あらすじ
詩は難解で意味不明? 何を言っているのかわからない? いや、だからこそ実はおもしろいんです。技巧や作者の思いなどよりももっと奥にある詩の本質とは? 谷川俊太郎、安東次男から川田絢音、井坂洋子まで、日本語表現の最尖端を紹介しながら、味わうためのヒントを明かす。初めての人も、どこかで詩とはぐれた人も、ことばの魔法に誘う一冊。あなたが変わり、世界が変わる。(講談社現代新書)
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
『「作者の伝えたいこと」なんて、ここにはないのだ!
なくていいのだ!』
詩を読むことに苦手意識のある者は
ぜひ本書を手に取ってみてほしい
僕はこの本で詩を読むという事に対して救いを得たと思う
Posted by ブクログ
501
人間が万能であったら、芸術はうまれないと思う。ひとは完璧をめざして達成できず、理想の道筋を思いえがいてそれを踏みはずす。その失敗のありさまや踏みはずし方が、すなわち芸術ということなのではないだろうか。
渡邊十絲子(わたなべ としこ)
1964年東京生まれ。早稲田大学文学部文芸科在学中、鈴木志郎康ゼミで詩を書きはじめる。卒業制作の詩集で小野梓記念芸術賞受賞。詩集『Fの残響』『千年の祈り』(以上、河出書房新社)、『真夏、まぼろしの日没』(書肆山田)。書評集『新書七十五番勝負』(本の雑誌社)。エッセイ集『兼業詩人ワタナベの腹黒志願』(ポプラ社)。ことばによる自己表現の入門書『ことばを深呼吸』(川口晴美との共著、東京書籍)。本を読み書評を書くこと、スポーツ観戦、公営ギャンブルに人生の時間と情熱をささげる。月刊専門誌「競艇マクール」のコラムは連載14年め。
歌もそうだ。一分の隙もなく楽譜に指示されているとおりに歌を歌えたとしても、 それが人のこころを動かすことに直接はつながらない。たとえ技巧はへたであっても、楽譜どおりに歌えていなくても、その「理想とのずれ」には意味がある。息継ぎやため息のようなノイズにさえ魅力はある。歌っているのはたしかに人間であって、 「こう歌おうというプランの機械的な遠成」ではないことを感じとらせるからだ。
人間が万能であったら、芸術はうまれないと思う。ひとは完璧をめざして達成できず、理想の道筋を思いえがいてそれを踏みはずす。その失敗のありさまや踏みはずし方が、すなわち芸術ということなのではないだろうか。
失敗は失敗だけれども「こんなところまで攻めることができた」。それを感じて、 われわれ人間は芸術に感動するのではないか。その感動は、一流のスポーツ競技者を 見るときの感動とまったくおなじものであると、わたしには感じられる。 詩もそんな試みであってほしかった。あらかじめ伝えたい内容が決まっていて、それを過不足なく読む人にわからせるのは、詩の使命ではないと思った。
ある詩が、そのときその人にとって「わかりやすい」ということはつまり、あたまやこころのなかの既知の番地に整理しやすいということである。
なるべく道を一直線にして、寄り道や袋小路を排除し、誰でもおなじ道をまちがいなくたどれるようにマニュアル化する。そういう行為を、われわれは詩の外であまりにもたくさんこなしてきた。ビジネスの場でも、教育の場でも、あるいは家事のようなことにおいてさえ、効率を目標にしてきた。それは一見、むだをはぶいて経済的でもあり、人間に余暇をもたらすようにも見えたかもしれない。しかし、いまやわれわれは効率のあじけなさを知り、効率を最優先にした行動がいかに人間的なこころをだめにするかも知っている。
わたしが知った詩の役割とは、つまりそういうものだった。詩は謎の種であり、読んだ人はそれをながいあいだこころのなかにしまって発芽をまつ。ちがった水をやればちがった芽が出るかもしれないし、また何十年経っても芽が出ないような種もあるだろう。そういうこともふくめて、どんな芽がいつ出てくるのかをたのしみにしながら何十年もの歳月をすすんでいく。いそいで答えを出す必要なんてないし、唯一解に到達する必要もない。
詩とは、あらすじを言うことのできないもの。詩とは、伝遠のためのことばではないもの。「なにかでないもの」という言い方ならばできそうだが、「詩とはこれだ」とひとことで言うことはむずかしい。 詩は、雨上がりの路面にできた水たまりや、ベランダから見える鉄塔や、すがたは 見えないけれどもとおくから重い音だけひびかせてくる飛行機や、あした切ろうと 思って台所に置いてあるフランスパンや、そういうものと似ている。
