あらすじ
AI時代、人間が持つ最大の能力は、感情になる! 感情を抑圧し“他者にあわせる”ストレスフルな現代から、“他者を理解する”感情的知性の未来へ。人間の可能性に話題の脳科学者が迫る。
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Posted by ブクログ
自分と他者を切り離さない方が他者に冷たい、は強烈に納得がいく。見えにくいものを見えやすくするのがいいのか、というのは納得する。デフォルトモードネットワークトサリエンスネットワークに重心を移す。安心できるのはどちらかでいいのかどうかはまた別のことだと思うが。
本体じゃないのだが、利他性のところがすごい。安全基地としての家族だからのケア>安全基地じゃない家族は?。困ったときのための異なる属性や無能力なものを尊重する動き。ハードプロブレムは意識と意味にとどまらず無意識にも生じうる。起こる出来事に対する感情を感じ取る。共に心が震える楽しいものを間に置くと相手の心とつながる。そのために合わせる。ふりをする。無意識に根差す感情でつながる。のと、強制して合わせ心を動かなくさせてしまう感情労働とのちがい。
Posted by ブクログ
AIの発達によって知能や肉体を使った労働がAIに取って代わられるようになってきた。一方で感情労働と言われる看護師や介護士、保育士や教員などの働き方に目が向けられてきている。常識や一般論で判断するのではなく、その苦しんでいる本人さえも気付けていない感情に寄り添えるようになりたい。
Posted by ブクログ
意外とみんな同じようなことで悩んでいるように見えて、やっぱり個性的で、でもやっぱり似ている。
人に寄り添い、自分の感情も人の感情も大切にして、よくなる未来を信じて生きていきたい。
感情は、基本的には、今自分の知らないことが起こっているのを私たちに告げ知らせるものだ。それが今までにないことが起こった「喜び」になっても、起こってほしくないことが起こった「悲しみ」になっても、想定外の物事に対する私たちの反応であることにはかわりなく、それが感情と呼ばれるのである。
ある状況に対してみんなが同じ反応を示したら、その反応が結局良くないものであった場合、人類自体が滅びてしまうかもしれず、それぞれが別々の反応をすることが、人類の生き延びる戦略となっており、だからこそ個人差や文化差が大事なのである。
感情は「正解がわかる前に、体を動かす力」「正解がなくとも、意思決定する力」だ。私たちが毎日、毎秒、行っている意思決定は、実は全て感情のおかげである。感情は、新しい物事の到来を自分に知らせるものであると同時に、自分の価値判断であり、世界に対する今の自分の解釈を表すものでもある。
「私のどこが好きなの?」とパートナーに聞かれても、うまく答えられないのは、「お腹が空いた、今日はなんとなくお肉が食べたい!」というそのお肉が食べたい理由がわからないのと同じで、自分の身体が自分に今足りないものを自覚して、「この人には何かがありそう!」「この人から何かを学びたい!」と欲する、脳を含めた身体全体の反応が恋だからだ。身体が脳に伝えてくることは、はじめは言語という形をとっていない。自分の身体に乏している栄養素を察知して、その栄養素が含まれている特定の食べ物を欲する仕組みは、「スペシフィック・ハンガー」と呼ばれている。
スペシフィック・ハンガーのような身体的欲求は、あとからは言語で推定することができる。
肉が今食べたいのはどうしてか、「最近野菜ばかり食べていたからかな」というふうに。それと同じで、自分がどうしてそれを選んだのか、自分の価値観は、あとからしか推定・言語化できないし、あとからなんとなく納得できるような説明をつけることができるだけなのだ。
燃え尽き症候群は、人間を対象とする仕事に限らないが、感情的に消耗して、これ以上の感情的消耗を避けるために他人に対して一切感情を使うことができなくなり、自分自身の生きている実感も価値も感じられなくなってしまった状態のことをいう。
自分自身が決定して、その行動の結果の責任を取ることができないために、成功の喜びを感じたり、失敗の痛みを感じて学んだりすることもできなくなってしまう。「こう決めたのはあの人だ」「あの人のせいだ」と言って、痛みを自分で感じないと、人は失敗は大したことではないと理解するようになり、同じ間違いをずっと繰り返すことになってしまうのだ。
感情は個人差があるものであると同時に、感情はみんなのものである部分がある。
「人間らしさ」の一つの定義は、人間に独特な意識や、自意識、他者意識を持ち、自分とは違う他者のことを思いやって行動できることである。しかし他者を思いやるというのは、自分を消して他者に合わせるという意味ではなく、自分の気持ちも他者の気持ちも大事にし、自分の感じていることを伝え合い、交渉し、時にはぶつかったり、嫌な気持ちになったり、させたりしながら、その責任を取り、調和して暮らせるようになることだ。
私たちは自分でも把握しにくい感情を、なんとか把握して社会に向けて言葉で表現したり、社会の要求に注意を向けることで感情を他人と協調させたりして、生きていかなければならない。
また感情労働に関し、ここで言えるのは、認知的負荷がかかっている時、感情抑制はしにくいということだ。仕事が忙しすぎたり、悩みがあったりすると、人に優しくすることはできない。自分に負荷がかかりすぎている時は、人よりもむしろ自分のほうが大切にされるべきだと感じて、自分の要求ばかりを人に伝えてしまうこともある。自分で持てる以上の荷物をなるべく持たないことが大事で、人に優しくできなくなったらそれは、荷物を減らせというサインなのである。
