【感想・ネタバレ】華の蔦重のレビュー

あらすじ

大河ドラマの主人公・蔦屋重三郎の粋でいなせな一代記!!
山東京伝、曲亭馬琴、喜多川歌麿、東洲斎写楽……江戸っ子たちを熱狂させた大勝負、とくとご覧あれ。

豪華絢爛の吉原が業火の海に包まれた明和九年。多くの人が落胆する中で、江戸をふたたび元気にしようと心に決めた男がいた。蔦屋重三郎。通称蔦重と呼ばれたその男は、貸本屋では飽き足らず、地本問屋の株を買って自ら版元として様々な勝負に打って出る。「楽しんで生きられたら、憂さなんて感じないで済むんです」面白い書物や美しい浮世絵は、きっと世の中を明るくしてくれる――。彼の熱意が、山東京伝、喜多川歌麿などの心を動かし、江戸を熱狂に包んで行くのだった。しかし、そこに立ちはだかったのは……。エンターテインメント歴史小説!!

世の中は酒と書肆が敵なり どうにか敵にめぐり会いたい

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Posted by ブクログ

大河ドラマ「べらぼう」の予習•復習として読みました。
べらぼうがとても面白いのはドラマの脚本がいいのはもちろん、やはり重三郎の生き様が面白いからだと改めて思い知らされました。

サクセスストーリーではあるけれども数多の苦難に襲われながら信念で打ち勝つ姿はまさにドラマチック。
読後感の温かさが心地よいです。

他方、他の書物などでは強引、剛腕な描かれ方をしている重三郎でもあるので、あくまで読み物として捉えるのがこの小説の正しい向き合い方だと思います。

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2025年02月18日

Posted by ブクログ

大河ドラマがはじまった蔦重。
関連番組も多くて、読んでおくと繋がりが分かる。
歴史に名を残す著名人を発掘したすごい人だった。

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2025年01月19日

Posted by ブクログ

今年(2025年)の読書1冊目は、大河ドラマの主人公の蔦屋重三郎さんのお話。
表紙の絵も、良いですね。
歌麿や写楽や馬琴や北斎等々、多くの方々を発見し成長させ世に出した人だとは、全く知りませんでした。蔦重とお甲さん夫婦も、とっても素敵でした。
大河がますます楽しみになりました。

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2025年01月06日

Posted by ブクログ

蔦屋重三郎の一代記なんと素晴らしいことよ!これこそ時代の先を読むことが事業を行う者にとって大事な事なんだよ。倅に言ってやりたい!蔦重の他に登場人物が多数登場するが皆よく知っている人物だったことも良かった!

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2025年01月04日

Posted by ブクログ

結構、大河ドラマとストーリーが似ていて、頭の中にビジュアルが浮かぶ。谷津さんの『蔦重』も読んだけど、人生、山あり谷あり、悲喜こもごもですな。

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2025年07月20日

Posted by ブクログ

江戸の時代にメディアを通して人の心を動かし、文化を作った陰の人物という設定は、なるほどなと思った。

出来過ぎな人生ですな。私もこうありたいところ。

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2025年04月11日

Posted by ブクログ

2025年大河ドラマで話題の蔦屋重三郎の一代記です。

大火事のときに、人を注目させて導いた才覚は蔦重(蔦屋重三郎)が持っている天性のものだと思いました。天災や降りかかる災難にもめげず、常に民が求めるものを信じて突っ走った人生のようでした。

版元となり、葛飾北斎、喜多川歌麿、山東京伝、曲亭馬琴、東洲斎写楽らを世に出し、ひとつの文化をつくった人物として興味深い人でした。

当時の本や浮世絵にますます興味が増し、大河ドラマとはまた違った物語として楽しめた一冊でした。

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2025年05月02日

Posted by ブクログ

今期の大河ドラマがなかなか面白い感じだったので、蔦重のお話を読んでみました。横浜流星の顔が浮かんでしまうのはやむなしとして、今後出てくる登場人物やエピソードの先取りができ、ドラマの方も大変期待が持てると感じました。

