【感想・ネタバレ】空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑むのレビュー

あらすじ

チベットの奥地、ツアンポー川流域に「空白の五マイル」と呼ばれる秘境があった。そこに眠るのは、これまで数々の冒険家たちのチャレンジを跳ね返し続けてきた伝説の谷、ツアンポー峡谷。人跡未踏といわれる峡谷の初踏査へと旅立った著者が、命の危険も顧みずに挑んだ単独行の果てに目にした光景とは─。開高健ノンフィクション賞をはじめ、多くの賞を受賞した、若き冒険作家の野心作。

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すべての事はもう一度行われている
すべての土地はもう人が辿り着いている
――――― 『マニアの受難』 ムーンライダーズ

今どき探検家ほど活躍が難しい職業もないだろう。マロリー、アムンセン、植村のような英雄の活躍はすでに前世紀の神話。今でも世界は驚きに満ちているが、前人未到の峰や秘境はほとんど残っていない。文中の著者のセリフは、世界中で共通する悩みに違いない。
「いったいどこを探検すればいいのかよくわからない」

そしてようやく見つけたわずか五マイルの、しかしながら人跡未踏の地、チベット・ツアンポー。
Google Earthで下調べして出かける、21世紀の探検の顛末は?
高野秀行さながらのエンタメ冒険譚を予想していたが、いやはや、これほど凄まじい展開になるとは。
名声を伴わない命懸けの行為。現代に生きる探検家の勇気と業に満ちたドキュメンタリーです。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

ほぼ死が確定している中、生存の希望となる橋を発見するシーンは夢中になって一気に読んでしまった。
ツアンポー峡谷に敗れ、死が近づいてくる描写は文学的でありながら、リアリティもある本当に引き込まれた。

自分も探検部に属しており、角幡唯介や高野秀行のような探検は一つの理想であるが、この探検のように死が隣り合わせな状況は自分には耐えられないだろう。
しかし、角幡唯介の本を読む度に自分も探検がしたいと強く思う。

この本のあとがきで、角幡唯介が「読み手を意識していない。自分の欲求のために探検して、この本を書いた。」とあった。
「探検という行為は社会に還元するためにある。」というのが、探検部の上の年目の教えだ。
その教えゆえか、何か成果を出さなえれば探検する意味はないと自分は考えていたが、このあとがきのおかげで、成果に囚われすぎず探検という行為をしてもいいのだと思い気が楽になった。

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2022年05月12日

Posted by ブクログ

ネタバレ

空白の五マイル
チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む

角幡唯介(かくはたゆうすけ)著
集英社
2010年11月22日発行

面白い本だった。まだ2月半ばだけど、今年読んだ中では一番。ただし、2010年の本(2010年、開高健ノンフィクション賞受賞作)。
チベットの首都、ラサから東へ500キロほどのところにある(ヒマラヤ山脈)ツアンポー渓谷は、“世界一大きな”渓谷と言われ、謎とされてきた。数々の探検家をはねつけ、その命を奪ってきた。1924年、英国のウォードがついに1000メートルの岸壁を越え、探検家としては初めて渓谷の無人地帯を突破。それでも最後に入れなかった区間がある。そこは「空白の五マイル」と呼ばれ、ツアンポー川の圧倒的な水量と険しい地形が、ナイアガラなみの大滝があるとの伝説を生み、1990年代以降、世界の探検家たちの目標となった。

実際は五マイル、約8キロではなく、22キロの未踏地区に、ウォード以降入り込んだのはアメリカ人。1993年に幻の滝(ただし大滝ではなかった)を発見した人、さらに、そこに行った人。しかし、それは「空白の五マイル」のほんの一部。そして、ほぼ全容を解明したのが、日本の若者、著者の角幡唯介だった。外国人として世界初、しかも、単独探検だった。

早稲田大学探検部OB、4年のときにツアンポー渓谷に行き、次はその奥地に行くことを心に決めたものの、1998年に中国政府の規制で入れなくなった。6年かけて卒業したが、就職せず、土木作業員などのアルバイト生活。しかし、26才の時に朝日新聞の新卒採用に合格、入社までの半年が最後のチャンスだと思い、2002年暮~2003年にかけて許可もなしに現地へと向かった。

役人に賄賂を渡しながら取り締まりを逃れ、現地ガイドと別れて単独探検に入った途端、滑落して死を覚悟。目に映る映像がスローモーションになっていたそうだが、偶然にも途中で松の木に引っかかり九死に一生を得る。そこに松の木があることが不思議な場所だったらしい。
結局、ガイドの家に世話になりながら、3回の探検を行い、空白の五マイルのほぼ全容を解明。やはり大滝ではなかったが、新たな滝も発見、さらに、圧迫されたチベット人の宗教上の約束の地とされている「ペマコゥ」を彷彿とする巨大洞穴も発見した。

2009年、朝日新聞を辞めて、再び単独探検。しかし、これは失敗。失敗どころか、死の寸前まで行く。それも、餓死。食糧が尽き、地図でたどり着いた村が廃村になっていた。そこには、中国による統制に翻弄される山岳民族たちの運命も垣間見える。
著者は、この後にこの本を書いたことになる。

自身のチャレンジの記録の間に、それまでのツアンポー渓谷における探検の歴史が語られているが、これがなかなか読みごたえあり。こういうのは、単なる枚数稼ぎが多いが、著者は元新聞記者だけあって、簡潔に要点を伝えている。もっと詳しく説明してくれてもいいのに、と思えるほどだった。