数学者が難問にとりくんでいる最中に、非常にシンプルで美しい式を得たら、かれはその正しさを確信するにちがいない。 おなじように詩人は、詩を書き、推敲し、詩句をひねりまわしている最中に思いが けない美しいことばを得たら、その詩の正しさを確信するのである。
Posted by ブクログ
読みはじめる前、とても不安だった。
詩というものがわからない自分がここに書かれてあるものをちゃんと理解できるのか。
国語が嫌いだった自分に、ここから意味が見出せるのか。
最初の数十ページで、そんな不安に寄り添ってもらったような感覚になった。
自分の世界を広げる意味で普段手にとらないような本をたまに手にとって読んでみる。今回は大成功だった。自分の中にある詩の概念がまるっきり変わった。そもそも定義や概念自体曖昧なものだったことに気付かされた。単なる詩の解説本でも、紹介のたぐいでもない。深く思考して言葉を味わうスキルがなくても、ある程度のところまで連れていってくれる。詩はこんなにも自由で壮大だったのかと、この歳になってもまだ新しい感覚があったのかとワクワクさせられた。人の心に関わる仕事をしている自分にとって、新たな視点がもらえた。自分の好きな詩を探してみようと思う。まずは作者の方の詩から。
死ぬまでにあと何回かは確実に読むだろう本に出会えて感謝。
Posted by ブクログ
何度か読み直しているのだが、とても素晴らしい名著。
以前読んだときはちょうど詩に興味を持ち始めた頃だったのだが、ある程度読んだ今読んでもやはりこの本は良いなあ、と思う。
詩に触れるときにその余白の広さや飛躍から、わけのわからないところに連れて行かれたような気持ちになって戸惑うことがある。その戸惑いを楽しめるか、わからないものとして拒絶するのか。その戸惑いや疑問もわからないものとして受け入れることが出来れば、詩をもっと楽しむことが出来る、自分が何に疑問を持つのか、それすらも発見になるというようなことが本著に書かれている。
自分は映画が好きで人の数倍も映画を観ているのだが、同じことを映画を観ていても思う。意味のわからなさやどこに連れて行かれるのかという飛躍、解釈することの難しさや余白の広さはそれ自体が映画を豊かにしていると思うのだが、多くの人はそのわからなさをわからないものとして拒絶してしまう。
自分が詩や俳句、短歌に惹かれるのはそのわからなさに惹かれるからだな、とこの本を読んでわかった。
Posted by ブクログ
以前、Twitterでとある詩が話題になったことから影響を受け、何か詩に関する本を読んでみたいと思い手にとった。学校の授業ぐらいでしか詩に触れてこなかったがが、そんな詩に馴染みのない私でも読みやすい文章だった。
この前読んだ本にも出てきたキースのネガティヴ・ケイパビリティという言葉が出てきて少し嬉しかった。わからない部分はわからないままに素直に受け入れて、全てがわかるはずがないと謙虚にわからないことを楽しむ視点を大切にしたいと思った。
詩の読み方ではなく、自分なりの楽しみ方が書かれておりこのタイミングで読めてよかったと思う。これからは詩を楽しんでみたいと思った。
また、人間は変わりゆくものという筆者の人間観や筆者が歩んできた経験から語られる言葉も興味深かった。
Posted by ブクログ
現代詩の読み方を教えてくれる本かと思って読み始めたら、それ以上の学びがあった。
詩はわからないもの、わからないを認めること、自分という存在の流動性と小ささ。
平易な文ですらすら読めました。
安東次男と川田絢音と井岡洋子の詩を読んでみようと思う。
Posted by ブクログ
「わからない」ことの頼りなさと心地良さ、「人間が世界を完全に理解する」というアイディアの浅はかさを再認識させてくれる。もう少し早く手にとっていれば…いや、今からでも遅くないはず。
Posted by ブクログ
渡邊十絲子. 2013. 今を生きるための現代詩. 講談社 / 講談社現代新書(2209).
www.kodansha.co.jp/book/product...
