あらすじ
労働の発生と組織化、欲望の無制限な発露に対する禁止の体系の成立、そして死をめぐる禁忌……。エロティシズムの衝動は、それらを侵犯して、至高の生へ行き着く。人間が自己の存続を欲している限り、禁止はなくならない。しかしまた人間は、生命の過剰を抑え難く内に抱えてもいる。禁止と侵犯の終りなき相克にバタイユは人間の本質を見ていった。内的体験と普遍経済論の長い思考の渦から生まれ、1957年に刊行された本書によって、エロティシズムは最初にして決定的な光を当てられる。バタイユ新世代の明快な新訳で送る、待望の文庫版バタイユの核心。
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Posted by ブクログ
言葉で表すことの難しいエロティシズムを議論の的とした意欲作。
エロティシズムという感情は禁止の侵犯という宗教や衝動的な暴力と同じ精神的基盤に立つという視点から至極主観的な事象を語っていく。
この本と他の本との決定的な違いは「議論が完結していない」ということ。
訳者あとがきでも述べられている通り、多くの問題提起と議論の余地を残したまま議論が進んでいく。
よって、一度読んで終わりといった本ではなく、この本を契機に様々な本を読んでまたこの本に戻ってくるということを繰り替えすことで読者に考えることの楽しさを知らせてくれる。
Posted by ブクログ
読む前から一度読んですんなり理解できるとは思わなかったけど、やっぱり読んでみて明確に理解することはできなかった。『同性愛の経済人類学』という論文を読んで、そこにエロティシズムと労働の関係について書かれていたので、おかげで少しは入って行きやすかったかも。
先に論じたことを後でも繰り返し述べられているような形になっているので、そのあたりは理解しやすかった。
あくまでこれは男性視点のエロティシズムだな、というのは感じた。女性のことははなから無視されているような。そこになんとなく違和感があった。確かにエロティシズムという問題を論じるときに、男性主体になるのは仕方ないのかもしれないけど。これが書かれた時代もあるだろうし。
でも興味深いことがたくさん書かれてたのは確かだと思う。一貫して語られていたのは「禁止は侵犯されるためにある」ということ。つまり規則は破られるためにある。ただし、そのとき禁止は乗り越えられるだけであって、消滅するのではない。しかも禁止の侵犯は動物的なものではなく極めて人間的。
『汝殺すなかれ』『肉の交わりは、ただ結婚においてのみ果たされるべし』聖書においてこの二つの命令がなされているのは改めて考えるとおもしろい事実だと思った。
そのうち『バタイユ入門』でも読んで出直してくる。
Posted by ブクログ
ネアンデルタール人に道具、すなわち労働が、埋葬すなわち死が観念として発生し、クロマニヨン人により洞窟壁画などの宗教観念が認められるものが現された。
根源的に不連続であるインディビジュアルな人間の存在。聖なるもの、エロティシズム、死への経験、供犠などはそこに連続性、無限定性を介入させる。その暴力、不安、そしてそれを緩和させようとする笑い。
存在を外に投げ出す経験。
エロティシズムの本質は汚すことだという意味において、美は第一に重要なのだ。
/禁止に対する侵犯がエロティシズムである。
禁止と侵犯は相補的関係。/
糞便、腐敗、生活動
「私たちの嘔吐感とは空無感なのだ。吐き気で気を失いそうになるとき、私たちは空無感を感じている。」
「生は本質において過剰さだ。生とは生の浪費のことだ。生は限りなく自分の力と資源を使い尽くす。生は、自分が創造したものを際限なく滅ぼす。」
眩暈、強度、風穴、
性なるものよ!
聖なるものよ!
生なるものよ!
