と他人の内面を理解し、その理解を対人関係における自分の行動のコントロールに使うことのできる能力が、社会生活を送っていく上できわめて重要な役割を果たす。
激しく同意した。そして最後の行。
われわれが直面している変化は、新しい文化の創造のプロセスなのです。そしてこの新しい文化の創造のプロセスは、われわれ一人一人が新しい社会的環境へ創造的に適応することで参加することのできるプロセスなのです。
不確定の未来に勇んで飛び込めということか。
Posted by ブクログ
社会的不確実性の大きな状況(他人の意図についての情報が必要な場面でそれが不足している状況、相手の行動いかんでこちらが不利益を被るような状況)で、どのようにして他人と取引、コミュニケーション、協力etcを可能にするのかを論じた本。本筋の日本社会論よりも、一般的他者に対する信頼感の強弱が生むコミュニケーションスタイルの差異について論じた箇所が面白かった。
Posted by ブクログ
考えさせられる。知らない人を見たら疑ってかかるような人より知らない人でもまず信じてみるような人のほうが得する世の中になりつつある。
軽く読むには向かない。
Posted by ブクログ
基本的に人は信頼できると考える一般的高信頼者はお人好しなのではなく、人を見抜く力がある人である。楽観主義者で多くの人と協調関係にトライすることで、さらに人を見る力を持てる。未来は自分で切り拓けると信じられる人に多い。でも周囲の敵意好意にはそこまで敏感ではない。ちなみに高学歴者や勉学に努めるほどに、人を見抜く力や協調する力は育つというデータも示されていた。
人が自分に好意的かを見抜く力が高い人は、仲良しと一緒にいると落ち着く、人の目を気にしていて、ビクビクしている人で、むしろ一般的に低信頼者かつ悲観主義者という相関が成り立つことが多い。
日本人は集団のために行動すると信じられてきたが、それは監視、ムラ社会だっただけで、旅の恥はかき捨てのように、一旦繰り返しゲームから離れると自律できなくなる。
日本人は恥の文化、欧米人は罪の文化
結局、社会の構成要素によって人の考え方は影響を受けるということを、色んな実験から導き出している。
Posted by ブクログ
わざわざこの国で「絆」が叫ばれることの心理的背景がよくわかる。
基本的に日本人は他人を信頼していないのだ。だから助け合うという当たり前のことを言うのに「絆」なんて大げさな言い方をしなければならない。もっと言うと、助け合わなかったら罰金くらいのことをしないと助け合わない社会なのだ。
ほっといたら、社会的な圧力や仕組み、制度がなかったら、基本的には他人事は他人事。そんなムラ社会な精神が古代から綿々と受け継がれているのが、この国なのだ。
Posted by ブクログ
契約社会に住む米国に暮らす人々の方が日本人より他者を信頼している。驚きの調査結果から本書ははじまる。日本人が「信頼」と思っているのは実は「安心」でありそれは減少傾向にあるというのが著者の主張である。
またよく信頼する人はバイアスにだまされずに相手のことを正しく理解することに長けているということのようだ。安心社会から信頼社会に変えていくにはこの対象者を正しく見抜くという能力の向上が必要なようだ。
本書のタイトルにもなっているこの事実について原因についても多様な研究結果を引用している。その中でも興味深いの現在だと差別と言われそうな女性より男性が優れている的なバイアスが、過去のデータから単純に導き出され無自覚にそこに依拠して判断してしまうことから生じるという話がある。
昨今のAIの発展はディープラーニングによるところがある。この技術は推論を多層のニューラルネットワークを使うところにあるがそこには教師データなる過去データの利用が含まれている。つまるところ、AIとは過去の実績に左右されるものであり、周到に確認しなければ「差別」を助長しかねないものであるということだ。
Posted by ブクログ
各種実験の説明が多く、結構疲れます。だんだん、実験内容は読み飛ばして結論を探してしまった。実験内容に興味のある人には参考になるかと。
偏差値の高い大学生は一般的信頼が高いのはなぜだろう??自己効力感の高さから、自分に対する信頼、社会に対する信頼が高いのでは??
Posted by ブクログ
大きな変化がせまってこようとしている日本。
今までの安心社会_他人を信頼する必要がない社会_から信頼社会_信頼する力を身につけ人から信頼される人間になる_社会へと移行していくことで、大きなチャンスを得られるようになるかもしれない。
どのようなメカニズムで人が信頼を得るのか、ということ。安心と信頼の違いとは、に実験から迫った一冊。
Posted by ブクログ
日本の安全社会は、社会的不確実性が小さく同じ集団内の相手と付き合えばよかった時代の産物。不確実性が大きくなると、機会費用が増え非効率になる。相手を信頼するのは、単なるお人よしだからではなく、観察や交渉能力という社会的知性を持っているから。
日本には市民はおらず皆村民だ、と言われていたことが理解できました。
Posted by ブクログ
働き方改革のセミナーの資料で、社会環境の変化についての参考図書として書かれていたから読んだけど、ピンと来なかった。
それにしても、社会学の本ってひさびさに読んだかも。
Posted by ブクログ
大学の時に読み残した本シリーズ4冊目。
ソーシャルキャピタルの勉強してた時に買ってたんだけど、なぜか読んでなかった。
先日読んだ糸井重里さんの「インターネット的」が、
この本から着想を得たという記述を見て引っ張り出してきました。
経済成長やら人口増加などなどを背景とした日本型システムによる日本的な大きな物語が崩壊したこれからの日本では、
個人個人が周囲の人に対する捉え方を変えてかないとこれからどんどん変化していく社会ではうまいこと回っていかなくなっちゃいますよ、というお話。
これまでの日本(式集団主義社会)では集団内部の仲間内における「安心」がある一方で、よそ者に対する不信感をも生み出していた。
社会システムの前提条件であったものが崩れていく中では、固定された仲間内の協力だけでは新たな問題に対処していくことができない。
このとき必要になるのは、他者一般に対する「信頼」であり、適切に他者一般との関係を築くことのできる共感的能力である。
とても面白いことが書いてあるのですが、
中盤は社会心理学の実験に関してかなり長いこと解説されていて、ここらへんは興味のない人にはちょっと退屈かもしれません。
結論部分、今後の社会のあり方に関しては、
情報公開・透明性という部分だけでは足りないかなとも思いますが、それが必要ないということではなくてすでに前提になっていってるのかなと。自治体とか企業とかのレイヤーでは。
透明性でもって社会的不確実性を担保した上で、さらに効率や成功の可能性を高めるための方法が模索されている段階、なのかな。
一方で個人のレイヤーではこの「情報を公開することによって社会的不確実性を低下させる」という方策はとても大切になってると思う。
ここらへんが、糸井さんが「インターネット的」で主張されていた「正直は最大の戦略である」につながるわけですね。
もうちょっと早めに読んでおけば良かったなという思いが強いですが、今読んでも考えることが多かったので良かったです。