あらすじ
「経済」「戦争」「リーダー」「組織」「宗教」「地政学」「世界史」の視点で、
歴史の要点と流れが一気につかめる!
「歴史はおもしろい。僕はそう思います。
歴史は、人類が5000年以上にわたって積み重ねてきた巨大なデータベースです。それはいまの僕らが何をなすべきなのか、そして未来をどうすべきかを考えるための有効な羅針盤となります。人間が考えることや社会が動くパターンは、昔も今もそれほど大きくは変わらないからです。」(まえがきより)
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Posted by ブクログ
近隣の本屋さんに行った時に見つけた出口氏の最新本で、これで彼の本は15冊目になります。この本は7つの論点(戦争・経済・リーダー・宗教・世界史・地政学・組織)から、歴史と現在がつながる解説をしてくれていて、読んでいて楽しくて為になります。
歴史を事件を単に追っかけるのではなく、多面的な捉え方をして理解していきたく思っている私には、絶好の教科書です。今後も彼の本や、類書を読んでいきたいです。
以下は気になったポイントです。
・昔の教科書には 日本と中国との交易は894年の遣唐使の停止によって衰え 国風文化が栄えたと書かれていたが、実際には民間 ベースに切り替わっただけである。 遣唐使は国際情勢を睨んで唐との間合いを計るための重要な外交手段であったが、 この頃はその唐が衰えて脅威もなくなったため やめた、 あくまで 政治の領域の話であり 交易の量が落ち込むことはなかった (p23)
・クビライの政府は キャッシュとしての銀のほかに「 塩引」 と呼ばれる 塩との交換を保証した 一種の 高額紙幣を発行した。 高額紙幣である「 塩引」、 普通の紙幣、銀によってマネーフローを賄った。 すると 宋銭が大量に余るので、その周辺国の 朝鮮・日本・ベトナムなどに輸出した、そのため 日本でも景気が良くなった(p24)
・宋銭が入ってきて 貨幣経済が浸透するにつれて、 土地の価値 そのものが「 お金」という 尺度で測られるようになる。 室町時代から戦国時代にかけて、貫高制が広まっていく、 これは大名が支配する領地の価値を、その土地からリンクとして徴収できる銅銭の量にして何貫なのかで評価する仕組みであった(p25) 元を倒した明は、鎖国をして大元ウルス時代の 貨幣 製作 を次々に止め 実物経済に移行した、 すると室町後期から戦国時代にかけて日本は中国から 銭が入ってこなくなり 、デフレの状態となった、 そこで「ビタ銭」と呼ばれる 粗悪な銭が日本のあちこちで作られ始める (p26)
・貫高制から「石高制」に変わった理由として、地域ごとに貨幣の水準、 ビタ 銭の価値、 貨幣の流通度合い もまちまちであった。リングについては「 この土地から米がどれくらい取れるか」を基準にした方が 客観的な基準で評価できた(p29)
・ 江戸の三大改革( 享保・ 寛政・天保)は、 みんな 幕府の財政難を背景にした、 緊縮財政・農本主義である、 江戸幕府は金を使うだけで十分に マーケットを成長させられてないということになる(p36)
・1885年、 銀を 兌換紙幣の基準とする 銀本位制に移行し、 日清戦争後の1897年には、 金本位制に移行する、銀本位制を導入した頃に 銀の価格が下がったため 日本の通貨価値も安くなり(松方デフレ)1882年から1893年まで輸出超過が続く(p44)
・1930年に金輸出の解禁が行われ、円の切り上げとなった。なぜそれまで金の輸出は禁止されていたのか、 第一次世界大戦が1914年に始まると、ヨーロッパの参戦国が戦争資金の決済に必要な金が国外に流出するのを防ぐために 金本位制を停止した、日本も 1917年に時刻 経済を守るために真似をした、1919年にアメリカが金本位制 に復帰すると、 ドイツ・大英帝国・フランスは 次々と 復帰した。日本は世界公共の最中に金解禁をした、 すると 安定資産である ゴールドを求めて世界中からマネーが日本に殺到し、 約3億円が海外に流出し、 金本位制に戻すために苦労して貯めた 正貨をほぼ失った、そしてデフレとなった(p47)
