あらすじ
新約聖書の冒頭で、マリアの夫ヨセフの系図を長々と述べているのはなぜでしょう。処女懐胎が本当ならば、そんなことはイエスの血筋と無関係のはずです。ところで、聖書の中に何人のマリアが登場するか知っていますか? ではヨハネは? そして、イエスの“復活”の真相は? 永遠のベストセラー『新約聖書』の数々の謎に、ミステリーの名手が迫ります。初級者のための新約聖書入門。
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信仰していない立場からの新約聖書論であることを明確にしていて、聖書に馴染みのない読者からの疑問にも応える形になっているのが良い。福音書の性格やイエスの復活、パウロの手紙など、要所要所にこれまでの研究を踏まえた著者自身の考えが滲み出している。
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旧約聖書を知っていますかと合わせて、今後の読書、映画、芸術をより深く楽しむために大いに力になってくれそうです。
阿刀田さんありがとうございます。
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分かりやすい面白いすごい!
信仰を持たない作者が信仰を持たない読者のために、新約聖書をわかりやすく噛み砕いたもの。
作者の大胆な解釈やツッコミ、間に挟まるエッセイがちょうどよく、すらすら読み進められる。
知っているエピソードも多いが、聖書全体をつなげてよんだことはなかったため、新鮮な気持ちである。そして、洗礼者ヨハネとヨハネによる福音書、弟子のヨハネが別人物なのはびっくり。
●魅力的な登場人物たちについて
登場人物たちがみんな魅力的でいきいきと描かれており、イエスの死の前後はとくにぐっと読んでしまった。
マグダラのマリアがイエスの死後墓に遺体がないのを知ってなきながらうろたえてるところに、「婦人よ、なぜ泣いてるのか」と声をかけたひとがイエスだったっていうエピソード、情景として結構すきだ。
それから、
おそわれたイエスを庇って剣を出したペテロに「よせ、剣を持つものは剣で滅びる」って言ったのとか、
遺体を十字架からおろしてきれいな亜麻布でつつんだアリマタヤのヨセフとか、
イエスの死を知って銀貨三十枚を祭司長たちに返そうとしたけど突っぱねられてそのまま銀貨を神殿に投げて首をつったユダ
とか........
イエスを中心とした当時の人々の姿がありありと思い浮かぶようだ。
●信仰について
筆者の知り合いKさんの言葉がひとつ、印象的だった。
どうしてあのときだけ神の子が地上に現われたか、という筆者の問いに対して、
「イスラエルの民は千年の長きにわたって、ずっとメシアの降臨を願い続けてたわけでしょ。それも並たいていの熱意じゃない。(中略)だから神の子が来臨するとすれば、ああいうところしかないんじゃないかな」
と言う。
妙に腑に落ちる言葉だった。
イエスもまた神を強く待ちのぞみ信じる人のひとりだったからこそ、イエスは神の子になったのかもしれない。
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新約聖書が家にあったため、教養になるかと思い頑張って読み終えた。
キリスト教の信仰について、つらつら書いてあり、よく分かりづらかった。
そのため解説書でも読もうと思い手に取った一冊。
信仰を持たないことを前提に新約聖書を解説したこの本は、日本人としてすごく読みすいものでした。
同じ名前の人がたくさん登場すること、盛大にかかれていることは実は当時の社会を写した描写であること等、
まさに解説書として素晴らしかったです。
他の解説書は読んでませんが、新約聖書に関するひとつの解釈として十分に満足できました。
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永遠のベストセラー「新約聖書」を著者の考察も添えながらわかりやすく解説している
新約聖書はイエスの生涯を表す部分が終わると、新しい部分に入り
イエスの亡き後、直弟子やその他の弟子たちがイエスの教えをどう伝えたからキリスト教がどう成立して、そこにどんな困難があったか、どんな励ましがあったかが語られる
著者の推測も含め以下のエピソードが印象に残った
◎マリアもアブラハム以降の血を引いており、処女受胎にも納得がいく
◎ヨハネの首を討ち取ったのはヘロデス王国の政治的な判断とヘロディアスの憎しみによるものであり、サロメは傀儡にすぎなかった
