【感想・ネタバレ】シン・関ヶ原のレビュー

あらすじ

私たちが知っている「関ヶ原の戦い」とは、江戸時代に各地で編纂されたさまざまな史料を、明治になってから帝国陸軍参謀本部が集約し、再構築したものである。
そして、これをもとに「国民的作家」司馬遼太郎が創作した長編歴史小説『関ヶ原』によって、日本人の「関ヶ原像」が決定づけられ、いまもなお、多くの人々を魅了しつづけている。

しかし近年、インターネットやSNSの普及にともない、大学などに属さない在野の歴史研究家によって新たな一次史料が次々に発掘され、それらについての情報交換が盛んになったことで、従来の「歴史」が次々に書き換えられるようになってきた。なかでも関ヶ原の戦いは、ほぼすべての「通説」が否定されるという「異常」ともいえる状況を呈している。もはやこの戦いにおいては、教科書に書かれていることさえ幻想にすぎないのだ。

本書は、現在の関ヶ原合戦研究におけるトップランナーである著者が、1600(慶長5)年9月15日に美濃の関ヶ原で起こった戦闘の経緯について、当時、徳川家康をはじめとする諸将の間でかわされた170通余りの書状を読み解くことで、新説を提起するものである。この新説は、従来の通説のようにドラマティックな展開をともなうものではない。「司馬関ヶ原」が脳裏深くに焼きついている人は、少なからず抵抗をおぼえるかもしれない。

しかし、だからといって私たちは、この新しい「関ヶ原」を拒むことはできない。日本の中世の終焉も、江戸幕府の成立と近世の幕開けも、この「関ヶ原」を受け入れずに考えることは、もうできないのだ。

【本書が提唱する、おもな新説】
関ヶ原の戦いは「天下分け目の決戦」ではなかった!
徳川家康はすでに天下人だった!
石田三成は西軍の首謀者ではなかった!
小早川秀秋は合戦中に裏切っていない!
東西両軍は開戦前に和睦していた!
両軍の合計は3万ほどだった!

【これらもすべてフィクションだった!】
秀吉死後の豊臣政権を運営したのは「五大老五奉行」
石田三成と直江兼続による徳川家康挟撃の謀議
福島正則が徳川家康に忠義を誓った「小山評定」
もともと低かった毛利輝元の戦闘意欲
関ヶ原に結集したのは両軍合計15万
家康が小早川秀秋の離反を催促した「問い鉄砲」
秀秋の裏切りによって壊滅した大谷吉継勢・・・・・・…

「新しい関ヶ原」が、この一冊から始まる!

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Posted by ブクログ

一次資料を駆使し新たに描く天下分け目の「関ヶ原の戦い」。
司馬遼太郎「関ヶ原」で知られる戦いの実態は後世の創作が加わっているというのが近年の歴史学の新説。
本書は大名、公家、宣教師の書簡、日記から既に徳川家康が天下人であったこと、小早川秀秋は戦の前に東軍に味方していたこと、石田三成が西軍の黒幕ではないこと、決戦の一日の実際を説明していく。
最初は冗長に感じられたがクライマックスの戦に向けて次第に盛り上がってくる流れが心地良かった。
本書が決定版というわけではなく、さらに新たな説も出てくることがあるだろう。小説とはまた違った歴史研究の世界に触れることのできる興味深い作品。
むしろ本書を覆すあっと驚く解釈がさらに出てくると面白い。

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2026年01月20日

Posted by ブクログ

最新の研究成果をつまみ食いさせてもらえるこの手の本、本当にありがたい

小早川秀秋の裏切ったタイミングを始めとして、ぼんやり備えていた関ヶ原の戦いに関する知識をひっくり返され続けるのは、なかなか得難い体験だった

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2026年01月13日

Posted by ブクログ

「関ヶ原合戦」のドラマを捲るような形で、各資料にあたって来られた結果として、非常に興味深く読ませてもらった。
ドラマとして個々のキャラクターや愛憎劇などが複雑に絡み合う戦いだと認識していたが、(私も筆者同様、司馬氏の関ヶ原で興味を持った。)各書簡を照らし合わせると個々人が極めて現実的な判断を都度行ってきたことがわかる。
そして戦前に講和が成立していたという説もなんか納得できた。
特に小早川の動きについて、自身がその場に従軍した想定で筆者が述べてくれたのは、新たな気づきをくれたと思う。確かにあんな効率よく1.5万の大軍が寝返って成果を納められないわなと。
気になったのは以下3点。
①穏便に済ませようというのが家康の動きの大前提だとしたとき、上杉征伐は必要だったか?
②著者の説を受けると、毛利の減封はなかなかやりすぎではないか?
③このストーリーだと、東軍諸将の論功行賞による加増が褒賞として過度ではないか?
史料に出てきた他の研究者の方々の本も手に取ってみたい。

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2025年11月30日

Posted by ブクログ

西軍の首謀者は石田三成ではない。小早川秀秋は合戦中に裏切っていない。発見された書状の数々が、関ヶ原の戦いの通説を根底から覆す!帝国陸軍と司馬遼太郎が創った「通説」を170余りの書状が根本から覆す!!!

