あらすじ
インターネット上にある文章の多くは、「誰かに読まれることを前提に書かれた文章」です。
「どうすれば自分の文章が読者に認められるか?」を目的に書かれています。
しかし、文章が「伝わらない」「うまく書けない」という悩みの原因は、まさに「他人に見せるため」に書いているからです。
自分が何を考えているのかを自分で深く知った上で「ほんとうのこと」だけを書くのでない限り、いくら巧みに言語化しても、それは借り物の言葉です。
もしその文章がバズって、他人に認められて、フォロワーが増えたとしても、それは「偽の自分」が社会とつながることになってしまう。
それは、自分自身でも気づけない「生きにくさ」につながっていると著者は言います。
本書は、まず誰にも見せない文を書く場所を確保して、自分を深く知ることに重点を置きます。
その上で、「自分にしか書けない文章」の書き方を身につけて、他人に読まれるまでの道筋を示します。
「自己肯定感」と「文章力」が同時に上がる、新しい文章の書き方。
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Posted by ブクログ
文章術の本だと思って読み始めたら、変身術の本だった。僕も変われるという希望、あるいは、まだ観ぬ自分に変身する勇気をくれる一冊。
まず、不思議なサブタイトルに惹かれた。本当のことを書くことが、なぜ他者とつながることに通じているのか?むしろ、真逆では?そんな疑問に、静かで、だけど力強い筆が、グワリと応えてくれる。
ちょいちょい出てくる高校教師さん、新聞記者さんのエピソード。彼女自身が、いかに「他者から受け入れて変身し続け」てきたか。その歩みが滲んでくる。そこが信頼できる。きっと彼女は、仮面ライダーもびっくりの変身上手。ほんとうのことを書くという行為を通じて、「恐怖と期待が入り混じった変わるという行為」を礼賛している。一方で、それは決してカンタンではない。ほんとうとは何か?には、カンタンにはたどり着けない。しっかり練習し続けないと得られないのだと、マッチョに現実を突きつけてもくる一冊でもあった。でも、全然冷たくない。星新一もびっくりの激アツの熱血漢な温度を感じる。だから好きだ。
何だか、いい先生、恩師に出会えた気分だ。土門先生に、高校生で出会える人生でいたかった。いやでも、まだ遅くない。僕にとっての、「ほんとうのこと」とは何なのか?土門先生の言葉を胸に、今日から僕も、練習しよう。手を動かそう。
p.s.ただの偶然だけど、この本を読んだ翌日読んだ本は、ハン・ガンの『光と糸』だった。今日も戦争のニュースが絶えない。恐ろしいことに、どこか慣れちゃってる自分もでてきたり。そんな中、ハン・ガンさんは「ほんとうのこと」を書き、届けてくれている。彼女もまた、「ほんとうのこと」の書き手なのだなと、土門本のおかげで、しみじみ感じ取ることができました。感謝。
Posted by ブクログ
夜8時に、東海道線の下り電車でハンバートハンバートを聴きながら、同書を読んでいると、著者の感じている不安や物悲しさがふと乗り移ってきて、なんだか目に涙が滲んでしまった。本を読んで感動することはたまにあるが、こうやって電車というパブリックな場所で、我慢できずに感極まってしまうことはとても珍しい。彼女の文章には僕の心を動かすなんらかの力があるのだろう。
Posted by ブクログ
“ほんとうのこと”
を
綴れるのは
飾りっ気のない素の自分だけ。
✾ほんとうのことを書く練習
✾土門蘭
✾ダイヤモンド社
めいいっぱい考えて書く。
読む人がどう思うか、そんなことまで考える。
考えすぎて誰かに読んでもらうのに躊躇する。
読まれる怖さ、否定される怖さに不自由になる。
でも縛られて書けなくなるなんて、“とんでもなく不自由”だ。
じゃあ、どうやって自由になる?
“自分を受け入れる”こと。
“自分を愛する”こと。
“自分の心身を目一杯使って「生き」て「考え」る限り、私たちは無限に文章が書ける。”【引用】という。
そして個性を意識して出そうとせず、素の自分を見つけられたらそれが個性なんだ、と理解した。
だから自分の中にある言葉を観る。
言葉を探して探して、今の気持ちにぴったりの100%に近い言葉を当てる。
書いては消して。
消しては書いて。
それの繰り返し。
自分の中の“ほんとうのこと”をアウトプットするために逡巡する。推敲する。
この1冊から受けられる影響は多大だ。
この本から読書記録に連ねた言葉がたくさんある。
それらを自分のものにしてこれからよりたくさん『書いて』いきたい。そう期待に胸を膨らませる1冊になりました✧
“「死にたくなったら100冊本を読みなさい。きっと100冊に至る前に死にたくなくなるから。」”【引用】という言葉に心打たれました。
本ってやっぱりすごい!
