あらすじ
なぜ映画を観たあとすぐに考察動画を見たくなるのか? 映画やドラマ、漫画の解釈を解説する考察記事・動画が流行している。昭和・平成の時代はエンタメ作品が「批評」されたが、令和のいまは解釈の“正解”を当てにいく「考察」が人気だ。その変化の背景には、若者を中心に、ただ作品を楽しむだけではなく、考察して“答え”を得ることで「報われたい」という思考がある。30万部超『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』著者が令和日本の深層を読み解く! 「平成」と「令和」で何が変わったのか? ●「批評」から「考察」へ 正解のない解釈→作者の意図を当てるゲーム ●「萌え」から「推し」へ 好きという欲求→応援したい理想 ●「やりがい」から「成長」へ 充実しているという感情→安定のための手段 ●「ググる」から「ジピる」へ 複数の選択肢から選ぶ→AIが提示する唯一の解 ■目次 まえがき――若者が考察動画を検索する理由 第1章:批評から考察へ――『あなたの番です』『変な家』『君たちはどう生きるか』 第2章:萌えから推しへ――『【推しの子】』『アイドル』『絶対アイドル辞めないで』 第3章:ループものから転生ものへ――『転生したらスライムだった件』『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』 第4章:自己啓発から陰謀論へ――堀江貴文『多動力』、ひろゆき『1%の努力』 第5章:やりがいから成長へ――『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』『働きマン』 第6章:メディアからプラットフォームへ――『スマホ脳』『一般意志2.0』 第7章:ヒエラルキーから界隈へ――『スキップとローファー』『違国日記』 第8章:ググるからジピるへ――ChatGPT、『NEXUS』『わたしを離さないで』 第9章:自分らしさから生きづらさへ――『世界に一つだけの花』、『世界99』、MBTI 終章:最適化に抗う――そして『スキップとローファー』『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』 あとがき――やりたいことや自分だけの感想を見つけるコツ 参考文献――「考察の時代」を理解するための本
...続きを読む感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
批評とは、世界の見え方の個別性を愛する行為
批評が生み出すのは問い
後悔するとしても自分の欲望や感動を探して、自分なりの解釈を、批評を、探したほうがいい。
ぐさってなった
Posted by ブクログ
やりたいことはすぐに達成できない。
これを三宅香帆に言い切ってもらったという点で、まず読んでよかったと思う。正解を求めがちな若者の1人として、この一言に安心している時点で報われたいフェーズから抜け出せているとは言えないが、「正解を探すな」という正解を心に刻むだけでもモチベーションが違ってくる。
そしてこの本を手に取ったすべての人にとって、〈考察とどう付き合っていくべきか〉は他人事ではないんじゃないか。考察にどっぷりハマっている自覚がある受け手はもちろん、作り手にとってもこれから作品を展開する上で、どのプラットフォームで、どんな意図をこめて、何を描くのかという判断に関わってくると思う。
修論を書く上で、一貫した主張よりも色々なところに問いのフックがある方がむしろいい、修士はそれが許されている、的なことをある教授が言っていたのを思い出した。ドンピシャな正解を求めて深く潜るより浅く広く問いを探すことも意識したい。
以下、内容のメモ
考察:作者が提示する謎を解くこと
批評:作者も把握していない謎を解くこと
考察には正解があるが、批評には正解もゴールもない(=報われないと思われる)。また批評は個人の意見であり、考察を好む人はそれよりも作者の正解が気になっている。
・努力したくない<報われる努力をしたい
・横並びの成長欲求
→これがマウントにつながっている?
・転生やループは、上手くいかなかった人生を途中で投げ出す、という形の現実逃避に見えた。現実にリセットはないので。その上で、三宅さんが言うように転生はスタート地点から変えるガチャのリセマラみたいなもの。ループはあくまで同じ状況で身体や能力を鍛えていく。
・ショート動画に潜む「報われた感」「何か得た感」という罠
→でも、無限に見れてしまう動画に対して罪悪感を過度に抱く必要はない。そこまで見れるって好きじゃないと無理だよ、という最後のおまけに個人的に救われた。
・令和のヒットコンテンツとは、プラットフォームにおいて人々の欲望が数値として認められたものによってのみ流行するのではないか? p136
→大多数にとっての正解、単一化したコンテンツが増え、おすすめされ続ける
→自分が何が好きか、嫌いか、自分の感情がわからなくなっていく
クリス・ベイル『ソーシャルメディア・プリズム』
SNSでさまざまなバージョンの自己を呈示し、他人がどう思うかを伺い、それに応じてアイデンティティを手直ししている
→界隈が乱立し、その境界を超えた冒険は難しい
・1人1人に最適化されていなかったマスメディアではみんなのスタートが生まれていたが、プラットフォームでは界隈の最適化が進むあまり皆の知るスターは生まれにくい
→界隈を超えて冒険することはエンターテイメントになり得る p148
界隈=フラット
親子=ヒエラルキー
→スキローのナオちゃんや異国日記の槙生のような擬似親って、この間に入るのでは?
