あらすじ
ノーベル文学賞受賞作家の代表作とエッセイ
今年ノーベル文学賞を受賞した、ノルウェーを代表する劇作家の代表作「だれか、来る」とエッセイ「魚の大きな目」を収録。邦訳の単行本は初となる。
シンプルな言葉を繰り返す詩のような台詞で人間の本質を問う「だれか、来る」は、だれもが自分と重ね合わせられる。90年代に発表されるや、世界に衝撃を齎した。リアリズムと不条理演劇の間を往来する作風は、フォッセが、同じくノルウェー出身の劇作家イプセンの再来、〈21世紀のベケット〉などと称されるゆえんでもある。
ベルリン在住の訳者は、著者と20年以上親交を重ねてきた最良の理解者。フォッセは西海岸の周縁に生きる市井の人々の姿を描くために、西海岸の書き言葉ニーノシュクで執筆する。翻訳はドイツ語版から行ない、訳者が著者に直接確認しながら完成させた。エッセイ「魚の大きな目」は、フィヨルドとともにある生活の風景やフォッセの文学観がよくわかる。
巻末の訳者による解説では、文学的出発点になった出来事、原風景、創作のテーマ、影響を受けた世界文学や、主要作品の紹介のみならず、著者との長年の親交のなかでのエピソードから貴重な素顔も伝わってくる。
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Posted by ブクログ
ノルウェーでのビジネスを始めた2023年に、ハウゲスンで生まれたヨン・フォッセがノーベル文学賞を獲得。必読となり、やっと読む機会が出来た。シンプルな構成ながら全編に潜む不安感がノルウェーの景色とオーバーラップしてくる感覚。でも、日本語訳では真意を伝えきれていないのであろう。
解説が素晴らしい。特に以下:
まず、フォッセが執筆に使う特殊な言語“ニーノルシュク"について触れておきたい。ノルウエーには、オスローを中心とした現住民九〇%が話す”ボクモール”(Bokmal)と西海岸で使われる"ニーノルシュク"(Aynorsk)の二つの公用語がある。なぜ二つ?ノルウェーは、一八ー四年までデンマークの勢力下に置かれ、デンマーク語が使われていた。イプセンの全作品は、デンマーク語で執筆されている。そして独立後、国家意識の高揚とともに、独自の国語への要請が強くなり、言語学者たちの活動が顕著になる。まったく新しい言語ではなく従来の日常語だったデンマーク語を保存し、それに独特のノルウェー語の単語を導入し、書き方、発音をノルウェー化して出来たのが”ボクモール"である。西海岸では、状況がかなり違っていた。国の周縁に位置し多くのフィヨルドや峻険な山々に囲まれ孤立した谷間の村落では、昔からの個々の独自の方言が確立していた。言語学者イヴァー・オーセンIvar Aasen は、この種々の古い方言の中にこそ真なる自分たちの国語があると肩じ、西海岸の僻地を周り、方言収集を行った。その集められた多くの方言と旧ノルウェー語を合わせた西海岸共通の"ニーノルシュク"(新ノルウェー語の意味。古くからの方言と旧ノルウェー語を合わせてできたこの言語は、精密には旧の匂いが強い)ができあがったのは、十九世紀中葉だった。しかしこの言語は、あくまで「書き言葉」であり、西海岸の人々の話し言葉は、依然として方言である。公用語となっても、都市の住民やインテリは、ボクモールを使い、ニーノルシュクは、辺境の言葉、農民や労働者の言語と見なされがちであった。フォッセは、作品で取り上げる「西海岸の周縁に生きる平凡な市井の人々のあるがままの姿」を描くのに、意図してこの言語を選んでいる。ただ書き言葉ゆえ舞台で話す難しさがあり、彼の戯曲を演じる役者は、簡単に見えるセリフを覚えるのに相当の労力と時間を費やすと言われ、文体とともに翻訳も至難の技である。作品に、ローカル性を失うことなく、登場人物や状況にある種距離を置き俯瞰できる客観性を生み出すために、フォッセはこの言語を使うのかもしれない。
また、「人工語の“善き言葉"を、セリフで"話し言葉”として使うととによって、自分は、新しい”言語"を生み出そうとしている。これは僕の文学への貢献だとも思っている」と言っていた。作品は、言語学上からもユニークであり、一地方の書き言葉を芸術の域に昇華させ、世界に紹介したのは、注目に値する。
「メランコリー」も、全作品の底辺に流れている要素の一つである。「死」の非回避性や「生」の不条理、無常への認識、不安は、人を病に落とし込むこともあれば、芸術の題材ともなる。カミュは人生について「生まれてそして死ぬ。その間にあるのは、メランコリーと美しさだけ」という言葉を残している。一人の天使が片肘を膝に乗せ頭を支え憂鬱そうに、周りの活動に目を向けているあの有名なアルブレヒト・デューラーの銅版画(メランコリア)、ドイツロマン主義絵画の巨匠カスパー"ダヴィッド・フリードリッヒの数々の傑作をはじめとする美術、文学、ひいては建築概念としてまで、メランコリーは、こころの擬人化、メタファーとなっている。代表的なのは、シェイクスピアの『ハムレット』かもしれない。父の死への怨念は、息子ハムレットをメランコリーに病む人間にしてしまい、ハムレットの人間観、世界観を変えてしまう。「死」は、それほど強い力をもっている。フォッセは、『ハムレット』を意識しているのだろう。
フォッセの長能小説デビュー作は『メランコリア』と題され、十九世紀中葉に生きたノルウェーの風景画家ラース・ヘルターヴィクの生涯をテーマとしている。
Posted by ブクログ
表題作。シンプルなセリフで紡がれる、彼と彼女の心の揺れ動きが見事だと思う。二人だけの家に来たはずなのに、すべてが安定しているはずなのに、どこかかからやってくる不安。それは外からでもあり、また彼ら自身の内側からでもあることが、短い会話のやり取りから読み取れる。
Posted by ブクログ
タイトルとノルウェーのフィヨルドが舞台とだけで読む。
本を開いてみて初めて戯曲と知る。しまった!
ところが、この戯曲は読みやすくて助かる。
情景が、舞台が、ありありと浮かぶ。
フィヨルドの暗い海を前に、
人は人を信じ切れない、孤独な存在・・・
と、いうことなのかな・・・
Posted by ブクログ
ヨン・フォッセの「だれか、来る」の表題作を読みました。
戯曲です。
彼と彼女は、とても辺鄙なところに新しく買った家の前に立ち、問答をします。
「だれもやってこない家 おれたちが 一緒にいられる家」
「きっと だれかやってくる」
そして、家の元の持ち主の男が現れて、彼女と話します。
彼は彼女の気持ちが男にあったのだと弱々しく責め立てるのです。
彼女は一瞬いなくなります。
そこで、彼は独白をする。
「おれたちは二人きり いつまでも」
そうして彼女は姿を現し、関係は修復されました。
彼女は、家の周りにだれもいないことに寂しさを訴えておりました。彼は、彼女の姿が見えなくなると、突然、希望を語りました。
人は、やるせない孤独を感じてしまうと、人を恋しがる。そして、愛を求めます。その心理を描いたのでしょうか? さて、彼女の前にでてきた男は、不快な人でしたが……。
そして、他にも語っていることはありそうです!!
Posted by ブクログ
ノルウェーのフィヨルドが舞台の戯曲。逃れてきた男性と女性が嫉妬のため相手を疑ってしまうやり取り。よくわからないところもあるけど、解説を読んだりノルウェーのような緯度の高い地域の気候や風景を思い浮かべると、作品の深い部分がにじみ出てくるような感じがする。