Posted by ブクログ
「序論」でまず、この本の目指すところがはっきりとわかる。それから、とても素晴らしい翻訳(酒井健)だと思う。こちらから入って、澁澤訳の同書を読んだほうがいいかな。「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える」。
Posted by ブクログ
20世紀フランスの作家、思想家であるジョルジュ・バタイユ(1897-1962)の論考、1957年。エロティシズムの究明を通して人間存在の根源を見出そうとする。一般にバタイユの関心は、人間が理性の裂け目において覗かせる非合理性(エロティシズム、死、暴力、狂気、悪、瀆聖、神秘主義など)に向けられているようにみえる。これは、青年期に第一次大戦を経験し、人間を理性的存在として規定する近代の合理主義的人間観の破綻を目の当たりにした世代に共通する傾向であるかもしれない。思想的にはサド、ニーチェ、フロイト、シェストフ、ヘーゲル(コジェーヴ)らの影響を受けているとされる。また、一時的にシュルレアリストや共産主義者のグループとも関係をもっていた。
□ 不連続性/連続性
「エロティシズムは死に至るまでの生の称揚である」という冒頭の有名な文句にエロティシズムの本質はよく表現されており、本書全体がこの文句の意味を詳説することに費やされていると言える。序論において論じられる「不連続性/連続性」の概念は、エロティシズムの根幹に関わる。
存在は自己から逃れることはできない。自己=自己、A=Aという自同律は存在を絶対的に拘束する。世界において、自己は自己として在るところの或る範囲に限定される。その範囲の内部においてのみ自己は自己であるのであり、その外部は非自己の領域である。存在は、自己を確定する隔壁によってその内と外が絶対的に区別されてしまっている。存在とは不定態の否定である、則ち限定である。存在は一個という形式で個体化されており、それは他の存在と隔絶した別個の存在として、他者との不連続性のうちにある。自己でありかつ非自己であるということは不可能である。¬(A∧¬A)という矛盾律は存在を絶対的に孤立させる。「独我論」という問題が発する条件もここにあるといえる。自己が非自己へと自己を脱却することは論理的に不可能である。にもかかわらず/それでもなお/それゆえにこそ、この自己というものは自己自身にとってなんとも我慢のならない仮象のように思えてならない。自己は、無際限に自己否定を繰り出す無限運動のその果てに空無化していきながら、なおその空無の縁としての自己に包囲されたままである。自己はどこまでも自己を自己化する以外にない。自己は不連続性によってどこまでも断絶され続け、極点化する。
この絶対的な不連続性を連続性へ接続するという絶望的な不可能事の可能性がエロティシズムに賭けられている。たとえばもし存在が水滴であったなら、それは別の水滴と接触した瞬間に、個々の水分子はひとつの水滴のうちに溶け合い、もはやどの水分子がどちらの水滴に由来するのかという区別は意味を為さず、先のふたつの水滴はそのどちらとも異なる別の水滴のうちに解消されてしまう。エロティシズムは、自他分離を自他融合へ橋渡ししようとする。
「生の根底には、連続から不連続への変化と、不連続から連続への変化とがある。私たちは不連続な存在であって、理解しがたい出来事のなかで孤独に死んでゆく個体なのだ。だが他方で私たちは、失われた連続性へのノスタルジーを持っている。私たちは偶然的で滅びゆく個体なのだが、しかし自分がこの個体性に釘づけにされているという状況が耐えられずにいるのである。私たちは、この滅びゆく個体性が少しでも存続してほしいと不安にかられながら欲しているが、同時にまた、私たちを広く存在へと結びつける本源的な連続性に対し強迫観念を持ってもいる」(p24-25)。
エロティシズムがもたらす生の連続性というものが、暴力、死、聖性といったものと結びついているということは、以下の記述がよく示している。連続性の鮮烈なイメージを与えてくれる。