ドラマとシナリオが違うところもあり、例えば、蔦重が最初に作った細見は、ドラマでは持ち運べるよう小さく薄くしていましたが、この本では版を大きくしていました。何が真実なのか、どこまで史実に基づくのかはわかりませんが、不思議な差分だと思います。
同様に、『金々先生栄花夢』は、ドラマでは蔦重たちがいろんな人に聞きまわった話をベースにしていたはずが、この本でそういった逸話は全く出てこない。

恐らく、ドラマで、今後、展開されるいろんなお話も、ちょっとずつ違ってくるんでしょうね。

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2025年03月10日

Posted by ブクログ

ネタバレ

華の蔦重

著者:吉川永青(ながはる)
発行:2024年12月10日
集英社
初出:
集英社文庫web 2023年10月~2024年7月
「本バカ一代記~花の版元・蔦屋重三郎」を改題、大幅加筆・修正

とても読みやすく、学校の先生が書いたような優しい文章。もちろん、正しい日本語で決して格好つけてない。面白みがない文体かもしれないが、寝転んであっという間に読める。登場人物もそれなりにいるけれど、記憶から消えたり、こんがらがったりする展開ではないのでイージーに読める。著者は会社員から文学新人賞を経て小説家になったとあるが、文章構成というか、整理が上手い。

蔦屋重三郎については、小説も何冊か読んだし、学者が書いた学術系の本も少し読んだので、おおよその彼の人生について把握できているが、この小説はその面でも王道しか描いていない。異説や突飛な展開がない。あるとしたならば、筆禍事件でお咎めを受けた蔦重が、財産半分没収の罰を与えられたが、それは事前の噂であって、実際はもっと軽い二十貫文の罰金だったとしている点ぐらい。これは学術書とも違う見解になっている。

蔦重の人生のポイントは
・吉原のガイドブック(細見)での版元デビュー
・洒落本、黄表紙での大ヒットで大手版元の仲間入り
・朋誠堂喜三二、恋川春町、山東京伝の筆禍事件
・喜多川歌麿の開拓
・東洲斎写楽の開拓
このあたりだけれど、これは全て押さえている。王道、ある意味でありきたり。これでよく350ページ近くも書けるものだと思う。しかし、重要ポイントは全て押さえられているので、蔦屋重三郎とはどういう人物で何をやったのかという全体像を知るには、とてもいい入門書になると考えられる。

東洲斎写楽は、阿波徳島藩(江戸屋敷)に所属する猿楽師(能楽師)の斎藤十郎兵衛だと言われているが、あくまで推定であり、本当のところは分かっていない。彗星のごとく現れ、あっというまに消えてしまった謎の絵師。いろんな推測や説が乱れ飛んでもいるが、本作品の説明はとても素直で誰しもが納得できるものになっている。その点からも入門書として最適。
斎藤十郎兵衛は、1年ごとに能を舞い、1年は休みとなる。その1年だけの約束で絵を描くことになった。だから、1年で消えた。一応、武士の身分である。それが本職でもない絵を描いたら問題になると恐れた。恋川春町は武士でありながら松平定信を批判するような風刺本で、最後は切腹に追い込まれたことを引き合いに、最初は尻込み。しかし、蔦重に説得され、身元を決して明かさないこと、1年だけで終わらせること、を条件に描いたのだった。それで一応の説明はついていることになる。


利兵衛:養父、妓楼・尾張屋
次郎兵衛:養子先の義弟(跡取り)、15歳(8歳下)
丸山重助:実の父、乞胸、
津与:実の母、利兵衛の妹、親からは勘当される(尾張屋の娘)

朋誠堂喜三二:平沢常富(つねまさ)、秋田藩主・佐竹家に仕える
浮雲:三文字屋の花魁、貸本の上得意、年季が明けてお甲となり重三郎の妻に
丸屋小兵衛:通油町の版元、重三郎が株を買った相手

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(読書メモ、ネタ割れ)

第1章

明和9(1772)年2月29日、吉原が火事に。10月になり、吉原の外にある仮店舗で営業する各妓楼。そこを貸本営業で回る蔦重。この年の11月、安永元年に改元。尾張屋が引手茶屋も始め、店は出来上がり、蔦重は貸本営業を五十日(ごとび)のみにして、あとは茶屋を手伝うことに。住まいもそちらに。