読んだ。
- 第3章の安東次男論を通じて、文字をひらいたり、あるいは漢字やカタカナにしたりといった技法が、日本語の「音声が〔書評者注:意味を特定するにあたって〕無力であるためにことばが文字のうらづけをまたなければ意味を持ちえない、という点」での特殊さ(※)と関連している、という指摘がなされており、この点は面白かった。スガシカオが歌詞を担当した「夜空ノムコウ」がなぜ「夜空の向こう」ではいけなかったか、みたいな話ができそうだ。
(※ 高島俊男『漢字と日本人』の引用を本書の p. 97 から孫引き)
- それから、第2章の p. 79 で、詩人 John Keats (ジョン・キーツ)の negative capability (不確かさ、不思議さ、疑いの中にあって、早く事実や理由を掴もうとせず、そこに居続けられる能力)にも言及していた。(土居健郎『新訂 方法としての面接 臨床家のために』からの引用)。ネガティブ・ケイパビリティのダイレクトな実践の場としての詩、という考え方は、構えとして正しい気もする。「わからなくていいじゃない」と同時に「わからないくらいなんてことない」という感じだろうか。
Posted by ブクログ
荒木博之さんのブックカフェだったか、超相対性理論だったか、まあどちらかを聴いて興味を持った。
文章を読むのが人より少しだけ好きなことは自覚しているが、正直に言うと詩について興味関心を持ったことがこのかた一度もなかった。
短歌や俳句には、ちょっの面白そうだな、と思うぐらいの興味が湧いたこともあったが、散文…ましてや現代詩はどうも読む気にすらなったことがない。
Podcastでこの本が紹介された時に、その本自体への評判よりも、それが何故なのかなー…ということ、つまり自分自身に対しての長年の問いが先行して、読んでみようと思った。
そしてその問いの答えは、早々と第1章で明かされる。
谷川俊太郎さんの生きる、という詩。
読んだことはあったかもしれないが、まったく覚えていない。
今回、本書に収録されていて改めて読んだが、とても読みやすかった。
なかなかいいな、とすら思った。
子どもにこれを読ませたいという気持ちもわかる。
ところが、子どもサイドに立ってみれば、少々事情が違うらしい。
この詩は、人間を生きていくうちに徐々に味わう人生の機微、文脈を知らずしてはなかなか噛み砕くのがむずかしいタイプの詩である、というのだ。
この詩におけるテクニックやら、教養、知識をただ教え込まれ、正解とされる読み方を単に上から与えられるというのは、読まされて読者になった子どもにとっても作者の谷川俊太郎にとっても悲劇でしかない。
なるほどなぁ…。
思い返してみれば、確かにそういうところ躓いた気もする。
今読むといいんだけどな。
長年の問いがあっさり明かされた後に読んだ第2章以降は恥ずかしながらどの詩人のお名前も知らなくて、収録されている、詩はまさにいままで興味すらなく読んでみたこともないようなthe現代詩。
…え、全然わからない…。
いや、第1章で現代詩に興味がなかった原因がわかって克服したはずでは?!
結論を言うと、2章以降の詩はどれもわたしにとっては不可解で、
読んでこなかった本当の理由は「わからない」を不快なものとして刷り込んできたからだ、ということがよくわかった。
(特に音読ができない詩、というのはわたしにとってとても大きいハードルだと気がついた)
そもそも味わい方を知らない。
どうしても作者の意図を読もうとする。
わからないものをわからないまま棚上げにできなくて、わからないものは自分にとって意味のないもの、意味のないものは良くないもの、という刷り込みが働いている。
著者である渡邉さんの解説を読みながら、そうやって読むのか!
