【感想・ネタバレ】こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたちのレビュー

あらすじ

大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞ダブル受賞作! ボランティアの現場、そこは「戦場」だった――。筋ジストロフィーと闘病する鹿野靖明さんと、彼を支える学生や主婦らボランティアの日常を描いた本作には、介護・福祉をめぐる今日的問題と、現代の若者の悩みが凝縮されている。単行本版が刊行されてから10年、今も介護の現場で読み継がれる伝説の作品が増補・加筆され堂々の復活!

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Posted by ブクログ

ネタバレ

これまで、「障害者」と触れ合う機会がなかった私にとって、いい意味で固定観念が覆される本であったと感じた。
鹿野さんのボランティア(鹿ボラ)として働く人々にもその人たちなりの悩みがあり、いわゆる健常者と障害者が密接に関わるシカノ邸は様々な葛藤や価値観のすれ違いが生じながらも精神的にも身体的にも他のどこよりも"前進"ができる場所であったと確信できた。人によって"普通"の基準は異なるが、障害者と健常者の間のそれは著しく異なる。鹿ボラの1人である斎藤さんはその"普通"境界を均すことが障害者を理解するということであるとした。長年ボランティアとして鹿野さんを支えてきた者でもそれを理解するだけでも長い年月を要してきたのに、ベテランと新米の入れ替わりが激しいこの地でのすれ違いを阻止する術はない。

ボランティアとして取り上げてきた幾人の人々の中でも考え方が異なる。国枝さんと斎藤さんがその両極端に位置するならば、その間にそれぞれのボランティアの考え方があるというのには強く同感した。

障害者を神聖な者として扱ったり捉えたりする人は少なくない。現に私もそう捉えてきた人の1人である。遠藤さんにはその考え方がなく常に鹿野さんを1人の人として付き合ってきた。例えば、鹿野さんが口にするわがままを全て受け止めずに拒否をする時は拒否をする。こうした遠藤さんらの態度は鹿野さんにとっても嬉しいものなのではないか。これまで健常者が享受してきた一般的な教育を受けてこなかった障害者にとって、どこでどのように自分の気持ちを制するのか、どこでこのように接すると人間関係が上手くいくという私たちにとってのいわゆる"普通"は通じない。それをどこまで教えるのかというラインは非常に難しいものであるが、壁を感じさせないようにする試みは必ずしなければならないものではないか。



思いのままに綴ったが文章がまとまらないので、推敲はまた別の機会にしようと思う。

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2023年03月15日

Posted by ブクログ

ネタバレ

壮絶な生き様だと思った

そういう人生を選んで生まれてきて、他人の心を美しくするために生まれてきたような人

私にはそんな感じがするけど、美化してはいけないと、シカボラのメンバーさんが言っていたのでそうなのかなぁ

著者のあとがきにも、堂々めぐりと書かれていたけど、けっこう堂々めぐりだなーとは思いながら読んだ

実際答えがなくて、重度身体障害者福祉の考え方や社会としてのあり方、人としてどう生きるか、人としての主体性をどこに保つか、など考えはじめたら、無数の答えがあると思う

だからノンフィクションとはいえいろいろ堂々めぐりだった

知らないことだらけど、普通に知ることからはじめればいいのだと思う

知らせないから、海外のようになれない日本がいるのではないかとも思う

本人も、家族も、知らせて助けを求めて、そして助け合っていけたらいいなと思う
きれいごとみたいだけど

鹿野さんの生き様通り、そんなに日本人は悪い人たちではないと感じるから

最後まさか旅立つと思っていなかったからだいぶ泣いてしまった
ボコボコにされただろうと思うけど会ってみたかった

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2023年03月01日

Posted by ブクログ

ネタバレ

障がい者福祉の知識がないので本を読みたいと言ったら、その仕事の人に勧めてもらいました。
美談にされておらず、具体的な描写から関わる人たちの心情も想像もでき、入門に良い本。

「わがまま」と見える態度について、覚えておきたいところ。
障がい者自身にとっては、周囲の望む方向と自分の欲求のズレをいかに明確に意識するかが、自我に目覚めるために決定的に重要。
健常者が「よかれ」と思ってした好意、安易な優しさを突き破るような自己主張として伝えられることが多い。介助者にしてみれば、常に好意が打ち砕かれるような、激しさと意外性を伴う体験なのだ。

とは、誰にでも、健常者同士にも当てはめられるね。

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2020年12月29日

Posted by ブクログ

ネタバレ

人に迷惑をかけずに生きるのが理想か。

何年か前に映画化もされた話題のノンフィクション。ページは多いが引き込まれて一気に読み切った。鹿野靖明という在宅介護を望んだ筋ジストロフィーの男性とそこに集うボランティアたちの生活を取材して書かれている。著者もいつしかボランティアの1人として痰の吸引など鹿野の世話をしていくうちに、障がい者と社会について、人と人との関わり合いについて、生きることについて、を考え込んでしまうといった内容だ。

ボランティアは何かを求めてやってくる。ボランティアに限らず人はやはりどうしても「してあげる」という上から目線からは逃れられないように思う。鹿野の「ワガママ」に対してボランティアが反論したり離れていったりした描写があったが、こちらの善意を受け取ってもらえないとき、それが大きなお世話であったり受け取る側の意図に反していたりしても、裏切られた気持ちを抱くのは想像にたやすい。「してあげる」ことでいい気持ちになりたいのだから。反対に何か欠けているのを感じていて「させてもらっている」人なら、どんな欲求にも応えたいと思ってのめり込んでしまうだろう。そのような依存から結局離れることを選んだ人がいたことも書いてあった。

健常者と障がい者で、介助する側と介助される側が、対等になれないのはなぜなのか。別に障がい者だけではなくて、女性とかLGBTQとか外国人とか高齢者とかも同じだと思うのだが、なぜ要求を「ワガママ」とされてしまったり、手厚すぎる保護(という名の囲い込み)をされてしまったりするのか。それは属性に過剰に意味を見出して、勝手に解釈するからだ。鹿野の為人はやはり障害あってのものだと思う。人格形成に筋ジストロフィーやそのために経験したことが影響していないわけはない。しかし「障がい者は」という文脈にするものではない。本文中でボランティアの1人が述べていたが、見たままの現実で付き合っていく、過剰に裏側を重視しない、という態度は何においても必要だと思った。「障がい者は」と括らずにそのままの相手と向き合うことが、たとえばちょっと乱暴なまでの態度だったり、タバコやAVなどの要求に応えたり、時に言い争ったり、そういうボランティアたちと鹿野の関係に繋がっているのだろう。

いわゆる健常者であっても生きていくのにいろいろと抱えている時代である。背後の情報だけで人を判断してしまう人間関係から理解は進まない。たとえ生々しくても向き合うことが大切である。それには大変なエネルギーが必要だとしても。しかしそもそも生きるとはエネルギーのいることなのである。鹿野が精一杯生きていたように。

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2025年08月07日

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