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脳と神経の第一人者が、谷崎潤一郎『鍵』、プルースト『失われた時を求めて』、タブッキ『レクイエム』など30作品を診る。全く新しい視点から小説を読み解く知的エッセイ。
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Posted by ブクログ
私は、イタリア文学者の須賀敦子氏のファンである。特に、イタリアの詩の翻訳が好きである。 本書で、著者の岩田誠先生が須賀敦子氏に触れているので嬉しくなった。「19 マルグリット・ユルスナール『黒の過程』―脳腫瘍―」で少し、「30 ナタリア・ギンズブルグ『マンゾーニ家の人々』―家族性片麻痺性片頭痛―」で...続きを読むより詳しく触れている。それで、大いに岩田先生を見直した次第である。 本書の目次 はじめに 1 アンドレ・ブルトン『ナジャ』—クロード教授とババンスキー 2 谷崎潤一郎『鍵』—足底反射と挙睾筋反射 3 マルセル・プルースト『失われた時を求めて』—瞳孔反応 4 ウィリアム・アイリッシュ『じっと見ている目』—閉じ込め症候群 5 松本清張『或る「小倉日記」伝』—脳性麻痺 6 森鴎外『澀江抽齋』—脳卒中 7 ナサニエル・ホーソーン『七破風の屋敷』—ランデュ=オスラー=ウェーバー症候群 8 アーサー・L.・コピット『ウィングス』—失語症 9 ベルンハルト・シュリンク『朗読者』—読み書きの神経機構 10 ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』—失名辞 11 ミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』―レヴィ小体病 12 ウィリアム・シェークスピア『マクベス』―レム睡眠行動障害 13 アントニオ・タブッキ『レクイエム』―帯状疱疹 14 芥川龍之介『歯車』―閃輝暗点 15 井上ひさし『頭痛肩こり樋口一葉』―片頭痛 16 ジャン=ポール・サルトル『嘔吐』―悪心 17 ローラン・べネギ『パリのレストラン』―感覚神経細胞腫 18 オノレ・ド・バルザック『ゴリオ爺さん』―脳腫瘍 19 マルグリット・ユルスナール『黒の過程』―脳腫瘍 20 エドモン・ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』―硬膜外血腫 21 モーリス・ドリュオン『呪われた王たち』―くも膜下出血 22 司馬遼太郎『胡蝶の夢』―テタヌス(破傷風) 23 北条民雄『癩院受胎』―無痛の恐怖 24 説経浄瑠璃『しんとく丸』―ハンセン病 25 ラモン・サンペドロ『海を飛ぶ夢』―安楽死をめぐる対話 26 夏目漱石『門』―肩凝り 27 北杜夫『楡家の人々』―脊髄性進行性筋萎縮症 28 トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』―内頚動脈解離 29 ロジェ・マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』―毒ガス 30 ナタリア・ギンズブルグ『マンゾーニ家の人々』―家族性片麻痺性片頭痛 参考資料 お終い
季刊誌「Brain Medical」連載、7年半分、30篇。各篇、よく考え抜かれて書かれている。 古今東西の文学作品を神経学的視点で読み解いてみせる――それがまず驚きだ。著者の若い頃のエピソードも随所に顔を出し、そこに思わぬ発見や気づきがあり、その展開がおもしろい。とくに読み応えがあるのは、シェイク...続きを読むスピア『マクベス』(レム睡眠行動障害)、タブツキ『レクイエム』(帯状疱疹)、キャロル『鏡の国のアリス』(失名辞)、清張『或る「小倉日記」伝』(脳性麻痺)。 プルースト『失われた時を求めて』では、瞳孔反応をとりあげている。相手の瞳が一瞬広がるのを見て、心の動きを知る一場面。プルーストは、散瞳という交感神経の自律的反応をうまく使っていた。著者は、さらに日本人と西欧人の虹彩の色の違い、それにともなう瞳孔反応の見え方の違いにも言及していて、これも興味深い。