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2026年01月27日

Posted by ブクログ

関ケ原の戦いについて、一次資料から丹念に読み解いた一冊。

直江状はなかった、小早川秀秋は最初から東軍だったなど
従来を覆す説は色々と出ているが、重層的に関ヶ原の戦いについて知ることができた。

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2026年01月24日

Posted by ブクログ

昔読んできた関ヶ原の合戦が音を立てて崩れていくような内容だった。
テレビでみた、あの鉄砲での威嚇と小早川秀秋の大谷吉嗣の陣をめがけて号令をかけるシーンが脳裏に思い返されたが、まさか開戦前から東軍だったとは、、、

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2026年01月20日

Posted by ブクログ

いわゆる大軍勢同士がぶつかり合ったという戦いではなかったということだな
手紙が現代語訳で読みやすいのだが、その解釈が正しいのかは少々疑問

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2026年01月17日

Posted by ブクログ

現存する歴史的史料をベースにした新たな関ケ原の合戦像。現実はそうだったんだろうという説得感は強い。でも仕方ないことではあるが司馬遼太郎の「関ケ原」の方が圧倒的に面白い。小説だからね。次は大坂の陣で書いてくれると面白いかも。

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2026年01月13日

Posted by ブクログ

関ヶ原の戦いを、一次資料から読み解いた結果、従来の関ヶ原像とはまったく異なる展開が・・・説得力もあり、知的好奇心が満たされる。

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2025年12月07日

Posted by ブクログ

歴史は変わる。
勝者により都合良く伝えられてきた歴史ではあるが、資料、文献、手紙により、近年歴史の裏側に隠されてきた真実の歴史が解明される事は、非常に面白いし、興味深い。
徳川家康を神として、長きにわたる徳川政権を安定的に維持していくためには、必要なのであろう。
司馬遼太郎の関ヶ原の戦いとは、全く違うものがあった。

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2025年11月15日

Posted by ブクログ

たしかに、読むともう、あの関ケ原には戻れない。
当時の情報流通速度の遅さ、それにより生じるタイムラグを利用した作戦だな。

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2025年10月27日

Posted by ブクログ

最近は歴史の研究も進んでいるようで、私が学校で習った内容とは異なる事実が様々な古文書・一次資料で明らかになってきています。それを知ると、当時の武将達の考え方も、現代人と似ている部分があると思います。

この本で取り上げられている「関ヶ原の戦い」について、敵味方がどのような布陣を引いているかが分かった状態で考えていましたが、当時の人たちにはそれが必ずしも見えていなかった、ということをこの本で指摘されて、なるほどと思いました。

寝返り・裏切りについても、事前に頼れる人を通じてしていなければ、意味がないことも理解できました。他の有名な戦いについても、最新の研究結果を知りたいですね。

以下は気になったポイントです。

・ 文禄4年 7月 秀吉はそれまで 後継者としていた 関白 豊臣秀次 を自害させ、武家関白制度の設立に尽力した右大臣の菊亭晴季も追放してしまった、 そして義弟(妹婿)である 家康を大臣に取り立てて、太政大臣である自身とともに政権運営を担わせた。 つまり、秀吉が没する前の慶長3年7月の時点で、家康は唯一の「公儀=大臣以上」と呼ばれる立場にあり、 中央政権の運営に3年 携わった実績を持つものであった(p23)

・家康は 慶弔 4年の時点ですでに 豊臣政権における軍事を掌握していた、 庄内攻め・海賊の取締りは、いずれも明確な 軍令であり、 これらは「五大老五奉行の合議」によって決定されたものではない(p27)

・ 家康に対して意見を言う資格を有しているのが、大納言 以下の者で、豊臣政権内では、 小早川秀秋・ 徳川秀忠 ・宇喜多秀家・ 上杉景勝・毛利輝元・前田利長の6人の中納言である(p42)

・ 家康に背き上方で反乱を起こしたのは 石田三成 ではなく、 増田長盛・長束正家・ 前田玄以の三奉行であった、(p82)

・内府ちがいの条々は、全国の諸大名に発布されたように言われているが実は そうではない、 弾劾されている 家康 本人はもちろんのこと 会津 攻めに従って 東国に 向かっていた 諸大名は受け取っていない。 弾劾状は、 上方の状況に詳しくない九州の諸領主に当てて、 家康を 政権から排除するといった経緯を説明する目的で書かれたものである(p100)