◎奇跡のエピソードは一つの比喩であり、イエスの偉大さを大衆に伝えるために適した伝達方法だった
◎十字架に架かる前日、ゲッセマネでイエスは長い煩悶のすえ、再び確信を取り戻す
◎イエスの復活は、まだ脆弱であった集団の基盤を確かなものにするために欠くことができない、絶対に必要なものであった
新約聖書の構成は
福音書(4巻)、歴史的記録(使徒言行録)、手紙(使徒たちの檄文)、文学(黙示録)
となっており、中核を成すのは福音書である
ちなみに福音書はイエスの言動を伝えるものと思われがちだが、厳密に言えば、それぞれの著者がイエスをどう捕らえたか、どう伝えねばならないと思ったか、執筆者の主観と立場を反映させたものである
聖書の知識が美術、演劇、映画、音楽の理解における不自由さを軽減させてくれると思うと、これから先芸術に触れていくのが待ち遠しい
Posted by ブクログ
『旧約聖書を知っていますか』に続く、イージーモード教典シリーズ第2弾。良くも悪くも超人的イメージがついてまわるイエス・キリストに対し、彼を「人間」として捉え、その心理をさぐる解釈が面白かった。
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あくまで無信仰という立場から史実に基づいたイエスとその生涯に関する推察が述べられていて知識蓄積と面白さの両方を揃えた素晴らしい本だった。信仰を持たない人でないと読めないほどのポップさである。
これで読んだ内容は決して親交の深い人には話せないな。。。
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『旧約聖書を知っていますか』に続いて読みました。
いや、今更ながら、勉強になりました、この2冊。聖書についておおよそでも知っていないと、西洋…なかんずくイタリア絵画や彫刻などを観ても何が描かれているのか分かりませんからね…もっと早くに聖書の基本中の基本知識…初歩知識くらいは当然にインプットしておくべきでした。
Posted by ブクログ
阿刀田高さんの古典をわかりやすくエッセイで読めるシリーズの一冊。前作の旧約聖書と同様、新約聖書もわかりづらいものですが、気軽な解説入りなので入ってきやすいです。入門編にはいいですね。Audibleで聴きました。
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聖書について軽い気持ちで学ぶことができる。
この本にも書いてあるが、触りだけでも理解していると今後活かせることがあるのかなぁと思ったり…。
旧約聖書を知っていますか、を次は読んでみようかな。
Posted by ブクログ
阿刀田高さんの教養書シリーズ。新約聖書について知らなかった知識を沢山教えてくれた。聖書について勉強したいと思いつつ、無信仰者の為、どの程度信じていいものか、またどういう姿勢で関わりを持てばいいのか悩んでいたところだった。この本では同じく無信仰者である阿刀田さんが、無信仰ならではの価値観で語っておりとても面白い。イエスは確かに実在した、ただし彼の起こした奇跡のようなものは流石になかったであろう。母マリアは受胎告知によってイエスを身籠ったのではなく、もしかしたら複雑な事情で別の男性との間に子供を儲けてしまった。しかし寛容なイエスの父親は、それを受け入れ、一緒に育てていくことを決めた。イエスとマリアは後年再開した時も、母よ、などと他人行儀な会話しかしない。それはイエスが僧侶としての遺言を保たねばいけなかったというだけではなく、そこら辺の複雑な親子関係のぎこちなさがあったのかもしれない。小説家ならではの洞察力で聖書を読み解いていく阿刀田さんの眼力はとても素晴らしい。信者ではない者でもこうして楽しく聖書を読ませてもらっていいんだという勇気をもらった。
Posted by ブクログ
聖書のことをこれほどおもしろく、わかりやすく書いた本は、はじめて読みました。
ぼんやりとしていた部分が、はっきりとわかり、目から鱗が落ちるとは、このことだと思いました。
それでいて、著者の姿勢は非常に謙虚で、語り口にも好感が持てます。著者は似たようなシリーズの著作を手がけているので、ぜひそれらも読んでみたいです。
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信仰をもたない作者ならではの見方で描かれる新約聖書の世界。おもしろい。エピローグで作者も言ってるが、洋画や絵画等は聖書の知識が前提になっているものが多い。ちょっとした小ネタとかでも知ってるとより楽しめる。そのために読むのにちょうど良い本だと思う。読みやすい。