「供犠においては、生贄をただ裸にするだけではなくて殺してしまう(生贄が生き物でないときは、この生贄を何らかの仕方で破壊してしまう)。生贄は死んでゆく。このとき、供犠の参加者は、生贄の死が顕現させる要素を分有する。この要素は、宗教史家とともに、聖なるものと呼びうるものだ。まさしく聖なるものとは、厳粛な儀式の場で不連続な存在の死に注意を向ける者たちに顕現する存在の連続性のことなのである。暴力的な死のおかげで、一個の存在の不連続性が破壊されてしまうのだ。あとに残るもの、しのびよる静寂のなかで参加者たちが不安げに感じるもの、それこそが存在の連続性である。生贄はそこへ戻されたのだ」(p36)。
「供犠が、意図された侵犯になっている場合、その供犠は断固たる行為なのであって、その目的は、供犠の生贄になっている存在の突然の変化にある。この存在は死に追いやられてしまうのだ。殺害される前、この存在は個体の個別性のなかに閉じこめられていた。[略]、この存在のあり方は不連続なのである。だがこの存在は、死において存在の連続性へ、個別性の不在へ連れ戻されるのだ。この暴力的な行為のおかげで、生贄はその限定的な性格を取り払われ、無限定性を、つまり聖なる領域に属する無限性を与えられるのだが、この暴力的な行為は、このような深い結果をもたらすがゆえに、欲せられているのである。[略]。恋に燃える男は、人間あるいは犠牲獣を血祭りにあげる供犠執行者と同じように、自分の愛する女を崩壊させる。女は、自分に襲いかかってきた男の腕のなかで、自分の存在を剝奪されてゆく。女は、自分と他者を分かち、自分への侵入を困難にさせていた堅固な障害を、恥じらいともども、失ってゆく。そうして女は突如、生殖器で荒れ狂う性の戯れの暴力に身を開くのだ。女は、外部から彼女を満たし溢れる非人称の暴力に身を開くのだ」(p148-150)。
「私たちは、存在がその不連続性ゆえに不可避的に引き裂かれ死に差し向けられるという事態に遡って、やっと次の真実を理解できるようになるのだ。すなわち、唯一暴力だけが、気違いじみた暴力だけが、理性に還元可能な世界の限界を破って、私たちを連続性へ開かせるという真実を!」(p240-241)。
序論の最後、存在の連続性を説明すべくランボーの有名な詩句が印象的に引かれている。
「詩は、人を、エロティシズムのそれぞれの形態と同じ地点へ、つまり個々明瞭に分離している事物の区別がなくなる所へ、事物たちが融合する所へ、導く。詩は私たちを永遠へ導く。死へ導く。死を介して連続性へ導く。詩は永遠なのだ。それは太陽といっしょになった海なのである」(p43)。
□ 禁止/侵犯
エロティシズムの本質は、禁止の侵犯にあるとされる。
人間が共同体を形成して安定した物質的生存を確保するためには、動物的欲望を制御しその直接的で無際限の充足を断念し自らの自然性を否定することが、則ち禁止が、必要となる。理性によって自己の欲望が統御され、個別化され規律化され規格化された諸個人によって共同体が構成され、組織化された労働によって生存のための物資が生産され蓄積されていく。今日の欲望を断念することで、明日の生存が約束されることになる。日常の合理的な「昼の秩序」は禁止によってもたらされる。つまり禁止は、一切の秩序を転覆しようとする暴力に対して課せられている。これはフロイトにおける「快感原則」「現実原則」に対応する議論か。
しかし禁止は、同時にそれを侵犯しようとする矛盾した契機を自らの内に含んでいる。禁じられれば犯したくなる、則ち禁止は侵犯を予定しているのであり、しかも侵犯に強烈な快楽を伴わせる。禁止は侵犯によって完成される。禁止と侵犯のこの逆説のうちに、バタイユは動物から区別される人間存在の特異性を見出す。
「禁止を守り、禁止に従っているならば、私たちはもはや禁止に気づかない。だが侵犯の瞬間には私たちは不安を感じる。[略]。この不安の体験は罪の体験である。この体験は人を侵犯の完遂へ、侵犯の成就へ導く。そこまでゆくと侵犯は、禁止を享楽するために禁止を維持する」(p62)。
「禁止は侵犯されるために存在している」(p103)。
「人間の欲望が向かう対象は、《禁止》されているのである。この対象は聖なるものなのだ。この対象に重くのしかかっている禁止が、この対象を人間の欲望に差し向けるのである」(p114)。