・ 西軍の中心人物は奉行衆以外では、毛利輝元・宇喜多秀家・島津維新の3人である、輝元・秀家と同じ中納言である小早川秀秋・織田秀信は、 合議には参加しておらず 奉行衆の指揮下にあった(p115)

・従来 西軍の首謀者は石田三成 であり 毛利輝元は 名目上の総大将 にすぎないと考えられてきた、 しかし 同時代の 史料によると、安国寺恵瓊が「毛利輝元の命令で 石田三成と大谷吉継は大阪へ 呼び戻された」と触れ回っている。 毛利輝元は、 三奉行と結んで天下人 家康 を弾劾し、 諸大名を 大阪へ呼び寄せたと考えられる(p116)

・7月29日に行われた 軍議が世に言う「 小山評定」であるとすれば、 その参加者は、 池田照政・ 藤堂高虎・井伊直政・ 浅野幸長らと言うことになる、 家康はこの評定の後に彼らに上方へ 先発している少々の後を追わせている、 その諸将とは、福島正則・ 黒田長政・ 田中芳正・ 京極高知・徳永寿昌 である、彼らは 親までの評定には参加していない(p130)

・ 通説が言うように 小早川勢が戦闘中に突然、 西軍を裏切って 大谷 人に攻め込む などということは不可能であったと筆者は考えている。 秀秋は合戦の途中 もしくは 開戦と同時に 寝返ったわけではなく、 9月14日に松尾山を占拠した時点で 東軍であった(p252)

・ 西軍に属しているどこかの舞台の指揮官であったとする、 戦場の南端で小早川勢が突然、大谷勢と交戦を開始した とて、 危機感はどの時点でどのようにすることができるだろうか。 果たして 敵はどちらで味方はどちらかを正しく判断する ことができるだろうか、 あるいは当分に属するどこかの部隊の指揮官であったとする、 それまで敵であった人数のうち 一部のみが突然 味方になって 西軍の陣地へ 攻撃を開始したことは 東軍の指揮官がいる位置からは見えない、従って 家康の事前工作が功を奏し 小早川英明は最初から東軍であったという結論になる(p253)

・ 通説では両軍 合わせて15万人が天下分け目の戦いを戦ったと言われるが実際に戦ったのは何人ぐらいであろうか、 西軍は、 宇喜多・島津・小西・石田の諸隊であり、 東軍は、 小早川のほか、 福島・黒田・藤堂の諸隊である、 概算では両軍 合わせて3万ほどの人数が戦ったと考えられる(p265)

・後世に伝わってる布陣図はフィクションである、 西軍が鶴翼の陣を敷いて 東軍を待ち受けたというのも 面白い話であるが、事実ではない。 石田三成が本陣を置いたとされる「笹尾山」のある 玉村 は 主戦場になっていない。 また 徳川家康が戦場で 陣頭指揮を取ったという話も事実ではない、 家康が関ヶ原周辺に着いた時には 西軍 はすでに潰走していたはずである(p265)

・西軍によるクーデターの全容を知り 8月に西上作戦を開始した時点で家康は この戦役を毛利輝元との和談交渉によって終わらせるというビジョンを持っていた、 そして 西軍の主だった者たちへの交渉 ルートも この時期までに確保していた。 一方の西軍は「内府ちがいの条々」を出したことにより、 あるいは 伏見 城を奇襲によって陥落させたことにより和談交渉の可能性を自ら断ってしまった、西軍 首脳部は戦いを終わらせる プランを持っていなかった (p289)

・9月15日の合戦については戦いが始まったのは、西軍の宇喜多・島津・小西・石田 らが小早川秀秋を成敗しようと、 山中 方面 へ向かったためであった、 西軍で最初に崩れたのは大谷の軍勢 だったが、 そのことと 小早川秀秋の裏切りは無関係であることを 筆者は 問題提起した、 さらに 家康は関ヶ原の戦い以前にすでに天下人 であった(p293)

2026年1月25日読破
2026年2月1日作成

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2026年02月01日

Posted by ブクログ

関ヶ原合戦とそこにいたる状況を通説でいうところの豊臣家を簒奪する家康、
という視点ではなくすでに秀吉の遺言により天下人として認められていた
という視点で解説した本。
これはこれで面白い分析だ。

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2025年12月03日

Posted by ブクログ

これまで司馬遼太郎のドラマ性のある関ケ原が、、、結末が既定路線で進んでいたとは。
高橋氏の詳細な時系列をふまえた内容を学びつつ、改めて司馬氏のストーリーテラーな想像力に驚愕。

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2025年11月12日

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