あらすじ
これは、世に出してはいけない作品なのか?
人気作家・時任晶子の最期の作品。そのラストを巡る疑惑と真相とは――。
大学で創作ゼミを受け持つ作家・時任晶子が死んだ。
卒業後、恩師の死をきっかけに 再び「書くこと」に向き合う教え子五人。
一方、 時任の最後の作品のラストにはある疑惑が……。
「書く人」「作る人」「届ける人」、そして「読む人」すべてに届いてほしい。
ほしおさなえ、キャリア30年の到達点!
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Posted by ブクログ
大学の創作ゼミで学んだ卒業生たちが、恩師であり人気小説家でもあった時任晶子の死をきっかけに再び集い、それぞれの人生と創作への思いに向き合っていく物語です。
物語は五人の卒業生たちの視点から描かれる五章構成となっており、同じ出来事であっても立場や価値観によって受け止め方が異なります。社会人としての悩みや仕事、人間関係、恋愛、将来への不安などが織り込まれ、登場人物たちの等身大の姿に共感する部分もあり、読み進めました。
作中には、読書や創作にまつわる会話、本を読む喜び、本によって支えられた経験が数多く描かれています。編集者、司書、出版関係者など、本を「書く人」だけでなく、「届ける人」「読む人」の姿にも光が当てられており、本に関わるさまざまな立場の人への温かなまなざしを感じました。「本に関わるすべての人の物語」であると思います。
また、本作では「書くこととは何か」という問いが大きなテーマとなっています。卒業後はそれぞれ異なる人生を歩みます。作家になれた人、なれなかった人、書くことから離れた人、それでも書き続ける人。その姿を通して、創作とは職業である以前に、その人自身の生き方や人生そのものと深く結び付いていることが描かれていました。
さらに、物語は通夜、一周忌、三回忌、七回忌と時を重ねながら進んでいきます。故人の思い出を語り継ぐなかで、教え子たちが少しずつ成長していく姿が印象的でした。死によって関係が終わるのではなく、故人から受け取ったものが受け継がれていく過程が丁寧に描かれており、「弔い」と「継承」というテーマが心に残りました。
一方で、時任晶子の遺作『木蓮の家』をめぐり、「本当に本人が書いた結末なのか」という疑問が提示されます。このミステリー的な要素が物語に奥行きを与え、最後まで読者を引き付けます。そしてラストでその謎が解き明かされることで、作品全体のテーマがより深く伝わってきました。
原作者とアニメ化における改変の問題や二次創作をめぐる考え方など、現代の創作を取り巻くさまざまな課題についても考えさせられる作品でした。
なかでも印象に残ったのは、立花あゆみの祖母が祖父の口述筆記をしていたというエピソードです。文章を書く才能や作品は、ひとりの作家だけによって生み出されるものではなく、その傍らで支える人々の存在によって成り立っているのだと感じました。太宰治の妻・津島美知子、武田泰淳の妻・武田百合子、さらにトルストイやドストエフスキーの妻たちのように、著名な作家の陰には、その創作活動を支えた人々がいます。しかし、そのような記録が残された人ばかりではありません。歴史に名を残さなかった人々のなかにも、誰かの言葉を書き留め、支え続けた人が少なからずいたのではないでしょうか。
作中の「だれに読まれることもなく消えていく、世の中にはこういうものがたくさんあったんでしょうね」という言葉も強く心に残りました。その一文を読んだとき、文章を書く力を持ちながらも作品として世に出ることなく、あるいは誰にも読まれることなく消えていった無数の人々の存在に思いを寄せました。私たちが今読むことのできる作品の背後には、残された言葉だけでなく、残らなかった言葉もまた数多く存在しているのかもしれません。
私は創作をすることがありません。一人の読者としてこの作品を読みました。しかし、だからこそ「読むこと」の意味について改めて考えさせられました。本を読むことは作者の言葉を受け取るだけではなく、その作品が生まれるまでに関わった多くの人々や、その背後にある人生に思いを巡らせることでもあるのだと思いました。
ちょうど先日、大作家の訃報に接したばかりだったこともあり、『ある小説家の死からはじまる物語』というタイトルに強く惹かれました。読み終えた今、私の中に残ったのは、「自分にとって読むこととは何か」「本を読み継ぎ、語り継ぐとはどういうことなのか」という問いです。本と人とのつながりの尊さを静かに見つめ直させてくれる一冊でした。
各章から気になった表現
(以下、本文から、いまの私が印象に残った文章。
最終の核となる表現はメモからのぞく。)
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■暗い海に言葉を放す
通夜(2018年) 語り手:岡島麻里奈
・57ページ
『死』っていうのは本当に決定的なんだよ。その瞬間、ゼロになる。その人がいなくなることで、世界のバランスも変わる。あったものがなくなるって、すごい暴力だよね。準備したって、身がまえたってどうにもならない。
・65ページ
灯籠流し。死者の魂を弔って、海や川に流す。むかしから人はそうしてきた。
「灯篭の代わりに言葉を流そうと思って。心の中に時任先生への言葉を思い浮かべて、海に流す。こうやって。」
立花は海水に、手を差し入れ、ひらひらと揺らした。揺らすたびに水が光る。
―先生はきっと、わたしたちのなかにある命を見ていてくれたんだよ。それを送り出す手伝いをしてくれた。