とくに、1993年、NHKの番組制作を兼ねた日中合同の大規模遠征隊において、世界で初めてツアンポー川をカヌーで下るという企画が立てられた。そこに参加したのが、早大カヌー部OBの二人だったが、一人が行方不明になった。それは、NHKの映像を見ると、技術的に彼より未熟なもう一人が流されるのを助けようとして自分がツアンポー川の怒気の犠牲になったことが分かるが、そういう美談よりも、彼は出発する前に友達など親しかった人に会っていて、この本の著者がそういう人に取材した中で、彼は本当は行きたくなかったが行かざるを得ない状況だったことが分かり、なぜ彼は就職もせずカヌーをやり続けたか、という分析を自分に照らし合わせながら語っているところに、とても感じ入るものがあった。

そして、本のエピローグは、人はなぜ探検をするかという再考になるのだが、最後に「探検は終わらない」などという安っぽい言葉ではなく、「長い旅は終わったのだ」で締めくくっているのがなかなかニクい。

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2021年03月17日

Posted by ブクログ

ネタバレ

筆者が述べるとおり、完全な自己満足の世界。通常人には理解されないことに命懸けでトライした男の話。
なぜ仕事も捨ててまで、チベットの奥地に、捕まる危険性、死ぬ危険性まで背負って行くのか?
それについて筆者はエピローグで「リスクがあるからこそ、冒険という行為の中には、生きている意味を感じさせてくれる瞬間が存在している。あらゆる人間にとっての関心ごとは、『自分は何のために生きているのか、いい人生とは何か』という点に収斂される。(中略)冒険は生きることの意味をささやきかける。だがささやくだけだ。答えまでは教えてくれない。」と述べている。
本当に心を打たれた。
普通の人からすれば、登山家や冒険家、探検家、エクストリームスポーツのレーサーなどは理解できない生き方だろう。だが、なぜ彼らの人生は、行動は、言葉は、私たちの胸を熱くするのだろうか?
地位も金も求めず、威張らず、自分が普通ではないことを自覚し、それでも媚びず、諦めず、自分の夢をやりたいことを貫く生き様は美しい。
非常に影響を受けた本。

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2020年01月28日

Posted by ブクログ

ネタバレ

ようやく読書の時間を取れるようになってきたため再開。
二部構成、各6章-2章構成
探検家の魂のノンフィクション自叙伝

・メインストーリー
チベットのツアンポー峡谷にある、
前人未踏の空白の五マイルを日本の探検家が単独で踏破を試みる。

・サブストーリー
途中、角幡氏の回想シーンと、ツアンポー・チベットの案件にまつわる歴史的叙述のシーンがある。

・構成
基本的には角幡氏の探検中のシーンがほぼありのまま語られる。

・特に印象的な場面など
p.177
当然のことだが、滝には地元の人たちから呼び習わされてきた名前があった。〜米国人が思い入れたっぷりに名付けた「ヒドゥン・フォール・オブ・ドルジェパグモ」でも、中国人たちが無機質に命名した「蔵布巴東瀑布群」でもない、「ターモルン滝」という美しい名前があったのだ。

p.112,113
息子はどこかに流れ着いたら、そこで修行をするんだと答えたという。そこはチベットの有名な聖地なんだ。それが2人の間に交わされた最後の会話だった。『今になって思うと、どこかに流れ着いたらというのは、死後の世界のことを言っていたのかなとも思う。今でもあの言葉の意味を考えることが多いんですが、行く前からある程度の覚悟はあったのかなと思います。』

エピローグとあとがき全部

・気づき
1.究極の追体験
何かを追体験できる、というのが読書の魅力の一つだと思うが、そのような追体験のうち、何かしらは自分が共感できるものだったり、イメージしやすいものだったりする。
ただ、この本はそこが全く異なっていた。
角幡氏が体験した全ての出来事が、常軌を逸したものであり、私自身では到底真似することが不可能で、イメージさえも難しい領域にあるものだった。
ゆえに1文1文読むのにとてつもなく体力を使ったが、その分だけ無知(未知)の世界の広がりを感じることができた。
2.自分の行動の意味づけをすること
彼が敢行した探検行為は、周囲からすればどういう意味があるのか疑問に感じるし、実際私も読んでる途中になぜこんな死のリスクを冒してまで冒険をしているのか…?という気分になった。
角幡氏自身も探検途中にその意味するところを突き詰めきれてはいなかったのではないか。
というのも、今なぜそれに取り組んでいるのか、その時々では本能的・直感的に分かってはいるものの、それを言語化するよりも先に体が行動しているからだと思う。
言語化・意味づけをせずにやり過ごしてしまった体験は風化してしまい、せっかくの貴重な体験でさえも問答無用で錆びついてしまう。自分の血肉となるべき経験を無価値にしてしまうのは勿体無い。
しかし、そうは言っても簡単に自分の行動の意味づけを行うことはできないようで、角幡氏もあとがきの部分で、全てを書き記すことはできていないと書いている。
分からなければ何度も重ねて意味づけをする必要があるようだ。
3.文の構成
本書の内容はとんでもない出来事の連続ではあるが、割と最後の方は慣れてきて、若干単調に感じてくる。というのも、本書の位置付けが最初に提示されず、読み手が迷子になってしまうからでは?と感じた。最後の最後で本書の位置付けが明示され、その背景で書いたのね、と納得はできるが、その情報なしだと、どんな素敵な秘境があるのだろうと期待しながら読み進めるので若干面食らう。
構成として、この冒険に何の意味があるのだろう、と疑問を抱かせる点では本書の構成がエピローグで伏線回収的になっていいのかも、と思ったりもしたが、最初に位置付け明記した方が親切とも思った。

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2024年03月03日

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