安永2年正月7日、蔦屋耕書堂スタート。養父が経営する尾張屋の常連である浮世絵師の北川政重が祝い酒を持ってきてくれた。蔦重がここで版元になりたいと相談すると、朋誠堂喜三二を紹介してくれた。喜三二は、鱗形孫左衛門のところへ連れていってくれた。鱗形屋の吉原細見は1月と7月に出るが、火事で吉原の事情が大きく変わっているので、その改訂情報収集を引き受けることになった。そして、鱗形屋の改所・小売の売上げは、貸本のそれの十倍となった。

養父に呼び出された。尾張屋は吉原に戻ってから暫く、割り引きなどして景気が良かったが、今はさっぱりだという。仮店舗をしていたあたりにも割安の岡場所があって、客はそちらに行く。吉原は粋な遊びが重視されるので、武士が中心となるが、武士に受けるような本を作れといわれる。しかし、版元になるには株を買わないといけないが、五百両ぐらい必要と言われ、10年ぐらいかかるなあと思っていたので、それを話すと、版元でなくても出せるもので、吉原全体を宣伝するようなものを出せと言われた。

武士の心をくすぐるもの。武士である喜三二にも話を聞くと、見栄を張りたがる、生け花にうるさい、という話にひっかかった。そこで、女郎を花にたとえた本を考えた。安永3年7月、初めて自らが作った本、遊女評判記『一目千本』が完成した。お金をたくさん出してくれた妓楼にはたくさん置いていき、楼主たちは諸藩の江戸屋敷に挨拶に言ってそれを配る。吉原全体の宣伝になる。耕書堂で小売りもしたが、大して売れないだろうとの予想どおりとなった。ただし、尾張屋は上機嫌、売上げが伸びたようだった。

安永4年3月、絵双紙の続編『急戯(にわか)花之名寄』を出版。店の紋と女郎の売り口上を入れた吉原細見の豪華版のようなものを出した。これも大した売上げにはならなかった。

4月に貸本をチェックしていると、鱗形が4月に出した『金々先生栄花夢』に圧倒された。恋川春町の黄表紙。ところが、5月に鱗形が盗版を起こした。手代が出版をすすめた本が、上方の本のパクリだった。余りに売れたので噂が上方まで行ってバレた。手代は所払い、鱗形は二十貫文の過料。吉原細見はどうする気だと重三郎が問うと、お前が出せという。7月、重三郎は一回り大判にした細見を出す。値段は半額の6文。綴じずに畳んだタイプで安くし、情報量を増やしている。
大成功だったが、鱗形が来て、うちもこれを真似させてもらうと宣言した。


第2章

蔦屋版細見の改所・山金堂と組んで1年あまり、鱗形屋と競い合い、絵双紙『青楼美人合姿鏡』を山金堂株で出版するに至った。地本問屋株を買うべく資金稼ぎをしている。

安永5年9月、北尾重政と絵師の勝川春章が引手茶屋から声をかけてきた。株を買うつもりの通油町の丸屋が、あと3年で隠居するという情報を伝えにきたのだった。重三郎が貯めたお金はまだ270両、相場の500両まであと5年ぐらいかかる。それでは遅い。重三郎は、2人に加えて朋誠堂喜三二にも口ききしてもらって、10月、初めて丸屋に会いにいった。そして、今270両あるが、頭金で100両払い、残りは60両ずつ10年で払いますという条件を出した。利子込で合計700両となる。もし返せなかったら、株は返すし、それまで払ったお金もいらないという条件も。

丸屋は、持ち金全部出さないところが気に入ったといい、全部で400両でいいとまでいってくれた。利子も不要、30両ずつ10年でいいと。そのかわり、この2年で世の中を楽しい方に押し流したいと言ったが、その成果を見せろと言ってきた。『青楼』は山金堂との仕事だからだめだと言った。自分一人でなにかをしろと。

花魁・浮雲の話がヒントになり、蒟蒻本を出そうとひらめいた。蒟蒻本は吉原や岡場所に材を取った本で、いかがわしいもの扱いを受けているため地本問屋が取り扱わない。だから蔦屋でも出せる。一方で、大っぴらには読まれないが、貸本ではそれなりに読まれる。もし、一流の戯作者が書いたらどうなるか?金々先生も春町が書いたから売れたのだと思った。