血のつながりが薄くなったことで実親より距離は生まれるが、血のつながりによって情は(ある意味都合よく)残る的な。
・Googleによって開けてきたグローバル社会が、AIによってローカルに閉じていく可能性
→AIvs人間について考えがちだけど、AIによって人間vs人間、国vs国が加速することも十分あると思った。目から鱗。
・作家性はもはや重視されなくなっている?
ex)TikToker けんご@小説紹介
・批評とは世界の見え方の固有性を愛する行為。そして自分で問いを作り出すこと。作者の仕掛けた問いを解くのではなく、作者が気づいていない問いを見つけること。そういう意味で、最適化の対極にある。
Posted by ブクログ
久しぶりの一気読み本。
正解に近づくまでの過程を面白がれる自分も、最短ルートで報われたいと思ってしまう自分もいるからちょうど狭間の世代なんだろうなと感じた。
自分に最適化された情報に辿り着けるスピードが今後も上り、発信も飽和していく。
そんな中で自分が触れたいなと思うのは人の考えや心の動きの見える「批評」だなと思えた。今後も三宅さんの活躍楽しみにしています。
Posted by ブクログ
これまで著者の作品を読んできて思ったことは、強い共感や納得が中心であった。
「こうすれば良いのか」という方法論であったり、それに伴う分析であったり、
それらの著作を通して感じていたことは「定義化」の巧みさであった。
著者はとにかく定義化に長けている。
AとBという要素がどのように繋がるのか、また現在のトレンドとの合致点はどこにあるのか、といったものなど。確かに著者は間違えなく「文芸評論家」であり、しかしただの評論家にとどまらず、彼女は自身の批評を思想に落とし込み、またそれを現代の社会問題に適用させる力を持ち合わせているのである。
さて本作「考察する若者たち」は、いわゆるZ世代と呼ばれる人々は社会からどのような影響を与えられているのか、あるいは与えているのか。
彼らの根底にある思想とは何か、という点が記述されている。
その上で感じたことは、「息苦しさ」である。
著者は若者が持ち合わせている「答え」を求める欲望、
あるいは「報われたい」という感情、などを指摘し、それに基づきながら、
「批評」から「考察」、「萌え」から「推し」、「ループ」から「転生」、
そして「自己啓発」から「陰謀」など平成から令和へのトレンドの移り変わりに照らし合わしている。
私は仮にもこうした変化が事実なのであれば、大変に息苦しいと思う。
そして若者はなんという矛盾を抱え、そして絶望に触れ、それでも前に進むんだろうか、と思う。仮にも若者が本当にこのような思考のもとでトレンド変化にも起因しているのであれば、それはなんて「病み切った社会」なんだと思う。
そこに希望などあるのだろうか。
私が辛く感じたのは、それこそ、この著作こそが若者やトレンドの「答え」として与えられたように感じたからではないだろうか。
そしてわずかながらも、自分自身がこうした要素を持ち合わせていると感じたからだろう。
私は「答え」がある社会を心から嫌悪している。
私は「批評」が大好きでたまらない。作者が持つ答えには確かにその著作における本質が存在している分、影響や関心が高まることは理解できる。
しかし、我々読者自身が持ち合わせる感想や推測にも同様に非常に大きな価値がある、に決まっている。というか、そうでなければなぜ読むのか、可能性に溢れているから、だから面白いのではなかろうか。あなたがこれまで触れてきたコンテンツにその作品が加わり、あなたしか経験していない、そんな感想を生み出すことができるのはあなた自身であるから、だから面白い上に価値があるのだ。
「自己啓発」から「陰謀」へ、あるいは「ループ」から「転生」へ は心が痛くてしょうがない。
努力はしたいけれども、報われないステージであるがために努力しようとは思わない。あるいは努力が発揮される場に行きたい、もしくはその真実に気づき、正しい努力をしたい、とかそう言ったことだろうか。
例えば人生に「答え」がないのと等しく、「答え」なんてものがそもそも存在し得ない要素はありふれていると思う。「答え」がなくとも、「答え」に見せかけた占いのようなものが、我々に一つのヒントを与えているというようなことはよくわかる。
ただし、我々の人生というものは、それこそもう少し感性的な要素であり、
何でもかんでも理性的に、一つの答えが存在する、あるいは答えや理想が一つ存在していて、それに近づけなければ、そうでなければなんら意味を持たないとか。