と、再びチャレンジした、私にとって不可解で意味のない言葉たち。
それが、わからないなりの違った見え方でにじり寄ってくるような感覚になった。
この感覚は、去年からハマった絵画鑑賞に近い。
意味はわからないけど、わからないことは悪いことではない。
もやもやとわからない不快感を胸に置きながら、それが未来に伏線となってスパークする日も、もしかしたら来るのかもしれない。
少なくとも、こんなにも不可解で、物事のぼんやりとした輪郭や、世界にはびこる言葉にしようがない気配、みたいなものを言語化するなんて、意味はわからないけどなんだか凄い技術だ、ということはわかった。
それにしても著者である渡邉さんの、詩を嗜む、味わうための方法について論じる文章が本当にわかりやすく際立っていて、目から鱗が落ちまくる。
わからなさを愉しむ作法をわかりやすく言語化している本書。
これまた凄い技術だ。
いやぁ…2024年、一発目の本としては、かなり相応しい良書。
今年は詩集を読んでみよう。
Posted by ブクログ
現代詩の世界に入りたいんだけど、多分まだ経験が浅くて言葉の上を滑ってばかりいる。この本は渡辺さんが一緒に声をかけてくれながら並走してくれる。速度感とかどこを使って読めばいいかとか真似させてくれるので今まで無感覚だった所に沁みてきながら、詩に関わることができたら。
Posted by ブクログ
某ポッドキャストでおすすめされてたので手に取った。
『第2章 わからなさの価値』や『終章』で語られている「理解できないものたちへの向き合い方」は、自身の今後の学びにおいて、立ち止まってじっくりと迷う勇気をもらえた気がする。
Posted by ブクログ
詩を書くものにとってよき道標となる良書だ。何より作者自身が詩人であるため、具体的な例を上げて解説しており、分かりやすい。現代詩の妙味を次の五つの切り口で語っている。
1.教科書のなかの詩
2.わからなさの価値
3.日本語の詩の可能性
4.たちあらわれる異郷
5.生を読みかえる
Posted by ブクログ
詩にはあまり触れてこなかったけど、意味のない詩もあると知って見方が変わった。意味よりも表現に力を尽くす詩もあるなら無理に読解しなくてよくてただ眺めるのもありなんだとわかって気楽に詩に触れられそうと思った。谷川俊太郎の「生きる」はとてもいいなと思った。
Posted by ブクログ
この本を読んだところで、詩とは何なのか、どう読めばいいのかということがわかるわけではない。でも、わからないことを楽しめばいいし、こんな読み方もあるんだよと教えてくれる。日本語の特徴によって音読では鑑賞できない詩もあるというのがおもしろかった。
Posted by ブクログ
現代美術について考えていて
ちょっと外から客観的にみたくなり
詩についての本を読みました。
結論から言うと想像していたよりずっと面白く、
私の求めていることが多くあったように思います。
ぼんやりを、筆者の視点で言語化していて
とてもしっかり伝わってきます。
紹介されている詩を読んだときに、
頭の中に出てくる「?」やイメージは
アートを見ている時ととても、限りなく、近い。
自分の知らないけど知っているような
忘れているだけなような、ぼんやりとした記憶のような、、
に気づかせてくれる、呼び起こしてくれる。
そうそう、そういうこと!が多かった。
ので、
以外自分のための備忘。
未来を描いている
幻の時としての未来と響き合う表現
分からないことの大切さ
ただ純粋な言葉
伝えたいことなどない
抽象画的に目で見る
文字のイメージ、ひらがな感じ、重なり合いを楽しむ
誰にでも通じる言葉の対局にある、孤独のことば
確立された自分像を疑う
いつも流動的で普遍などない
神の声を聞く
人間のコントロールからこぼれ落ちた
世界の手ざわり
感情や知覚の微妙なありようを、
まだ知らない感じ方をつくるきっかけになる
まだ知らないことの予感をあたえてくれる
理解できない余白を認めること
自分像を白紙に近づけること
Posted by ブクログ