安永6年正月、尾張屋に朋誠堂喜三二を招いて接待し、洒落本を書いてくれと頼んだ。怒り心頭かと思ったら、許してくれた。一流の戯作者に洒落本を頼むとはありえないことだったが、別名で書くならばと条件付きで受けてくれた。それでは重三郎の狙いから外れるのではと心配されたが、読む人が読めば喜三二が書いていることは分かるだろうと重三郎は考えていた。

安永6年7月、『娼妃地理記(しょうひちりき)』を刊行。作者名は「道蛇楼麻阿(どうだろうまあ)」。出だしは鈍かったが、一月ほどたつとまとめ買いをしてくれる人が来始めた。作者は喜三二だと見抜いている読者もおり、その噂も広まっていった。

9月半ば、鱗形屋と並ぶ大手版元の西村屋与八が訪ねて来た。与八は二代目。鱗形屋孫兵衛の次男で、西村屋に養子に出されて経営を引き継いでいる。30歳すぎぐらい。常に人を見下したように偉そうに言う。今回は『娼妃』をうちで取り扱ってあげようと思う、と言ってきた。また、一緒に絵を売り出してやる、とも提案してきた。そして、『娼妃』を2千部買っていった。さらに刷り増しも注文し、ヒット作となった。地誌のなかの国が実は妓楼であり、国ごとの名所や名物が実は女郎のことだとわかるように書かれた傑作だった。さすが喜三二の筆という出来だった。

安永6年末、2年後の株引き渡しに備えて毎日のように丸屋に通っていた。その日も仕事を終えてやっと店に戻ると見慣れる女がいた。浮雲の年季があけ、普通の格好をしていた。名はお甲。そのまま押しかけ女房的に住み着いてしまった。

この年の末、西村屋と磯田湖龍斎(こりゅうさい)の絵を売り出した。北尾重政を通じて知り合った絵師だった。『雛形若菜初模様(ひながたわかなのはつもよう)』という女郎を描いた大判の絵。単なる美人画ではなく、呉服屋が新しく出した柄の着物を描いていて、着物の宣伝にもなる錦絵だった。

留守中に西村屋与八が来て、その湖龍斎の見知らぬ絵を置いていったという。うちからこれを出すから、と。絵は一緒に出す約束で証文がある。それを一方的に破棄してきた。どちらかの縁者に咎人(とがにん)となった者が出たらそれが出来るという条項があった。誰が対象なのかと西村屋へ。

対象は蔦屋と取引している縁者の鱗形屋孫兵衛だった。今回は本当の盗人のかどで取り調べを受けている。取引先の藩の用人が、金に困っているというので質屋を紹介したが、質種が主家の家宝だった。それはあくまで用人の犯罪だが、質屋紹介料として孫兵衛が十両を受け取っていたことが余りに高額でグルではないかと思われているのだった。結局、江戸所払いとなる。

実はこれは西村屋が仕組んだことでもあった。家宝がなくなって奉行所に届けたら、僅か10日で質屋から見つかっている。あまりに早い。誰かが密告しているに違いない。鱗形屋の盗版事件を起こしている手代が事情を知っていて、西村屋に教えたのだろうとの推測が立てられた。そして、西村屋与八こそ実の父親だから身内ではないかと重三郎が指摘すると、けんもほろろに関係ないと言った。与八は優秀だったのに、ぼんくらな長男が鱗形屋をつぎ、自分が養子に出されたことを恨んでいるのである。


第3章

安永8年は黄表紙出版があいついだが、火付け役の鱗形屋からのものは売れていない。世間の目は厳しい。重三郎も死んだふりをして大人しくしている。

重三郎は秋に株を買って版元になる。吉原の店は閉めず、引手茶屋を借りっぱなしでは悪いから、4軒隣に小さな店を開いた。

安永9(1780)年1月、黄表紙の新刊本を刊行。二冊同時発売。大いに売れた。国学と漢学に秀でた大田南畝の著作でも評価されている。重三郎は南畝の狂歌でなにかを狙っていた。数日後、南畝を訪ねて評価の礼をいい、狂歌の山手連に食い込んだ。