・日中戦争以外にも、戦端を開いた側、 参戦した勢力が「すぐ終わるだろう」 泥沼 になった戦争はいくつもある、 第一次世界大戦、 日本であれば応仁の乱である。 たとえ勝っていたとしても「落としどころ」 逆に負けが混んできた場合や戦いが長期化した場合の「 撤退基準」を見据え ず に 戦い 始めるべきではない、 戦後処理まで含めて戦争である。 これは 企業の新規事業はライバルとの競争においても 同業である(p55)
・1268年頃 モンゴルから何度も交易を求める 国書が朝廷に届いていた、 しかし 調停も 北条一族が執権を務めていた 鎌倉幕府 もまともに返事をしなかった、当時 幕府は、 警察 権・軍事権、 調停は 政治・外交 が 役割分担であった、本来なら調停が返事をすればいい、ところが この前の時代に朝廷の後鳥羽上皇が幕府の訪朝 義時に武力で挑んで敗北した「承久の乱」があった、幕府は没収した荘園に地頭を配置し、 調停を監視するために京都に六波羅探題を置いて、東西を支配する全国政権となっていた(p59)
・ 鎌倉幕府は主に東日本に広がる武士を支配下に置いたものの、 西日本を中心とする、 王家と貴族たちは相変わらず朝廷での政治を取り行い 、さらに延暦寺・興福寺などの寺社勢力がいた、 つまり 朝廷・幕府・寺社の三大権門 と呼ばれる分権体制であった、ところが 対モンゴルの防衛戦争の準備の目的で、幕府の権力が朝廷・寺社に優越するようになっていく、 モンゴル 戦争を機に 支配力がより高まったと考えられる(p63)
・豊臣秀吉は 1590年の小田原攻めにおいて20万の兵を集めた、このために 莫大な食料が必要であり、全国各地に「蔵入地」と呼ばれる 直轄領を整備し、 直轄領を整備しそこ 年 そこから年貢を集めて容(p70)
・ 日本が朝鮮半島を巡って清国やロシアと戦った、日清・日露戦争は当時 世界最大の海洋帝国であった 大英帝国と、ユーラシア大陸最大の陸上 帝国 ロシアとの間で繰り広げられていた 壮大な 覇権争いである「 グレートゲーム」の一環として理解する必要がある(p77)
・1894年 7月 陸奥外相が日英通商航海条約締結にこぎつけた、 いわゆる不平等条約の改正である。 この時、 関税自主権の一部と領事裁判権(地外法権)を撤廃した(p78)
・ 1905年のポーツマス条約により日本は南満州の鉄道 経験を獲得し、この検疫を守るために 関東軍を満州に駐留させていた。関東軍とは関東洲(遼東半島南部)と 南満州鉄道の警備を担当する日本陸軍の部隊である(p85)
・リットン報告書の内容は「満州の主権は中国にある、 ただ 資金を投じて開発した日本の権益も尊重する。 それゆえ 中国の主権の下に、 日本の居住権・商圏を尊重した非武装の自治政府を作ることを提案する」 であった、暴走する 日本を 平和裏に止めようとして「名を捨てて身を取れ ここで手を打て」と要請したものであった(p89)
・1939年には ドイツとソ連が不可侵条約を結んだ、 これに日本政府は驚いた、 なぜなら 日本は1936年にドイツと日独防共協定を 結び、 ソ連を封じ込める約束をしていたからである(p94)
・総力戦とは 軍隊の力だけで決まるのではなく、国の産業力・総合力で勝負が決まる 戦争のことである。 第一次世界大戦は主に、ドイツ対英仏の 戦いであったが、戦争に必要な鉄・石炭など 物資の生産能力を見ると、 英仏露の シェアと、ドイツ・オーストリア・オスマン朝のシェアは拮抗していた、しかしアメリカが参戦したことで勝負は決した(p98)
・かつて 聖徳太子の業績とされてきた政策や外交の多くが、実際にはおそらく、 蘇我馬子によって推進されたことが、 近年の歴史 学研究で明らかになっている(p107)
・4世紀半ばに成立した大和政権では、当初は 崇神天皇を祖とする「イリ系王朝」 が大和川流域を基盤とし、続いて 応神天皇を祖とする「ワケ系王朝」が河内地方 を基盤として権力を握っていた、 しかし 両 王朝とも衰退し、531年に継体天皇が新たな 王朝を築いた、この王朝 こそが現在の天皇家の実質的な始祖と 考えられている(p108)