脳と神経の第一人者である筆者が、文学作品中に現れる自身の専門領域の病気や症状について語ってくれる本。書店で見つけて興味を持ち、目次を見る。芥川龍之介の『歯車』に現れる閃輝暗点の記述があった。これはその昔、当時つきあっていた彼女が教えてくれた話で、彼女自身も閃輝暗点を経験していた。 妙な懐かしさを感...続きを読むじて本を購入した。 内容には専門的な記述もあるが、話が固くなり過ぎないように配慮されている。なによりも文学好きな筆者の気持ちが伝わってくるのが読んでいてよくわかる。須賀敦子に対する記述などは読んでいて共感できる部分だ。単なる文学論ではない、病の部分に触れた内容は、とても興味深く読むことができた。
近頃、何でもない漢字が突然書けなくなったり、しゃべっている途中でろれつがうまく回らなくなり、俗に言う「かんで」しまうことがふえた。人の名前が出て こないことは、ずっと前から少しずつ徴候として出てきてるので、加齢によるボケの始まりだろう、と軽く考えていたのだが…。 岩田誠氏の『神経内科医の文学診断』...続きを読むという新著を読んでいて、少し不安になってきた。谷崎潤一郎の「鍵」についてふれた一章の中に、失名辞失語の症例が出 てくるからだ。文章そのものの主題は失語症についてではなく、ババンスキー反射という、「大脳皮質運動野から脊髄の下方に至る随意運動の経路、すなわち維 体路のどこかが破壊された」場合に起こる足趾の反り返り運動についてである。 谷崎の「鍵」の中に、足の裏を擦りあげるバハンスキー反射を調べる医師の行為が実に精密に書かれていることに神経内科医である著者が驚いているという内容 である。それ以上に驚かされるのは、同じく維体路障害の診断に用いられる挙睾筋反射の記述である。睾丸の根元の両側の皮膚を擦ることで睾丸を吊っている筋 肉の反射を見る、というものだが、「右の睾丸はゆっくりと鮑が蠢くように上り下りの運動をするが、左の睾丸はあまり運動する様子がなかった」という記述 は、文学作品の中で書かれた挙睾筋反射の最も正確な描写だろうと著者は言う。 著者はこれが、谷崎自身が自分が診断されたときの経験をそのまま書いたものだと推理する。その根拠は、維体路障害診断で必ず行われる腹壁反射についてふれ ていないからというものだ。座位で行える挙睾筋反射の診断とちがい、腹壁反射は仰臥位で行われるのが普通で、谷崎自身は見ることができなかったから書けな かったのだという診断である。 谷崎の文学が、これほどまでに科学に忠実であったのかというのが、驚きの一つである。しかし、個人的にはその後の谷崎の病歴の方が気になった。谷崎は『高 血圧症の思ひ出』の中で、失名辞失語の経験についてふれているのだが、人名だけでなく犬の名前や魚の名前も出てこなくなったらしい。一過性ではあるが漢字 や仮名も読めなくなったこともあるという。 著者によれば、これらは脳虚血症状が生じていたことによる。「頭頂・側頭葉を中心とする大脳半球後方の白質には、かなり高度の変化が生じていたのではなかろうか」というのがその診断である。 素人には、ボケの始まりくらいにしか思えない失名辞失語の症例も、専門医となると脳のどの部位に変化が起きているのかまで分かるらしい。著者は、谷崎は適 切な治療を受けていなかったのではないかと推測している。物忘れくらいと思って放置しておくのは考えものかもしれない。一度脳のCTスキャンを受けてみる 必要があるのではないか。そういえば、同僚が脳ドックに申し込んでいた。その時は、何を大げさな、と笑ったのだが、笑い話ではすませられなくなってきた。 本自体は、専門的な知識をひけらかすのではなく、文学に堪能なドクターの文学エッセイといったおもむきで、実に読みやすく、また採り上げられた作品、作家も洋の東西を問わず、選び抜かれたものばかりで、著者の文学的センスがなかなかのものであることを窺わせる。 健康な人なら気楽に読めるにちがいない。また評者のように自身の健康を診断してみようかという向きにも、案外役に立つのではなかろうか。著者は須賀敦子さんの愛読者。須賀さんの本の好きな人には、お馴染みの作家や作品が並んでいるので、一読をお薦めする。
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