詩歌は作者も全的にその内容を理解しているわけではなく、それを受け取るがわも意味や作者の意図を理解しようと読んでもしょうがないと説く。それよりもただ対峙して読み続けると、未来に、ハとその詩歌に書かれているような事が理解できる瞬間があるという。そのため(?)に読むものだというようなことが書いてある。日々情報を消費することに身をやつしている我々には非効率で、贅沢な営みに感じるけど、アンビエントミュージックを聞いたりする行為と似たところがあるのかな。一つ思ったのは、掲載されている詩を読んで、今の自分が共感できる内容だと”わかる”けどなんかわかったことが安っぽく感じてしまったりして。逆に”わからない”と言葉と言葉のつながりが今の感覚と離れすぎて、何のイメージも結ばなかったり、あえてただつながりを想起させないような言葉であることのみをもってそれらを選択しているようにも感じられて、作為的でいやらしさを感じたりして。難しいものだな。でも、川田絢音ってひとの、グエル公園って詩は良かった
Posted by ブクログ
詩はわからないのを楽しめばいいんだ!と思えた。
序章に書いてあるように、国語教科書で学ぶ詩は面白いと思えない。
それから、詩は音読するものという概念が間違っているという指摘も目から鱗だった。
読めないという事も楽しめるんだなぁと納得。
第5章 生を読みかえる
の部分だけちょっと納得いかなかった。
Posted by ブクログ
詩の楽しみ方が変わる好著。
賢しらに解釈しようとせず、
「今は分からない」と、未来にむけての
可能性を開く。
音、図像、様々な角度から
楽しめるのが詩。
Posted by ブクログ
谷川俊太郎、黒田喜夫、入沢康夫、安東次男、川田絢音、井坂洋子らの詩を取り上げながら、現代詩の愉しみ方を語った本です。難解とされる現代詩を、性急に「解釈」しようとするのではなく、著者自身がその「わからなさ」に寄り添い続けることを実践してみせることで、読者を詩の世界へと巧みに巻き込んでいきます。
著者は、安東次男の詩を「音読することができない」ことについて論じるに際して、中国文学者の高島俊男の議論を参照しながら、現代の日本語が文字の裏付けがどうしても必要なものとなってしまったと主張していることに触れています。この高島の議論は私も読んでおり、また石川九楊にも同様の主張があったことも承知していたのですが、そのことが日本語で書かれた現代詩の重層的な喚起力の説明に有効だという著者の洞察には、目を瞠らされました。
何よりも、著者が本書で取り上げられている詩を手のひらの上で転がしながらためすがめす眺めているような雰囲気が文章から伝わってきて、詩を読むとはこのようなことなのかと、深い了解が訪れるのを感じました。
Posted by ブクログ
現代詩と言えば難解ないイメージがあり、実際解ろうとしてもわからない、そんな作品が多い。
しかし本著で著者はそれを良しとし、わからないことを肯定する。
もちろん感覚的にただそれでよい、と無条件に称賛するだけでなく、そのわからない、という感覚事態をどのように捉えるかも詩の魅力であると説く。
喩えとして、抽象画や現代音楽などがそうだ。難解であると切り捨てたりある種の正解・鋳型に当て嵌めるのではなく、そのものを受け入れることで読者としても新しい地表を拓けるのではないかという提案がなされる。
読後そのように考えると、これまで目に入らず「よくわからなかった」現代詩というものに対する興味がわいたきた。
また少しだけ論じられる、性差による詩の形態・傾向(世界の認識)が、写真などの映像においてもそうかもしれないなと興味をそそられた。
Posted by ブクログ
詩に対する堅苦しい意識から自由にしてくれる。現代詩には、理解できない余白、説明できない余白があり、それが閉ざされた自分を開いてくれればそれでいい。詩の内容は、書いた詩人にもわからなくなる変わりゆくもの▼教科書は、詩を作者の感動や思想を伝達する媒体としか見ていないようだ。▼詩はただ純粋な言葉である。日常の秩序をゆさぶり、私たちの意識に未体験の局面をもたらす、そのような作用をすれば十分だ。人間社会の秩序から見れば意味や価値のないことを考えたり、ヒトとは違うことをしたりするのは、じつはみんなが思っているよりずっとずっと大事なことだ。詩は謎の種、長い間心の中にしまって発芽を待つ。現代絵画のようなもの。▼悲しい詩も、喜びの詩も、わからない詩もあるが、自分を解放してくれれば、それだけでいいのだなと思った。
Posted by ブクログ
新書らしくないと感じたというか、エッセイみたいに読んだ。面白かったが詩の読み方なるもののヒントはあまり得られず、やっぱり詩というものは恣意的に読めばいいのだなという感想に至った。
外側から(川田絢音)や山犬記(井坂洋子)が好きだった。
Posted by ブクログ