・ 蘇我馬子は知識人を駆使して必死に 法案を考えた、 そこで作り上げたのが「 冠位十二階」( 役人の序列と等級を明文化したもの)と「 憲法17条」( 役人の守るべき秩序と道徳を明文化した法律)である(p113)
・ 近年の研究では 信長の行った主な政策は他の 戦国大名 も行っていた、とその独自性に疑問を投げかける向きもある、しかし どの大名も天下を取ることは できなかった、 信長が 傑出していたのは「これとあれを組み合わせていけば 天下が取れる」 という 大きなグランドデザインをかけたことにある。合理的 思考・ 明確な判断基準・ 一貫した 人事管理・革新的な経済政策は、 現在の理想的な上司像として通用する(p124)
・ 阿部正弘が行った「 安政の改革」は、他の三大改革と異なり、 門閥や家柄にとらわれない人材登用・ 親藩や雄藩の幕政参加促進・国防強化などに努め、 近代化に備えたこの改革 こそが、その後の日本への貢献度が大きかった(p128)
・正式に出家したお坊さんに戒律を与える「戒檀」は、当時 日本に3か所しかない、 奈良の東大寺・ 九州 大宰府の観世音寺・ 下野の薬師寺、 最澄の死後に比叡山に 4つ目の「戒檀」を作ることが認められた(p155)
・院政の時代には神仏が習合( 日本の神々は実は 仏教の、如来や菩薩が 化身して日本の地に現れたとする 本地垂迹という 考え方)している、 熊野本宮の本地仏は阿弥陀如来、 新宮は薬師如来である。 薬師如来は東方浄瑠璃浄土の主である、 那智は先手観世音菩薩の補陀落浄土である、すると 熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を回れば、浄土を全部体験できることになる(p161)
・ 鎌倉時代中期に、反本地垂迹説が出てくる、日本の神様が オリジナルで、仏や 如来はその権化だとするものである(p164)
・家康は 1616年に死去 するが 禁教令は受け継がれた、キリスト教の信者は 仏教に改宗させ、皆どこかのお寺の信者として、 キリシタンではないことを証明してもらう(寺請制度)ことになった、 これによって人々は移動の自由を奪われ 土地に縛り付けられることになった(p172)
・ 宗門改とは、日本版の異端審問制である、全国の住民を 檀家制度によって 寺院(土地)に縛り付け、 毎年 1回、 彼らがキリシタンでないことを 寺院に申告させた、寺院は信者を増やすための布教活動をやらなくても、宗門改と冠婚葬祭をやっていれば ご飯を食べられるようになった、 これにより日本の仏教は葬式 仏教になっていった(p175)
・ 実際の荘園は地域によって差はあるものの、 開発領主の「下」からの 寄進で成立することはなく、むしろ「 上」からの政策的に設定されることが多かったことが 研究で明らかになっている(p200)
・ 武家政権の始まりは多くの人が 源頼朝を思8い浮かべるが、 現在では日本最初の武家政権は 平清盛が築いた 平氏政権だという見方が主流となっている(p202)
・ 江戸時代は四公六民だったのに、地租は3%と低い税率ではないかと誤解している人がいるが、40%の年貢が3%に減ったわけではなく、 今まで取っていた 年貢の金額が、土地の値段の3%に当たるように「 地価を調整した」のである、 お米が取れなくても取れても毎年 税金が消臭できる(p211)
・ 日本列島には 産業革命の3要素と呼ばれる、 化石燃料・ 鉄・ ゴムもほとんど取れない、 全て輸入に頼る必要がある、交易なしで自立できる国ではない、 したがって「 日本ファースト」にはなれない(p258)
・ アメリカが中国との交易で大英帝国に勝つには、 太平洋横断 ルートを開くしかない。 大西洋を渡るとニューヨークからロンドンまでの船賃が加算されるからである。太平洋横断 ルートを使おうとすれば、 交易の中継地は日本しかない、 つまり ペリーの来航はアメリカの対中貿易戦略の一環であった(p275)
・人間は「人・ 本・ 旅」からしか 学ぶことができない。様々な人に会い、 様々な本を読み、 様々な場所を旅することで、 世界の広さと豊かさを実感することができる。 同時に自分の小ささ・ 未熟さもよくわかり、 謙虚さを身につけることができる(p288)
2026年2月14日読破
2026年2月14日作成