禁止に対する侵犯は、理性を暴力へ、秩序を混沌へ、労働を祝祭へ、生産を蕩尽へ、間接性を直接性へ、自他分離を自他融合へ、俗を聖へ、昼を夜へ、生を死へ、則ち不連続性を連続性へ、転化していく。バタイユはこれを単なる動物性への回帰とせず、むしろ弁証法的運動として見るのであって、そこにこそ自然から逸脱してしまった人間のありようが現れている。
「すなわちこの世界は、動物性あるいは自然への否定のなかでまず形成され、次いでそうした自分自身を否定してゆく人間世界なのだ。ただしこの第二の否定においてこの人間世界は、自分自身をさらに乗り越えてゆくのであって、決して自分が最初に否定した自然へ舞い戻ったりはしないのである」(p138)。
なお、美に関する次の逆説も、禁止と侵犯の逆説の一変種であるといえる。
「人は美を汚すために美を望んでいるのだ。美そのもののためにではなく、美を汚しているという確信のなかで味わえる喜びのために、美を望んでいるのである」(p247-248)。
□ 近親婚の禁止
第二部は雑誌論文や講演などをもとにした七つの論文からなる。第四論文「近親婚の謎」では、インセスト・タブーに対するバタイユなりの解釈がレヴィ=ストロース『親族の基本構造』に拠りながら提示されていて、興味深い。
バタイユはレヴィ=ストロースの考えを次のようにまとめる。
「このように女たちは、本質的に、語の強い意味での、つまり流出という意味でのコミュニケーションに捧げられている。女たちは、彼女らを自由にしうる親たちが浪費的な気前のよさを示す対象とならねばならないのである。親たちは女たちを贈与しなければならないのだ。ただしこれは、個々のいかなる気前のよい行為も一般的な気前のよさの回路に貢献している社会においてのことである。すなわち、もしも私が自分の娘を贈与するならば、私は自分の息子のために(あるいは自分の甥のために)別の女を贈与として受け取ることになるということだ。これは要するに、気前のよさによって築かれた一定の人間集団における有機的な交流なのである。[略]。それだから、近親婚の禁止において否定されている事柄は、ある肯定の結果にほかならない。つまり、自分の姉妹を贈与する兄弟は、自分の近親の女との性的結合の価値を否定しているというよりはむしろ、この女を他の男と結びつけ、また彼ら自身を他の女と結びつける結婚のより大きな価値を肯定しているのである」(p352)。
これを踏まえて、バタイユ自身の解釈が提示される。
「私は次のようなほとんど異論の余地のない事実を原則として提起したい。すなわち、人間は、自然の与件を単純に受け入れない動物、自然の与件を否定する動物だという事実である。人間は、そのようにして自然の外的世界を変化させている。人間は、自然の外的世界から、道具を、そして道具で作られたものを産み出している。これら道具と生産物は、一つの新たな世界を、つまり人間の世界を作り上げている。これと並行して、人間は自分自身を否定し、自分を教育する。たとえば人間は、自分の動物的な欲求の充足に対して、自由な流れを与えることを拒んでいる。動物ならばこの流れに留保など付けていなかったのだが」(p364-365)。
「私たちは彼の考え方によって、贈与の本質が何であるかを明瞭に見て取ることができたのだ。すなわち贈与とは、それ自体、断念だということである。贈与は、動物的な享楽、直接的で留保なしの享楽の禁止なのだ。結婚とは、配偶者たちの行為というよりは、女を《贈与する者》の行為なのである。すなわちこの女(自分の娘なり姉妹)を自由に享楽することもできたのに、そうせずにこの女を贈与する男(父親もしくは兄弟)の行為なのである。[略]。人間性の本質は、このような動物的な直接性を乗り越えるというところから現れ出ているのだ。すなわち近親者を断念するということ――自分が所有する物の享楽を自分に禁じる留保――が、動物的な貪欲さの対極にある人間的な態度を決定しているのである。そして、前述したように、このように断念したことで逆に、断念した対象の魅惑的な価値が強調されるのだ。しかしともかくもこの断念は、尊敬、困難、留保が暴力に勝っている人間的な世界を創造するのに貢献している」(p371-372)。