現代詩を、あらすじなどを解釈せずに、難解なまま出会って、より高次元の感覚に触れようとする解説書
自分に刺さる詩はなかったが、言葉の性質や詩の表現方法やについては興味深いものはあった。
Posted by ブクログ
詩の楽しみ方、面白さを教えてくれる本だった。
そして、詩は難しそうだと思っている人も多いかもしれないが、書いている本人さえ、詩が自分を超えてしまい、完全に理解しているわけではないんだと、だから、「知らない」「わからない」ことを楽しもうと、投げかけてくれた。
私が大切にしている、「ネガティヴ•ケイパビリティ」に通ずる考え方だ。
わかってしまうとつまらない、何度でもくりかえし読むことができ、読むたびに新たな発見がある。それこそが、本当に価値のある作品なのだ。
Posted by ブクログ
詩人が詩を書き推敲する中で見つける美しいフレーズは、数学者が難問に取り組む中見つける非常にシンプルで美しい数式のようなものとい説明が腑に落ちて印象に残っている。
Posted by ブクログ
現代詩と和解する。
「解説」を目指さずに、現代詩と触れ合う場に誘ってくれる。
「わからなさ」を受け止め、向き合い、未来と響き合うことを期待する。
◯「実感の表現」とは事実上の「再現」であって、表現の根拠を過去に置いている。
◯それに対して、自らの表現が未来と響き合うことを期待している。
◯一般に人は、実力が足りないときには、対照を否定することしかできない。
◯詩は、「伝えたい内容があらかじめあってそれを表現する」ものではなく、「表現がさきにあって、結果的になにごとかが伝わる可能性を未来にむけて確保している」
◯なぜ、この詩がここで書かれたかを問うことも、この詩を書くことによって詩人がなにをなそうとしたのかを問うことも、無意味のように思われた。わたしにはただ、強くあざやかな「わからなさ」の感触だけがあった。そしてそれは、ふるえるほど魅力的だった。
◯「接近しようとするこころみの途上」にあるとき、人はじつにいろいろなことを知り、感じ、考える。あらたなアイディアをもってその詩の謎に向かうとき、あらたな自分がうまれる。
◯音声が無力であるためにことばが文字のうらづけをまたなければ意味を持ち得ない、という点に着目すれば、日本語は、世界でおそらくただ一つの、きわめて特殊な言語である。
・音読不可能性
◯だれにでも通じることばは、深みというものをもたない。「通じる」度合いが高ければ高いほど、そのことばは記号化し、符牒のようなものになっていく。
詩のことばは、そうしたことばの対局にある、孤独のためのことばだ。
Posted by ブクログ
p30
生きる 谷川俊太郎
詩に親しんでいない多くの人にとっては「自分が既に知っている感覚の再現」をしてくれるものだけが詩なのかもしれない
しかし詩というものの中には、こうした「実感の再現」とはまったく性質の違うことばで書かれたものもある。そして私がひかれたのはそちら側の詩、つまり「実感の再現」などとはほとんど無関係の詩なのだった。
沈黙の部屋 谷川俊太郎
p198
詩とは結局のところなんだろう。詩はこれだと一言で言う事は難しい。詩は「世界の手ざわり」の一つ。私がまだ知っていない「わたしの感じ方」を作るきっかけになっている。
Posted by ブクログ
谷川俊太郎の「六十二のソネット」の目次が「きわめて前衛的な詩」として著者の目にうつるのは、本文中に書かれているとおり詩人の「ことばのトーン」が「すみずみまで注意深く統一されて」いるからで、でたらめでよいということではたぶんない。
私は「詩を書く」ということをあきらめきれていないのか、読み手としては「わからないけどかっこいい」で満足なのですが、どうしてもその言葉の取捨選択の基準をわかりたくなってしまいます。
だから読み手としては勇気づけられたのと同時に、「詩を書く」ことについてはやはり私には難しい、という軽い失望も感じてしまいました。抽象画にたとえて詩を解説しているくだりもあったけれど、訓練によって上達可能なデッサン力を身につけても、それだけで抽象画が書けるようにはならないだろう、みたいな。
紹介されている詩がどれもすごく良くて、すごい詩とたくさん出会えるアンソロジーとしても読む価値があると思います。
「西洋の言語はどれも、文字で書かれた詩を朗読することに格別の困難はないかもしれないが、日本語では事情が違う」「日本の現代詩は(少なくとも自分の書く作品は)、声に出して読むことは不可能である」という言及は印象的でした。