あらすじ
世紀末のウィーンに生まれ、20世紀初頭のケンブリッジを舞台に活躍した天才科学者ウィトゲンシュタイン。裕福なユダヤ系鉄鋼財閥の家庭に育ちながら、数奇な一生と特異な行動や風貌によって、その思想の全貌は今日なお神秘的な色彩を帯びる。彼が生涯を賭けて問いつづけた「語りえないもの」とは何か? 初期の写像理論から中期の文法理論、後期の言語ゲーム理論へと展開する独特のアイディアにみちた思想の核心にわけ入り、読者とともに考える、清新な魅力にあふれた入門書!
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Posted by ブクログ
*前期ウィトゲンシュタイン:論理哲学論考
沈黙すべきものを内側から限界づけ、そのことによってそれに正当な位置を与えるための書物。世界認識のための言語の限界を語る。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」
経験によって知られるA→Bの関係(因果関係)が成立するとき、外的関係(経験的関係)と言える。しかし、言語と世界との結びつきは、それ以外が考えられないような内的関係(先験的関係)であると言える。この独特な関係は、「論理形式」を共有することで成り立っている
存在論として、事態とは諸対象が特定の仕方で結びついたもので、成立した事態のことを事実と呼ぶ。要素的な事態が複合的に結びつくと、状態になる。世界とは、論理空間の中の事実の全集合を示す。これは、「世界について語りうるためには、このようにできているのでなければならない」という論理から、言語と同じ構造である。論理空間そのものは全く偶然性がないが、どれが現実化するかはすべて偶然である。
あらゆるものを現実に表現し直すとそれは写像になるが、その写像関係それ自体を表現することはできない。命題は像であり、像を構成する諸要素は、それによって写像されるものの持つ諸要素に対応する。命題は対象の名前から成る名辞から成り立つ。命題における名辞の配列の仕方は、事態における対象の配列の仕方に対応する。ここから、世界の構成要素と言語の構成要素は対応していると言える。まとめると、命題は事実がいかにあるかを語り、名辞は命題の中において対象の配列を写しとり、指示する。このようにして、言葉は世界を写像する。
要素命題は要素的事態の成立を主張し、複合命題は複合的な事態=状態の成立を主張する。各要素命題間にはいかなる論理的依存関係もない。命題は現実を写像するために共有しなければならないものを、写像形式と呼ぶ。この外では言語の内に写像されない。したがって、写像形式は写像できない(例:『雨が降った』は雨が降ったことを意味する→循環論法。写像形式は写像不能)。ゆえに、これは語り得ない。
語り得ぬものは2つある。1つは、世界の形式そのものであるがゆえに語り得ない「先験的」なもの(論理)。もう1つが、世界の外にあるがゆえに語り得ない「超越論的」なもの(倫理)。世界の論理形式は変わることはないが、限界が変わることで世界の総体として実態が変わりうる。
独我論として、「言語」という先験的なものと「私」という超越的なものは、「私の言語」という媒体によって統一される。そして、私の言語の限界は私の世界の限界であり、主体は世界に属さず世界の限界となる。他人には他人の世界がある。
*中期ウィトゲンシュタイン
検証方法こそが命題の意味を始めて定める。語られるものは、まず真理(願望、仮説など)への志向があってそれが語られる。
*後期
言語ゲームとは、決して語られることのない、対象化されざる生活形式に基盤を持つ。そこに規則はなく、それを支えるものもない。例えば、実体化された「文法」は幻想である。