【感想・ネタバレ】新約聖書を知っていますかのレビュー

あらすじ

新約聖書の冒頭で、マリアの夫ヨセフの系図を長々と述べているのはなぜでしょう。処女懐胎が本当ならば、そんなことはイエスの血筋と無関係のはずです。ところで、聖書の中に何人のマリアが登場するか知っていますか? ではヨハネは? そして、イエスの“復活”の真相は? 永遠のベストセラー『新約聖書』の数々の謎に、ミステリーの名手が迫ります。初級者のための新約聖書入門。

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Posted by ブクログ

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・感想、気づき
旧約聖書、新約聖書は前編と後編のような建付け。
新約聖書を主に構成しているのは4つの福音書。
中でもマタイによる福音書がスタンダードと言える。
イエスはマリアのお腹から生まれているが、ヨセフとの営みなく授かった神の御子とされている。(神は別にいる)
イエスの一番弟子とも言えるポジションはペテロ(シモン)。非常に人間らしさのある弟子。
直接的な弟子と言えるのは裏切り者のユダを含めて12人だが、特筆するエピソードが残っているのは一部の弟子のみ。(大ヤコブやヨハネ等)
キリスト教の普及の功労者とも言うべきパウロは直弟子ではないが、非常に有能な人材であったと思われる。

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2020年05月03日

Posted by ブクログ

ネタバレ

前から読みたかった新約の方の聖書。

聖書の登場人物が何となくわかりました。
ただヨセフ出てきすぎ。
何人おるねん。


要するにイエス様が仰るには、
人にされて嫌なことするな。
って感じ。

あとは、愛される者を愛するのは当然。
完全な存在になりなさい。

他人を許しなさい。
そうすれば天の父もあなたを許してくれます。


ってな感じ。


キリスト教がこれほど世界で広まって
イエス様が受け入れられたのは、
それまでの神聖なる、崇高な存在が
傲慢であり選民思想だったのに対して
イエス様は低姿勢で謙虚で
異教徒であろうと受け入れて
手を差し伸べたところなんやろね

それまでの傲慢なユダヤ教徒からしたら
まさに革命児やったんやろね

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2017年08月18日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 旧約聖書を知っていますか、に引続き、新約だ。

 イエスの言葉は、たとえ話であったり、質問に対する断片的な回答であったり、戒めであったりして、真正面から教義の中核を語っているものは思いのほか少ない。イエスは、教義についてはむしろモーセの十戒など旧約聖書の中にそれを求め、そこから選び抜き、新しい意味を与えるといった方法をとっている。その根底にある規範は神への完全な愛であり、そして実践的には隣人を自分自身のように愛することである。また、人間には出来ないことも神にはできる、と、言われた。イエスの教えの中枢には神は人知を超えた存在であり、だから、ただひたむきに、ひたすら神に対してすがり求めること、神への完全な信頼があれば必ずよい答えが得られると述べている。隣人愛の具体的な指針として、”人にしてもらいたいことをあなたがしなさい”と記している。やさしい言い方だが、この倫理の包容する範囲はとても広い。殺人はどうか、姦淫はどうか、親切はどうか、おのずと答えが生まれる。一つ一つの行動について、これは自分にして欲しいことだろうか、してほしくないことだろうか、と問いかければ、おのずと選択の目途が立つ。それを厳密に考え実践することが神の心にかなうことである。

 イエスはいくつかの啓示を得て、自分が神であることを確信した。この確信の背景には当然のことながら、神の存在への確信がある。”私は神の子としてこの地上に遣わされたのだ”という思いが徐々に確信にかわって言ったのだろう。なにしろ全知全能の神を背中に背負っているのだ。ならば、神がいかなるものか、その説明は無用である。どのみち神がいかなるものか、人間などに分かるわけがない。小ざかしい疑問を抱くより、ただひたすらに信じる方が寛容である。なにしろ相手は人間を愛して、愛して、愛してやまない神なのだから。福音書には、教義に属すること、私はこういう神ですよ、といったことが余り記されていない。そんなものをいちいちいう必要は無い、それが福音書の方針なのだろう。神は全知全能だから、疑いを持たずに神を信じなさい、ということだ。だから『求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門を叩きなさい、そうすれば開かれる。だれでも求め続ける者は受け、探す者は見つけ、門を叩くものには開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このようにあなたがたは悪いものでありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない』なのである。人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい、なのだ。

 あとは、神の存在を、具体的にはイエス自身が神の子であることを証明すれば、このように言っていることがきっと信じられるだろう。その証明が明確で、力強ければ、そのぶんだけ、私は神の子である、というテーゼが明確に、力強く裏打ちされることとなる。とにかく信じなさい、わるいようにはしない、神なんだから。という主張は、そのよりどころを”本当に神かどうか”にかけているといってもよい。神の子であるという強い確信を持ったイエスは、その証明方法として、人間の原罪を一身に背負って十字架にかかり、死後に復活して見せるという道を選んだ。これもまた、なにかしらイエスの中に啓示があったのかもしれない。

 あとは、キリスト教を体系立てて世界的な宗教に、ユダヤ教の一派ではなく、それとは違う宗教に仕立て上げた最大の功労者、パウロのことである。パウロの考えは、まずはイエスキリストを信じることだった。律法を守るかどうかは次の話でありイエスを信じなければ、はじまらないということだった。割礼より先にイエスを信じろと。旧約聖書に記されたアブラハムから、イスラエルの民はモーセを仰ぎ、ダビデを敬い、ずっと律法を神の掟として過ごしてきたが、機が熟したところで神は救世主であるイエスを地上に遣わし、イエスの血により人間の犯した罪をあがない、イエスを信じることによって人間が救済されるという道をお示しになった。これらはみんな神の眼から見れば、あらかじめ決められていたことであり、イエスの顕現を経た今日では、古い律法を守ることより、イエスを救世主として信じることの方がよほど重要であるという。ただ、やっぱり律法もちゃんと守らなくちゃいけない、という人も多かっただろう。でも、それではキリスト教はユダヤ教の一派に成り下がってしまう。そのため、パウロは、割礼などの律法は守らなくてよい。イエスを救世主として、しっかり信じることだ。十字架にかかり、復活した意味をきちんと理解することの方が重要だ。といって、パウロは精力的に布教活動を行った。あなたが受けた割礼も、盗むな、姦淫するなという律法を守ってこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じだ。だから割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けたものとみなされるのではないかと言った。そして、体に割礼を受けていなくても、律法を守るものがあなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を読め、割礼を受けていながら、律法を破っているのだから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではなくなる。内面がユダヤ人であるものこそユダヤ人であり、文字ではなく、霊によって心に施された割礼こそが割礼なのだ。(ローマの信徒への手紙第2章)

 旧約聖書の方はイスラエルの建国史と読める部分が多くあるが、新約は、徹頭徹尾信仰と結びついている。美術館を巡るときも、西洋美術は特に聖書と結びついている。演劇も映画も、音楽もだ。そんなときに、聖書の知識があるとないとでは理解の深さと面白さが全く違う。皆さんも信じる信じないというより、しっかりとキリスト教を勉強すべきだ。

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2018年04月15日

Posted by ブクログ

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「旧約聖書を知っていますか」に続いて。なんとなく知っているつもりなっているけれど、実はよく知らない聖書についてのお話。聖書が分かればキリスト教についても理解が深まる。著者自身がキリスト教徒ではないという立場からの解説が分かりやすい。イエス・キリストの奇跡が本当だったのか、実際にあったのかという論争は絶えないが、結果として信じられていることが重要という指摘に納得。

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2017年10月17日

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