□
バタイユが夢想する性愛の快楽の果ての自他融合などというものは、もはや予め見え透いてしまっている紛い物、視れば視るほど醒めていくだけの夢でしかないのではないか。そうではなくて、宙吊りの果てとでもいうべき、矛盾の極限を見極めなければならないのではないか。
また、バタイユが本書で展開している議論の基礎には、ジェンダーやセクシュアリティに関する偏見、彼によって決して対象化されることのない偏見がある。それは特に第一部第12章において顕著である。性の場面において、女を飽くまで性的客体の地位に留めようとする。
「女は、化粧への配慮によって、また化粧が際立たせる美への気遣いによって、自分自身を一個の対象に、客体に見たて、それを絶えず男の注視へ提示する。同様に、服を脱いで裸になるときには、女は、男の欲望の対象を、つまり男の嘆賞に個人的に提示された一個の判明な客体を露にするのである」(p221)。
本書は一貫して男性中心的な視点に立って書かれている。女と男のセクシュアリティの差異はどのように捉えることができるのか。女のセクシュアリティの視点から描かれた『エロティシズム』はどのような内容になるのか。
Posted by ブクログ
禁忌に対する侵犯をエロティシズムと定義する事ができ、それは、人間特有である。禁忌とは何か。宗教のような、後天的な規定。しかしまた、それは先天的なものをも含む。先天的なものがあり、かつ、エロティシズムを人間特有とする。さすれば、人間とは、先天的な本能にして、他の霊長類とも差違的な存在なのか。答えは否。だとすれば、次の二択になる。つまり、人間以外の霊長類にもエロティシズムが存在するか、先天的な禁忌というものは存在しないのか。
そもそも禁忌とは何か。社会を統制し、利益を傾斜するために守らせるべき約束事。また、人民同士が住みやすい社会を構成するためのルール。宗教上のタブーとは、絶対的存在に対する秩序を保つために必要なものだ。では、それを侵犯する事が、必ずエロスか。いや、もうひと定義必要だろう。つまり、対外的に暴露されずに、行為を成立するという事が、その条件となる。
つまり、エロティシズムとは、こそこそ、恥ずかしい事をする、という事だ。
その事を深く考察して、何の足しになるか。そんなものは、言葉にせず、認識している言葉の世界である。
Posted by ブクログ
「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える。」
ということを説明している本です。
エロティシズムというどちらかと言えば人間の暗部について考えぬかれた本です。バタイユさんが60歳で出版されてます。書き上がるまでにおそらく二十年以上かかっているんじゃないでしょうか?
エロティシズムは死や暴力と関係が深いようです。しかも理性から逃れ去る性質があります。ですからエロティシズムそのものを意識化して言語化するのは不可能みたいです。そういうところをしつこく粘りに粘って書こうとされています。
考えてみれば性衝動は大脳よりも下位の脳(視床下部とか?)が関与しているところのようですから意識化できないのは当たり前といえば当たり前のような気もします。しかも、性衝動による意識や行動は大脳皮質で処理されますから、エロティシズムの根本は不明でその表層的なものだけが意識に上るという結果になります。ですからわけわかんなくなるんです。
だから、「わけわかんないんだ。」で終わらせることもできるのでしょうが、バタイユさんはそこを執拗に追求します。まるで、養老さんが『唯脳論』で身体にこだわり続けられたのとパラレルです。バタイユさんの前に養老さんを読んでいたのもやはり何かの思し召しなのかもしれません。
バタイユさんは西欧のキリスト世界の方なので、宗教について語られるときに重苦しさがあります。その重苦しさを和らげるためにはこれまた養老さんの『カミとヒトの解剖学』を読まれておくと、ちょっと気が楽になると思います。
