あらすじ
最愛の妻である女優と死別し、ボクは酒とギャンブルに溺れる日々にあった。そんな折、友人のKさんが、初めて人を逢わせたいと言った。とてもチャーミングな人で、ギャンブルの神様として有名な作家、色川武大(阿佐田哲也)その人だった。先生に誘われ、旅打ちに一緒に出かけるようになる。先生の不思議な温もりに包まれるうち、絶望の淵から抜け出す糸口を見出していく。自伝的長編小説の最高峰。
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Posted by ブクログ
伊集院静の自伝的小説。
妻(夏目雅子)が壮絶な闘病の末亡くなり、その後アルコールやギャンブルに溺れ、心身ともに病み、2年も働かずに放浪している主人公サブロー。彼を心配したKさん(黒鉄ヒロシ)に「会って欲しい人がいる」と言われ、酒場で眠りこけている『先生(阿佐田哲也・色川武大)』に出会う。
ナルコレプシー(すぐ眠ってしまう病気)でどこでも突発的に寝こけてしまう先生。だらしなくて、大食漢で、ギャンブルに目がなくて。それでいて驚くべき記憶力を持ち、人に麻雀をさせている横で原稿を仕上げる。自分のことは大事にしないくせに、弱い人間にはどこかやさしい。先生の周囲にはどこからかそんな人間が寄ってきて、自分のそばに少しでも長くいて欲しいと願う。その現実離れした憎めない存在は、サリンジャーの「フラニーとゾーイー」での太っちょのオバサマのような、どこか神がかった愛すべき存在なのである。
主人公サブローと先生は、恐らくドラッグのフラッシュバックも関与しているであろう「発作(幻覚・幻聴)」に悩まされている。先生との「旅打ち(ギャンブル旅行)」で精神の安定を保っていたかのようなサブローも、たびさきでの映画館のポスターで妻の笑顔を見てから、その均衡が崩れる。
世間ではそれこそ神格化している、彼女の早過ぎる死。私も父親を亡くしてわかったことだが、愛する存在が消えたとき、その悲しみは何度でも唐突に甦り、何も手につかなくなってしまう。その時期をやり過ごすため静かに喪に服し、亡くなったことから目を背けようとしても、彼(伊集院静)はマスコミや興味本位のデバガメにに追い回され、何度もその現実を眼前に突き付けられたことだろう。
はじめは先生の面倒をみている主人公は、いつしか先生に心配される存在になっている。同じ作家として、小説を書かなくなった彼を憂い、どうして書かないのかと気にかけてくれる。弥彦(日本で唯一の村営開催による競輪場がある新潟県の村)に旅打ちに行った際、先生と主人公は妻子を事故でなくした男と酒を酌み交わす。そのうちに男が持っていたドラッグを、先生と男が飲んでしまう。薬が効いてきた男が、妻子の名を叫びながら棚田の中に入っていく。その彼を宥め止めようと泥まみれになる先生の姿に、主人公を発作から掬い上げようとする先生の姿が重なる。
私自身はギャンブルが苦手で、自分には才も運もないと思っているので単純なゲームですらのめり込めない。酒に弱い生前の父が「酒を飲めない者は飲める・飲みたい人の気持ちがわからない。だから宴席などでもてなす際には人の気持ちを汲め」と言っていたが、ギャンブルもそういうものなのだろう。そういうわけで私は子供にゲームをさせるのもあまり好きではないが、この本での先生の考えになるほどと思った。日本全国で同じような時間に子供たちがゲームをしていて、屋根をはぐって俯瞰してみると、ひとりではなく皆でゲームをしているのと同じだ、というのである。先生はギャンブルにそのつながりのようなものも求めているのでは、と思えた。
人間は弱い。そんな弱い人間同士だから救われることがある。私も父が死んで2年目に入るが、つらいとき、先生の丸い手が「大丈夫だよ」と私の前にも現れてくれないかなあ、などと埒もないことを思う。
Posted by ブクログ
似た者同士なのか、否か。わからない。
でも、ボクの中に何かを見出していたのは確か。
結婚してすぐに病気で妻を亡くしたボク。酒と博打におぼれ見守るしかない人たち。その時には気が付けない、本当は優しい人たち。
その中で、引き合わせてもらった「先生」。
偉い先生であるはずの先生は、偉ぶることなくボクに接してくれる。旅打ちをすることで救われていく。
幻覚から救う場面は、お互い同じ悩みを持つものだけしかわからない話かと。どちらが偉いなんて、関係ないもの。
Posted by ブクログ
この著者の魅力とは何だろう。
いねむり先生=阿佐田哲也のことを描いているのだが、阿佐田哲也はじめ、みな著者のことが好きで、常に気を掛けているのである。
阿佐田哲也も魅力的だが、著者も本当に魅力的な「大人の流儀」が備わった男だったんだろう。