そんな構造を持ちつつある社会で、誰が生きたいと思うのか。
そんなものの行き着く先は、絶望以外に何があるのか。
何が多様性なのか、あるいは何が個人主義なのか。
これはそれらの動きに対する反動なのか、と呼べるほどに全体主義的だと思わざるを得ない。しかしこれは全体主義ではない。個人主義を装った全体主義であるからこそ、あまりにタチが悪い。
「ヒエラルキー」から「界隈」へ。あるいは自らさまざまな「キャラ」を持ち合わせることが生きる上での最適化であるという指摘がある。
なんと苦しいことか、社会や組織、あるいは我々が口に出さないながらも、
まるで演劇のような、作り込まれた、もしくは一定の想定できる枠を用意しており、
それぞれのグループごとに「キャラ」が割り振られ、そこに自分はどの立場に行けば良いかを考え、「キャラ」を演じる。
しかし、悲しきかな。これはあまりにもよくわかる。我々の世代は暗黙のうちにこうした組織を形成し、「キャラ」を生成する。
なぜなら、それが「楽」であり、とりわけ衝突も起きず、それが楽しめる手段でもあり、何よりあまりにも枠から外れていると、もはや共感もできないからである。
「界隈」の超越は物語になる。指摘はごもっともと思う、それこそが面白いと思う。
しかし自らの「界隈」を大事にしなくては、流浪人のように居場所を失い、
それは「界隈」へ属することへの難易度を上げる。そうした苦しさも存在する。
さて、なぜ我々は最適化するのか、あるいは答えを求めるのか。
元メジャーリーガのイチロー氏は、あるインタビューで最短で上手くなる可能性はあるか?という問いに対してこう答えている。
「失敗をしないで、まったくミスなくそこにたどり着いたとしても深みは出ない。
単純に野球選手としていい物になる可能性は、僕はないと思います。
単純に野球選手としての作品が良い物になる可能性があったとしても、やっぱり遠回りする事って大事ですよ。
無駄な事って結局無駄じゃないっていう言葉が大好き。今やってる事が無駄だと思ってやってるわけじゃないですよ。無駄に僕は飛びついているわけじゃないですけど、後から思うと無駄だったという事はすごく大事なこと。
だから合理的な考え方ってすごく嫌いなんです。
遠回りすることが一番近道だと信じて今もやっています。」
一方でメジャーリーガーのダルビッシュ氏はこう語る。
「練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ。」
2人は間違えなく日本を代表する野球選手である。
しかし彼らの思想は合致するところもあれば、相違点も感じる。
少なくとも、令和世代の我々はダルビッシュ氏の指摘するような考えを持ちあわせ、考えることで「答え」を選び抜かなくては行けないと思い込んでいるような気がする。
しかし、本質はやってみなくてはわからんということでもあり、
また同時にそれはやらなくても、違うとわかるという道は通るな、というような消去法的指摘であり、これは正解をひとつだけ選びぬけといったメッセージ性ではないようにも思える。
最適化する理由、全体主義が与えるような「キャラ」を纏う理由、
社会学者フロムは著作『自由からの逃亡』において、消極的自由と積極的自由について指摘しています。
そう令和のZ世代はまさにこの「消極的自由」なのであって、「積極的自由」への希望を失う環境が失われているのではないか、ということである。
我々はようは、このような点から見れば大きな転換点に巻き込まれている、というわけである。しかし、絶対に希望は捨てては行けない。そして「答え」を導かせようとする社会など、面白みが何もないのだ。そんな全体主義のような、AIとの差別化を図れという時代になぜ均一化させたがるのか。それはそれはなんの武器にもならず、むしろ比較が生まれやすくなり、絶望が生まれる社会だ。
私は「無駄」や「余白」にこそ意味があると信じている。
「無駄がない」なんて面白くないのだ、無駄にこそ光があり希望がある。
少し違うかもしれないが、それはリサイクルショップのようなもので、あるいは古着屋のようなもので、掘り出し物を探すのは皆好きであろう。
全員が同じスーツを着ている社会など何も面白くはない、ここにおける服装の正解はスーツですと答えを出され、そしてスーツを着ていく。それは確かに楽だ。
しかし、我々は同時に掘り出し物を探す楽しさを知っている、これを忘れてはならない。だからこそもっと「無駄」を愛そう。自分を愛そう。