トランザクティブ・メモリーのおかげで、カップルや家族は、一人で暮らすよりも遥かに複雑で効率的な処理ができるようになる。
考え方を同じにするのではなく、人間としての身体、感情の要求は同じところもあるから、違う存在としてはその部分を満たせれば十分であり、「すっかり意気投合」といった関係になれなくても、そのような年に一度の経験が積み重なっていけば、相手の好きなことや嫌なことがゆっくりわかっていくところがあり、うまくトランザクティブ・メモリーの機能する「家族」になっていけたりもするのである。
人と自分とを同じ存在だと考えないのが重要ということである。共感 (同じ気持ちになること)と人間理解は異なっていて、本当に他人を理解するためには、むしろ他者と自分を切り離さなくてはならない。
「相手が自分の期待に沿ってくれる=自分が愛されていると感じる」ということになるともう、自分とは違う一人の人を尊重することとは正反対で、相手の気持ちは見えなくなっている。自分と相手を一体化するというのは究極的には自分の心も相手の心もなくすことなのだ。
自分がやりたいことと、他人がやりたいこととがあって、それが食い違うからこそ、人のことを理解するという感情労働が存在する。
現実では他者はそれぞれに忙しいのであり、あなただけに注意を向けることは不可能だ。だから他人と自分とを切り離すことが必要で、大事な人から注意をもらえたら、それもいつもではなくて無心な時だけでも注目してもらえたら、とてもラッキーなことだ。私たちは人からいつも注目してもらわないといけないと勘違いすることがあるが、本当は僅かな注目でさえ私たちに与える安心感は非常に大きく、それが私たちの世界を冒険する勇気となる。
つまり意識は、自分が必要としているけれどもうまく自分がコントロールできない事態専用なのにもかかわらず、私たちは時にこの意識こそが全てだと勘違いする。
ティ・ショウホウら一橋大学と名古屋大学の共同研究によると、生きていくためには必要なものなのに、私たち東アジアの人々が助けをあまり求められないのは、実は、他者が困っている時にも、あまり哀れみを感じないからであるという。東アジアは「集団」の文化で、自分と他者を西洋の人々よりもつながった存在であると見ており、自分自身の目標よりも、集団の目標のほうを重んじる傾向がある。そのような文化ではどうしても集団に対する責任感が強くなり、自分が自分の目的を達成するために「助けて」と口にするのは、集団にとって「迷惑になる」可能性があるから抵抗を感じ、他者が困っている時も、それは集団に対してその人がなんらかの悪いことをしたからだろうと類推するから、同情が薄くなるのだという。逆に、アメリカなどの「個」の文化では、自分と他者は違う存在というのが前提であり、自分の目的で行動するので、それが失敗した時には、「悪いことをしたから」ではなくて、「そもそもうまくいくかどうかはわからないから」で、他人が失敗した時にも自分もそうなのだからと助ける傾向になるという。
感情的知性の高い人は、他人や自分の感情の動きによく気づく上に、自分の機嫌を自分でとれる人だということである。他人から必ずしも承認されなくていい人なのだ。
感情的知性を身につけることは、私たちが見た目やIQやわかりやすく言葉で説明できる能力などだけで評価される時代を終わらせ、全人格を取り戻すことなのだ。
感情は、気づきを通して手入れが可能なのである。
「自分には相手には見えないことが見えているけれども、相手には見えていない」ということに気がついて、相手が受け取れるように言葉を使う工夫をする、また相手の得意なところも見るようにする、という意味で、自分も変化しつつ、相手の変化を促す必要がある。
本当の理由を知るのには時間がかかる。しかし、自分の無意識の一部が正確に把握される瞬間、人は幸福になる。気づきは、集団のうちで人に合わせている時には失われがちな「自分」が見えてくることなのだ。
人を本当に理解するのには、物事の因果関係を簡単に考えてはいけない。「そうではないかもしれないな」と判断を保留しなくてはならない。感情は常に動かしていなければならない。
その動いている感情を掴むにとどめ、型に入れないことが感情的知性なのである。
全てがコントロールできるという勘違いから離れ、コントロールが利かない世界の中で、時々ある「気づき」を大切にする。それだけで良いのかもしれない。
人間が人間と付き合う価値は、人間の動く心がわかるようになることに尽きるのだろう。
私が感じていることは、言葉には表しきれない。それなのに、今私たちは言葉で言えば全てがわかると思っている。言葉に頼りすぎていて、言葉だけを膨大に読み込んで大規模言語モデルを作り上げ、それが人間を超える知性を見せるようになるかということにまで挑んでいる。
私たちの言葉に私たちの心は、どこまで含まれているだろうか。
わかりやすさだけを求める世界は、息苦しい。「Aと言えばAと伝わる」そんな世界は本当は存在しない。全てが言葉に表れているというならば、物言えぬ人たちには心がないのだろうか。私は、大規模言語モデルは無意識で言葉を流暢に話すけれども、認知症になった母は言葉を流暢には話せなくなったが大規模言語モデルよりもずっと豊かな心を持っていると感じていた。
事実と経験は違う。何かが起こった時、自分の感情が動く。そしてその起こってしまった出来事は長い時間をかけて、私の脳によって消化される。もぐもぐと口を動かして食べるように、感情がウゴウゴと動いて、その出来事は消化されていく。そして事実は経験となる。それは私の人生の宝物である。正しかろうと正しくなかろうと、宝物である。それぞれの人が消化した、正解・不正解とは無縁な、経験という宝物、そしてそれぞれの人の心の動き自体に敬意を払うということが、私たちを自由に生きられるようにする感情労働なのだと思う。