あらすじ
脳と神経の第一人者が、谷崎潤一郎『鍵』、プルースト『失われた時を求めて』、タブッキ『レクイエム』など30作品を診る。全く新しい視点から小説を読み解く知的エッセイ。
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Posted by ブクログ
近頃、何でもない漢字が突然書けなくなったり、しゃべっている途中でろれつがうまく回らなくなり、俗に言う「かんで」しまうことがふえた。人の名前が出て こないことは、ずっと前から少しずつ徴候として出てきてるので、加齢によるボケの始まりだろう、と軽く考えていたのだが…。
岩田誠氏の『神経内科医の文学診断』という新著を読んでいて、少し不安になってきた。谷崎潤一郎の「鍵」についてふれた一章の中に、失名辞失語の症例が出 てくるからだ。文章そのものの主題は失語症についてではなく、ババンスキー反射という、「大脳皮質運動野から脊髄の下方に至る随意運動の経路、すなわち維 体路のどこかが破壊された」場合に起こる足趾の反り返り運動についてである。
谷崎の「鍵」の中に、足の裏を擦りあげるバハンスキー反射を調べる医師の行為が実に精密に書かれていることに神経内科医である著者が驚いているという内容 である。それ以上に驚かされるのは、同じく維体路障害の診断に用いられる挙睾筋反射の記述である。睾丸の根元の両側の皮膚を擦ることで睾丸を吊っている筋 肉の反射を見る、というものだが、「右の睾丸はゆっくりと鮑が蠢くように上り下りの運動をするが、左の睾丸はあまり運動する様子がなかった」という記述 は、文学作品の中で書かれた挙睾筋反射の最も正確な描写だろうと著者は言う。
著者はこれが、谷崎自身が自分が診断されたときの経験をそのまま書いたものだと推理する。その根拠は、維体路障害診断で必ず行われる腹壁反射についてふれ ていないからというものだ。座位で行える挙睾筋反射の診断とちがい、腹壁反射は仰臥位で行われるのが普通で、谷崎自身は見ることができなかったから書けな かったのだという診断である。
谷崎の文学が、これほどまでに科学に忠実であったのかというのが、驚きの一つである。しかし、個人的にはその後の谷崎の病歴の方が気になった。谷崎は『高 血圧症の思ひ出』の中で、失名辞失語の経験についてふれているのだが、人名だけでなく犬の名前や魚の名前も出てこなくなったらしい。一過性ではあるが漢字 や仮名も読めなくなったこともあるという。
著者によれば、これらは脳虚血症状が生じていたことによる。「頭頂・側頭葉を中心とする大脳半球後方の白質には、かなり高度の変化が生じていたのではなかろうか」というのがその診断である。
素人には、ボケの始まりくらいにしか思えない失名辞失語の症例も、専門医となると脳のどの部位に変化が起きているのかまで分かるらしい。著者は、谷崎は適 切な治療を受けていなかったのではないかと推測している。物忘れくらいと思って放置しておくのは考えものかもしれない。一度脳のCTスキャンを受けてみる 必要があるのではないか。そういえば、同僚が脳ドックに申し込んでいた。その時は、何を大げさな、と笑ったのだが、笑い話ではすませられなくなってきた。
本自体は、専門的な知識をひけらかすのではなく、文学に堪能なドクターの文学エッセイといったおもむきで、実に読みやすく、また採り上げられた作品、作家も洋の東西を問わず、選び抜かれたものばかりで、著者の文学的センスがなかなかのものであることを窺わせる。
健康な人なら気楽に読めるにちがいない。また評者のように自身の健康を診断してみようかという向きにも、案外役に立つのではなかろうか。著者は須賀敦子さんの愛読者。須賀さんの本の好きな人には、お馴染みの作家や作品が並んでいるので、一読をお薦めする。