Posted by ブクログ
休みの日に趣味とかをする時、ついそれが自分のためになるのかとか将来何に役に立つのかを考えてしまう。
でもそんなことは考える必要はなく、ただ楽しいからでいい。
本を読んでわざわざ感想を書かなくなっていい。なんか分からないけどタメになったなでもいいと思う。
自分はこれまで他者発信の生き方をしてきた。親や先生、上司から褒められたりするために勉強や仕事を頑張ってきた。でもその生き方にも限界が来た。
そこから、自分がしたいと思うことをするだけという自分発信の生き方に変わった。
自分は25歳だが学生時代にSNSが登場した。
SNSは、現実(上には上がいること)を簡単に知れるようになった。
それゆえに子供が夢を持ちづらい。努力しても無意味、報われないと感じやすくなる。だから推しなど自分以外のものに自分を投影する。
目に見える結果が欲しくなる。
でも自分はやりがいが大事だと思う。
目に見えない曖昧なものに価値を感じる。
結果とか目に見えるものを求めるのは若者だけではないと思う。自分は旧帝大出身だが、職場で上の世代から「なんでその大学出たのにここで働いているの?」とよく聞かれる。
別にいい就職先に入るために勉強したわけではない。
やってて楽しかったから勉強していただけ。
自分らしさと生きづらさは同等。
でもその生きづらさは明日には簡単にひっくり返る。
なら、自分らしさを優先して自分のしたいことをすれば良い。
Posted by ブクログ
読後真っ先に思ったのは「怖っ」と言う感想。
何故なら、本書の批評の通りであれば、現代人はAI等にレコメンドされたもの"だけ"で構成されてるのでは?と思ったからだ。
スキップとローファーを例に取って、志摩くんが自分のキャラに沿ってるか?を自問自答した場面も、(読んだ事ないから背景は知らんけど)ある意味ではインターネットや空気感にレコメンドされた自分とのズレ、違和感に気付いた結果、焦っている。
つまり、パーソナルは失われているのだ。
ここまで技術革新するまで、本やTVによって流行は生まれそれを皆んなが追う形だったものだった。
そこから界隈と言う村が出来て界隈ごとの溝はどんどん深くなっていく世の中になっている。
それはそれでそれぞれの文化や幅が広がっていて良いはず。
一方でエコーチェンバー的に、自分の手の届く範囲からは出ようとしない、つまり化学反応的な、スキップとローファーで言うみつみ的な機能が失われつつある?と思ったのだ。
キツい感じに解釈すると、自分の好きな範囲で心地良くいるだけ、を正とするのか?みたいな印象。
もうちょっと一歩踏み出してみよう、冒険してみよう、みたいな時代じゃなく、ただ漂っていても行先はカーナビの様に正解らしきものに辿り着く時代になった、という事なのかな?と。
自分で泳ぐのではなく、漂ってれば良さげな所に辿り着く様に仕組まれていて、心から在りたい自分みたいな、死語かもしれないが「自分探し」的な事は時代遅れになったって事だよなぁ、と。
昔に言われていた没個性がより進むのか?と。
0→1を創り出す人と、漂うだけの人で、それこそいろんな意味の格差が広がるのでは?と危惧せざるを得ない、気付きを与えてくれた本だった。
つまり多分、、自分がレコメンドで構成されてるわ、と言うゾッとした部分が冒頭の感想なのだと理解した。そして斬新でとても面白かった。
Posted by ブクログ
三宅さんの出演されているYouTubeを拝見して、本を手に取りました。話されていた内容をさらに深掘り、さまざまな情報に触れられました。これも報われポイントを刺激された結果なのかなと。
自分自身もすぐに正解を求めてしまうようになったと感じる今日この頃なので、それを悪いとも思わないけど、ただ体験を楽しんだり、物事に悩む過程で揺らぎながら日々過ごすことも大切なのかなと思いました。
Posted by ブクログ
めちゃめちゃ面白かった!
正解を求める、意味を求める考え方(報われ思考)をする人が増えている。アルゴリズムの影響で自分らしさの価値が失われてきている。という内容。
私は若くないけど、いつのまにか報われ思考が染み付いているなぁと。友人の独創的な感想とかを聞いたり、インターネットで人の感想を読むのは好きなのに、自分らしさの価値は低くなっていたとも思った。
三宅さんの『話が面白い人は…』も読んだので、この本の鑑賞ノートのフォーマットをつかいながら、自分がどう思ったか?を深掘りして、鑑賞をもっと楽しんでいこうと思った!