聖おにいさんのイエスってかなり本人に近いんじゃないか?とこの本読んで思ったよ。
旧約聖書のほうも読んでみたい。
Posted by ブクログ
旧訳に続きテンポ良く読める。プロテスタント系の高校に通ってたため断面的に何となくは分かってだつもりだったけど、全体像掴めて良かった。これから色んな作品を楽しむのにとても役立ってくれるだろう。途中で億劫になる事もなかった。作者のまとめ方の上手さに感謝。あと作者が紹介するアート作品を調べながら読み進めたのだが、その作業にもワクワクできた。
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ユーモアや本人の旅行記を含めた聖書解説書。そもそもの作りとして旧約聖書の方がイスラエル建国のの話なので物語として読めたが、こちらはそうではない。イエスやイエスの言行、信仰への考え方を中心の書物であることがよく分かる。
Posted by ブクログ
・感想、気づき
旧約聖書、新約聖書は前編と後編のような建付け。
新約聖書を主に構成しているのは4つの福音書。
中でもマタイによる福音書がスタンダードと言える。
イエスはマリアのお腹から生まれているが、ヨセフとの営みなく授かった神の御子とされている。(神は別にいる)
イエスの一番弟子とも言えるポジションはペテロ(シモン)。非常に人間らしさのある弟子。
直接的な弟子と言えるのは裏切り者のユダを含めて12人だが、特筆するエピソードが残っているのは一部の弟子のみ。(大ヤコブやヨハネ等)
キリスト教の普及の功労者とも言うべきパウロは直弟子ではないが、非常に有能な人材であったと思われる。
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イエスの活動区域はそれほど広くない。4年に満たない公生涯と言われる期間では無理からぬ事。しかし、旧約と違ってキリスト教となってからは、その版図は西欧へと広がりを見せた。ユダヤ人が救世主の出現を乞い願ったのが1000年間。ミレニアムがユダヤ教・キリスト教にとって重要な区切りなのだと理解できる。ノストラダムスの大予言も1999年の終末を言ったことに意味があったんだな〜。ゴルゴタの丘で十字架に架かったイエス。その魂は弟子たちに受け継がれて「復活」したのだと私は解釈するが……
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大変読みやすく、聖書入門としてとてもおもしろく読めた。
奇跡についての解釈など、ナルホドの連続であった。
ただ、聖書のなりたちについて、最初はギリシア語と書かれているけど、そうだっけ?ちょっと怪しい気がする。
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宗教の知識があった方が、小説や映画がより理解できるかと思い、旧約聖書に続いて本書を読む。
旧約聖書がユダヤの長い歴史のように血筋にしたがって書いていくのに対して、新約聖書は、受胎告知に始まり、イエス、ペテロ、パウロなどの活動の話。
わかりやすくて、超初心者向け。
信仰でなく知識として興味がある人向け。
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前から読みたかった新約の方の聖書。
聖書の登場人物が何となくわかりました。
ただヨセフ出てきすぎ。
何人おるねん。
要するにイエス様が仰るには、
人にされて嫌なことするな。
って感じ。
あとは、愛される者を愛するのは当然。
完全な存在になりなさい。
他人を許しなさい。
そうすれば天の父もあなたを許してくれます。
ってな感じ。
キリスト教がこれほど世界で広まって
イエス様が受け入れられたのは、
それまでの神聖なる、崇高な存在が
傲慢であり選民思想だったのに対して
イエス様は低姿勢で謙虚で
異教徒であろうと受け入れて
手を差し伸べたところなんやろね
それまでの傲慢なユダヤ教徒からしたら
まさに革命児やったんやろね
Posted by ブクログ
キリスト教の信者ではないので
有名どころのエピソードを
知識的に考察するスタンスは
とっつき易く読み易かった
西洋美術を鑑賞するには
キリスト教の知識があると無いとでは
楽しめる深みも全然違うので
こういうエッセイはありがたい
和田誠 さんの表紙&挿絵も良い
配色(黒朱紫)が絶妙〜!