それなのに、たった5名の選考委員のリアクションに縛られて、いまとんでもなく不自由になっている。
読まれることはこわい。だけど、書きたいし読まれたい。褒められなくても、否定されても、「私はここで生きているのだ」と伝え続けたい。
「書く」ことは「問う」ことなのだ
個性は消して、消して、消しなさい。そうして残ったものが、あなたの個性だよ。
孤独な人間は独りきりであり、それゆえ「自分自身と一緒にいることができる」。人間は「自分自身と話す」能力を持っているからである。ハンナ・アーレント
孤独とは「ひとり」なのではなく、自分と自分の「ふたり」でいられることだというのだ。
最低限の配慮が足りないものも「ほんとうのこと」が書かれた文章ではない。ほんとうの自分を見せたいからといって、裸に近い格好で外を出歩けば、周りの人は目のやりどころに困るし、嫌な気持ちになる人もいるだろう。書いたあとの配慮がないものは、ただの「排泄」であって、「ほんとうのこと」ではない。
読んでいると、深く呼吸ができるようになるか。心が落ち着いたり、軽やかになったりするか。自分でも何か書いてみよう、と思うか。少しでも、自由な気持ちになれるか。
「死にたくなったら100冊本を読みなさい。きっと100冊に至る前に死にたくなくなるから。」
自分の中の「読み手」を育成する。
「書き手と読み手が均等に存在する」ことが大事
「自由」になる条件は、「自分を受け入れる」ことだと思う。意のままに振る舞うことを許すこと、その振る舞いをすべて受け入れること。
言葉も同じだ。人の中には、言葉が通る水路がある。その水路は「ほんとうのこと」が湧いてくる自分の水源と、外の世界をつないでいる。きれいにしておかないと、いくら水源から「ほんとうのこと」が湧いたって、通りが悪くて外に出ない。
言葉の水路をなるべくきれいに保っておくための、毎日の排水作業。
嫌なことは書いて流し、嬉しいことは書いて固める。
自分だけは、何を言っても否定しない、拒まない、受け止めてくれるんだと実感すること。つまり、自分を受容すること、愛すること。
自分の心身を目一杯使って「生き」て「考え」る限り、私たちは無限に文章が書ける。
考えるな。考えるのは後だ。第1稿はハートで書く。リライトには頭を使う。文章を書くときは、考えずに書くこと「生きる(他者に触れる)」「考える(自分と向き合う)」の両者だ。前者だけでは社交になり、後者だけでは内省になる。
小説とは、架空の他者を主人公にしたエッセイなのではないか。
どれだけ鮮明に他者のことを想像できるか。小説はそこにかかっている。
自分の中の「ほんとうのこと」を書くのがエッセイ。自分を超えた「ほんとうのこと」を書くのが小説。
インタビューで大事なのも、やはり「対話」であるということだ。
今日会う相手とは「ほんとうのこと」しか話さない
本当の「情報化」とは「五感から入ってきたものを情報に変えて人に伝える」こと
養老孟子さんに聞く、もう半分の世界のことより
私たちにしかできないことは「情報化」。つまり、まだ情報になっていないものを情報にすること、まだ言葉になっていないものを言葉にすること、まだわからないことをわかるようにすることだ、わからないことは、人間にしか書けない。
自分自身の中でOKが出たら、あとは半分覚悟、半分諦めの気持ちで、文章を差し出しています
他者にどう受け取られどう評価されるかについてはいくらかんがえてもわからないから、諦めている
私には私の『ほんとうのこと』があるのに、あなたほどの文章力がない私には、うまくそれを表現できない。だから黙ることしかできない。
私が文章を書けているのは、周囲の他者との関係があってこそだ。
言葉には「力」がある。それがエンパワメントにつながることもあれば、暴力につながることもある。
言葉の「力」は、何かを壊すためではなく、何かを生み出すために使うべきものだから。
もちろん、対話がうまくいかず、分かり合えない場合もあるだろうが、対話を試みること自体は大切なことだと思う。
書き手は読者に「共感」を求めることはできない、ということで。読まれる際のゴールには、あくまで「理解」に設定するべきだと考えている。
「共感」とは、感覚的にわかってもらうこと。
「理解」は論理的にわかってもらうことだ。
独りなのは、私ひとりではないんだ
当然、なかには私の文章に拒否感や嫌悪感を持つ方もいた。そのたび、傷ついたり、揺らいだりもしたが、仕方ないと思うようになった。
inspire
鼓舞する・創造的刺激を与える
「もっと自由になっていいんだ」と思ってもらえること
Posted by ブクログ
よかった。時たま希死念慮に襲われる今、誰にも見せない日記を、少しずつ書いてみようと思った。なぜ自分が文章を読み、書くのかに対する思い巡らしにもなった。どちらかといえば私は生きるために「読む」。けれどそれじゃもったいないので、書いてみることもしてみる。