自分はエッチのことばかり考えて変態なんじゃないか?大丈夫だろうか?と心配になっておられる方には、きっと救いになる書物です。
Mahalo
Posted by ブクログ
数年前に読んだ時は、[聖なるエロティシズム]=神の追求、及び 神への愛との一体化 [芸術様式のエロティシズムと美の境界] の視点で、さらさらと読み済ませていたが…
その時、私はクンデラを知らなかったのだろうか…。存在の重さ軽さ、連続性と不連続性、生の彼方、死からの出発…
Posted by ブクログ
私が眼球譚でもやもやと感じた事が、
言葉にされているので、読んでる最中は
おもしろかったんだけど、
時間を置いてこの本を思い返すと
眼球譚のような鮮やかさはない。
「錯乱」を説明するには、
論文より詩や小説のほうが適するんだろう。
ただ非常に興味深かったです。
芸術活動は労働であるべきではない。
Posted by ブクログ
バタイユの珠玉の一冊。エロティシズムの起源を生物学的に定義付け、その後にエロスと禁止、禁止と侵犯、そして宗教との関連について考察する。
日本では高群逸枝が似たような考察を先んじて行っているが、生物学から演繹して人間の情念を論じるということは近代において避けられてきた部分もある。今日では恋愛感情は自律神経の働きによって分析されているものが最も「科学的」と思われているのだろう。心理学によって実際の行動のパターンは分析されうるものの、それの社会的機能、基盤についての考察においてはこの『エロティシズム』を超える論述は未だお目にかからない。私の勉強不足であるかもしれないが……
情念論はデカルトあたりを発端に考えるのがよいのかもしれないが、哲学的には今日相当に未開拓の分野であるといえよう。今後の研究が——性という「宗教的」タブーを越えて——進むことが期待される。
Posted by ブクログ
エロティシズムの発生メカニズムを、人間社会における動物性や自然的直截性への嫌悪、あるいは惧れという心的な抵抗、すなはち<禁止>という現象と、それをさらに否定すること、すなはち<侵犯>という両者のダイナミズムで以って俯瞰的な説明を施した書。
Posted by ブクログ
_専門家_はけっしてエロティシズムのレヴェルにはいない。すべての問題のなかでエロティシズムは、最も神秘的で、最も一般的で、最もかけ離れた問題である。/最高の哲学的な問いはエロティシズムの頂点と一致する。/労働と比較すると侵犯は一つの遊びである。遊びの世界では哲学は解消する。/言葉だけが、限界で、もはや言葉が通用しなくなる至高の瞬間を明示するのである。だが、語る者は、最終的には自分の非力さを告白する。
エロティシズムとは、人間の意識のなかにあって、人間内部の存在を揺るがすもののことなのである。/タブー〔禁忌〕は冷静さと理性の世界を可能にするが、その大元では恐怖の震えなのだ。/女は男の欲望に対して自らを対象(客体)として提示する。(フェミニストが聞いたらブチキレそうw)/低俗な娼婦は禁止と無縁なるがゆえに動物に堕落する。/サドを讃えれば、サドの思想を緩和することになる。(だから江頭2:50は嫌われる努力をする)/どのような神秘体験も、場を移された性体験に過ぎない。
人間存在が自分自身に寄せる省察、存在一般に寄せる省察が、もし最も激しい感動の状態に無縁なら、いったいその省察は何を意味しているのだろうか。/哲学は、特殊専門化した作業として、一個の労働になっている。つまり哲学は、気付かぬまま、激しい感動の瞬間を排除している。/哲学は言葉を死刑に処する。
Posted by ブクログ
飽く迄も常識の概念から逸れる事無く繰り広げられている、エロティシズムの哲学。澁澤氏の方が好ましいと思われる。
サド侯爵の引用文から、死・殺人とエロスティックを繋げて居るところは評価したい。しかし眼球譚と書いた筈のバタイユの哲学としては、少々期待外れな気もする。
まだ途中ではあるが。
Posted by ブクログ
伊坂幸太郎の『重力ピエロ』で春が必至に読んでいる作品。
これも授業のために読んだ。
ジョルジュ・バタイユですらエロオヤジで有名だがそんな彼でもサドのことを冷静に分析していてこっちのほうがサドを知るにはいいと思った。