Posted by ブクログ
旧約聖書に引き続き
旧約聖書よりは知っていることも多かったが、聖書やイエスの立ち位置がよりしっかり理解できた。
イエスの復活を奇跡ではなく、推理してしまうなど、なかなか大胆なことをしているが、
信仰を持たないものにとってはとても理解しやすい内容だった。
欲を言えば、映画やドラマでよく引用されるヨハネの黙示録はもう少し解説が欲しかった。
Posted by ブクログ
新約聖書のあらすじを知りたくて読んでみた。
結果はあらすじを知るだけでも結構大変な作業だと分かった。
聖書は西暦300年ごろカルタ語で聖典として制定されたとの事を知り意外に感じた。
てっきりキリストがすぐに作ったものだと思っていた。
旧約聖書と違って物語として説明しづらいので旧約聖書の方が分かりやすかった。
学びとしては黙示の意味や新約聖書と旧約聖書の約の意味。使徒って何?そもそもどこの国のお話?等々基礎的なことを学ぶ事ができて良かった。
私の様に教養に乏しい者の助けとなる本であると思う。
Posted by ブクログ
知識として知らない事を知るのは実に面白い。
読んだところでクリスチャンでもない私には聖書の全貌を知るのは到底無理な事なんだが、軽く表面をなぞる程度にはわかった気になれる本。
Posted by ブクログ
「旧約聖書を知っていますか」に比べると少し読むのに苦労した
著者も途中で断念しようと思ったことがあると書いてあった
旧約聖書は歴史的な部分があるから物語で語りやすく、新約聖書は信仰(イエスがいかに偉大であったか)に関する部分が大半だそうで
自ずと原典を引用することが多くなってしまったのでしょう
それでも著者の綴って物語る力みたいなものをすごく感じました。
Posted by ブクログ
新約聖書の解説書というより、もう少し気楽なエッセイといった感じの本です。短編小説の名手として知られる著者だけあって、読みやすく、おもしろい文章でつづられています。
著者は信仰を持たない者の立場から、新約聖書のなかのいくつかのエピソードを選び出し、それについての考えを自由に語っています。なかでも、聖書に記されたさまざまな奇跡を、「イエス自身が、自分こそ神の使命を受けたものだと、そう自分で信じるためのプロセスだった」という見方は、興味深く感じました。
Posted by ブクログ
旧約聖書を知っていますか、に引続き、新約だ。
イエスの言葉は、たとえ話であったり、質問に対する断片的な回答であったり、戒めであったりして、真正面から教義の中核を語っているものは思いのほか少ない。イエスは、教義についてはむしろモーセの十戒など旧約聖書の中にそれを求め、そこから選び抜き、新しい意味を与えるといった方法をとっている。その根底にある規範は神への完全な愛であり、そして実践的には隣人を自分自身のように愛することである。また、人間には出来ないことも神にはできる、と、言われた。イエスの教えの中枢には神は人知を超えた存在であり、だから、ただひたむきに、ひたすら神に対してすがり求めること、神への完全な信頼があれば必ずよい答えが得られると述べている。隣人愛の具体的な指針として、”人にしてもらいたいことをあなたがしなさい”と記している。やさしい言い方だが、この倫理の包容する範囲はとても広い。殺人はどうか、姦淫はどうか、親切はどうか、おのずと答えが生まれる。一つ一つの行動について、これは自分にして欲しいことだろうか、してほしくないことだろうか、と問いかければ、おのずと選択の目途が立つ。それを厳密に考え実践することが神の心にかなうことである。
イエスはいくつかの啓示を得て、自分が神であることを確信した。この確信の背景には当然のことながら、神の存在への確信がある。”私は神の子としてこの地上に遣わされたのだ”という思いが徐々に確信にかわって言ったのだろう。なにしろ全知全能の神を背中に背負っているのだ。ならば、神がいかなるものか、その説明は無用である。どのみち神がいかなるものか、人間などに分かるわけがない。小ざかしい疑問を抱くより、ただひたすらに信じる方が寛容である。なにしろ相手は人間を愛して、愛して、愛してやまない神なのだから。福音書には、教義に属すること、私はこういう神ですよ、といったことが余り記されていない。そんなものをいちいちいう必要は無い、それが福音書の方針なのだろう。神は全知全能だから、疑いを持たずに神を信じなさい、ということだ。だから『求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門を叩きなさい、そうすれば開かれる。だれでも求め続ける者は受け、探す者は見つけ、門を叩くものには開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このようにあなたがたは悪いものでありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない』なのである。人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい、なのだ。