わたしは「書く」人ではないし、いまのところ「作る」人にもなれていない。いまの自分は「届ける」人だ。だが、その役割をきちんとまっとうしたい。本には「読む」人が必要だから。
自分のことは自分で決める。その代わり自分で責任を取る。
わたしもいつか死ぬ。黒い淵にのみこまれていく。
海の中にそっと手を入れる。ひんやりとした大きな生き物の身体に手を差し入れるようで、身体がぶるっとふるえた。
■真夜中に橋を渡る
葬儀(2018年) 語り手:広瀬恵
・73ページ
父曰く、これだけ好きな本に巡り合うことはそうそうない。子どものころに出会った本は一生の宝になるし、それはその時期に読まないと意味がない。年を経て再読すればまた得ることがある。
・83ページ
わたしは著者が生きている本より。亡くなっている本に惹かれる。著者が亡くなっている本の方が強い生気を発しているように感じるのだ。著者の命が本人の身体を離れ、本の中に住み着くのかもしれない、と思う。
本が墓で、それを開けた人が呪いに取り憑かれるように。
読書にはそういう呪術めいたところがある。
・124ページ
子どものころ、わたしにとって本は別の世界への扉だった。ページをめくるたび、知らない世界にはいっていく。その世界では、わたしは自由になれた。自由になるために本を読んでいた。書くのも同じかもしれない。自分の作った世界で、わたしはわたしでない、ほかのなにかになれた。自由に生きることができた。
・127ページ
はじめてなことにはいつだって心が揺れる。きっとそのときに少しだけ心は傷ついているのだ。そうしてその傷口から外の世界がはいってくる。わたしはきっと、そのかすかな傷を言葉にしたかったのだ、と思った。
■だだっ広い岸辺を歩く
一周忌(2019年) 語り手:三沢莉央
・136ページ
純文学と呼ばれる小説では登場人物も適度に荒んでいて、わかりやすい救いもない。その方が読んでいて落ち着くと気づいた。
・150ページ
あの日、広瀬に、わたし私の創作欲求は増殖欲求のいびつな形だ、と話した。子孫を残す代わりに言葉を残す。だが最近は、それ自体がどうでも良いことに思える。言葉が死後に残ったとして、だからなんだと言うんだ。私自身は死ぬ。あとかたもなくなる。
書くことは楽しい。自分が抱えてきたものを吐き出す。その瞬間は高揚感があり、すっきりする。だが現実を変えることはない。母は不幸せなままだし、創作なんて逃避にすぎない。そんなことのために時間を使うのは虚しい。それなら仕事に邁進した方がいい。
少なくとも、仕事をしている間は自分のことを考えなくていい。
・190ページ
生き続けるなんて面倒なことだ。川に映る光を見ながら、終わってしまえば楽なのに、とため息をつく。それでもわたしは丈夫だから、どうせこのあとも生きていく。
ひとりきりになっても、なににもなれなくても、意地汚く生きてやるんだ、と思った。
■魚の目で空を見る
三回忌(2020年) 語り手:浅野美雨
・228ページ
作者のことわりの世界に人を押し込めるっていうのがなんだか不自然な気がして。傲慢な気がするんです。それがたとえ自分のことだったとしても。人は神じゃないから、そんなことしちゃいけない気がする。必要なことだとは思います。人間に物語が必要だというのはわかる。でも自分は作れないかな、って。
・224ページ 二次創作と原作改変について
さっきも言ったけど、法的にセーフかアウトとか、って話じゃないんです。先生、つまり作者の魂にまつわる話です。心の核を掴まれて外に晒されるのは、ある種の暴力じゃないかって。
229ページ
物語というのはそもそも人工的で不自然なもので、物語を書くとは、不定形の世界をその不自然な鋳型に押しこめることにほかならない。
-僕は、言葉というもの自体が好きなんです。言葉というものに、物質と似たような手触りを感じる。尖ってたり、丸かったり、ふわふわしてたり、薄い刃物みたいだったり。それと戯れることが楽しくて、でも人のことをわかったような話を作るのは苦痛で…。
そう話していた青山はまるで妖精のようだった。
・237ページ
人は鏡なのかもしれない、と思う。みなまわりの他人に自分を映してみる。だからそれぞれとらえ方がちがう。そして本人そのもののことはだれもわからない。
■目に見えない花を描く
七回忌(2024年) 語り手:立花あゆみ
・260ページ わたしの祖父は、自分の死に顔を見られるのを嫌った。亡くなる少し前に、参列者に顔を見せるのだけはやめてほしい、と涙ながらに言い張った。
-人の葬儀に行く度に思っていたんだ。最後の対面だとか言って、来た人達がみんなでじろじろと棺の中をのぞいていく。見世物じゃないんだ。あんなことをされるのは絶対に嫌だといつも思っていた。
・271ページ
だが、女子だけの場では、女性という役割を演じる必要がなかった。みんなただ「自分」としてほかの作品を論じている。その自由さが心地よかった。
・273ページ
あのときのわたしにとって、書くことは救いだった。思い出せば傷が痛む。書いたところで、状況は何も変わらない。以前の関係に戻ることもできない。そういう意味では創作は無力だった。だが、痛みをたしかめることでなんとか正気を保つことができた。
きっと創作が命綱だったのだろう。渦に巻きこまれてぐるぐるまわり、上も下もわからなくなっても、それを握っているから飲みこまれずにすんだ。
そうして、小説になぜ展開というものが必要なのか、そのときようやくわかった気がした。大きな出来事があり、主人公が変化する。小説というのはある種の通過儀礼を描くものなのだ。人類が営んできた通過儀礼を言葉で記したものが物語という形式だと言ってもいい。だからこそ山場や展開が必要なのだ。