あとは、神の存在を、具体的にはイエス自身が神の子であることを証明すれば、このように言っていることがきっと信じられるだろう。その証明が明確で、力強ければ、そのぶんだけ、私は神の子である、というテーゼが明確に、力強く裏打ちされることとなる。とにかく信じなさい、わるいようにはしない、神なんだから。という主張は、そのよりどころを”本当に神かどうか”にかけているといってもよい。神の子であるという強い確信を持ったイエスは、その証明方法として、人間の原罪を一身に背負って十字架にかかり、死後に復活して見せるという道を選んだ。これもまた、なにかしらイエスの中に啓示があったのかもしれない。
あとは、キリスト教を体系立てて世界的な宗教に、ユダヤ教の一派ではなく、それとは違う宗教に仕立て上げた最大の功労者、パウロのことである。パウロの考えは、まずはイエスキリストを信じることだった。律法を守るかどうかは次の話でありイエスを信じなければ、はじまらないということだった。割礼より先にイエスを信じろと。旧約聖書に記されたアブラハムから、イスラエルの民はモーセを仰ぎ、ダビデを敬い、ずっと律法を神の掟として過ごしてきたが、機が熟したところで神は救世主であるイエスを地上に遣わし、イエスの血により人間の犯した罪をあがない、イエスを信じることによって人間が救済されるという道をお示しになった。これらはみんな神の眼から見れば、あらかじめ決められていたことであり、イエスの顕現を経た今日では、古い律法を守ることより、イエスを救世主として信じることの方がよほど重要であるという。ただ、やっぱり律法もちゃんと守らなくちゃいけない、という人も多かっただろう。でも、それではキリスト教はユダヤ教の一派に成り下がってしまう。そのため、パウロは、割礼などの律法は守らなくてよい。イエスを救世主として、しっかり信じることだ。十字架にかかり、復活した意味をきちんと理解することの方が重要だ。といって、パウロは精力的に布教活動を行った。あなたが受けた割礼も、盗むな、姦淫するなという律法を守ってこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じだ。だから割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けたものとみなされるのではないかと言った。そして、体に割礼を受けていなくても、律法を守るものがあなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を読め、割礼を受けていながら、律法を破っているのだから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではなくなる。内面がユダヤ人であるものこそユダヤ人であり、文字ではなく、霊によって心に施された割礼こそが割礼なのだ。(ローマの信徒への手紙第2章)
旧約聖書の方はイスラエルの建国史と読める部分が多くあるが、新約は、徹頭徹尾信仰と結びついている。美術館を巡るときも、西洋美術は特に聖書と結びついている。演劇も映画も、音楽もだ。そんなときに、聖書の知識があるとないとでは理解の深さと面白さが全く違う。皆さんも信じる信じないというより、しっかりとキリスト教を勉強すべきだ。
Posted by ブクログ
旧約聖書を~の続編。基本的に前作と同じスタンスで、信仰を持たない立場から聖書を読みといている。
旧約聖書は史実という捉え方から解釈していたが、新約聖書はまさにザ宗教。そのため、信仰のない視点から様々に推測していて、なかなかに面白い❨でも信者に怒られないかと心配にもなる❩。
とはいえ結局、信じることが前提で信じないことはあってはならない、というくだりで信仰がないという立場から語られると妙に納得する。