安永10年4月に改元され、天明元年(1781)に。

西村屋からまた届いた。今度は鳥居清長の美人画を出すという。また取られた。
その2日後、重三郎は北川豊章(とよあき)という若手絵師を呼んだ。鳥山石燕の弟子で、美人画が得意だった。重三郎が開拓し、西村屋に紹介したが、やはり引き剥がされた一人だった。ところが、豊章は2つ3つ西村屋から出版されたものの、最近は清長ばかりで使ってもらえない。重三郎はお前の絵が清長より下手だからだと言い聞かせる。そして、狂歌本に絵を入れることを計画しているから、それを描かないかと持ちかける。西村屋に不義理にならないように、喜多川歌麿の名前で描くことも決めた。

天明2年12月17日、大田南畝、朋誠堂喜三二、恋川春町など文人や、絵師などを招いて、大々的に吉原で宴を開いた。その時、喜多川歌麿と紹介した。北尾政重がやってきて、弟子の北尾政演を連れてきた。絵師としてだけでなく、黄表紙作家としての腕がすごいと政重。重三郎もそれを認めている。鶴屋から出版されているので、鶴屋から彼を引き剥がしてほしいと政重に頼まれる。

天明3年となり、34歳となった重三郎は1月に黄表紙や洒落本を出すと今まで以上に売れた。7月には絵入り狂歌本を出そうと考えていた。ところが、5月の終わりに浅間山噴火の情報が入った。なんとなく長引きそうな気がしたので、絵入り狂歌本は先延ばしにして、黄表紙を出すことにした。そして、お甲の提案で、ディスカウントして売って世の中を明るくすることにした。

丸屋からは株だけでなく、建物も買い取っていた。修繕して、蔦屋耕書堂を移転した。吉原は小売りだけにした。9月3日、オープンし、通常24文の黄表紙を14文で販売した。20日間限定。蕎麦より安い。そして、狂歌本を出すことにした。ただし、まだ絵は入れない。

天明4年1月、この年も多くの黄表紙を出した。前年には大田南畝の狂歌本『老來子』を5冊ひとまとめで出し、ここまで売れるとは思わなかったというほど売れていた。重三郎も決意した。その年の7月、売り出された新刊には、4冊の狂歌絵双紙が含まれていた。歌麿が絵を入れたのは、そのうちの1冊だけだった。歌麿の絵が入ったものがとくによく売れた。

北尾政演が入れあげている女郎がいた。その現場を訪れ、年季明けに結婚する予定だと聞くと、重三郎は身請けのお金を出してやると言い、その代わり戯作者・山東京伝として黄表紙を書いてくれと提案する。

天明5(1785)年1月、山東京伝の黄表紙『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』を出版した。飢饉のため、最初は売れなかったが4月になると売れ始め、日を追うごとに伸びた。その年、江戸の黄表紙で一番となった。他の版元が軒並み出版数を減らしているなかで、蔦屋だけ増やして一人勝ちだった。絵ではまだ西村屋にはかなわないが、そのうちに抜かすからと宣言。名実ともに最大手となった。

天明6年8月、田沼意次が解任された。飢饉は浅間山の噴火だけでなく、政治責任もあるとされ始めた。物価の値上がりがひどい。米は3倍に。利根川でも氾濫が起き、さらに不作に。

天明7年5月、ついに米河岸での打ち毀しが起きた。こんな状態で商売ができるのか。知恵を借りようと朋誠堂喜三二こと平沢常富を尋ねた。平沢もちょうどいい、頼みがあると言った。公儀は蔵を開けて米を配ることを決めたという。そして、米を安く売るようにとの達しも出すことに。平沢は怒っていた。もっと早くそれをしていれば、こんなことは起きなかったのだと。秋田藩は過去に不作を何度も経験しているから、そうならないように1月前に提案しているのに、白河藩の松平定信が反対していた。そして、遂に公儀が秋田藩主佐竹(13歳)当主の主張通りになったら、平沢の顔を見て松平定信は「いい気になるなよ」と言った。

平沢は言う。風刺本を出したい。幕府の失敗を遠回しに批判するような本を出したい。一緒にお咎めを受けるかもしれないが、やってくれないかと。蔦重は快諾した。今年の7月には間に合わないので、来年の1月に出すことになった。

天明8(1788)年1月、黄表紙『文武二道万石通(まんごくどおし)』を発売。耕書堂には行列が出来た。鎌倉時代、頼朝が行った文武に秀でた武士の振り分け話で今の公儀の批判をした内容だった。松平定信の改革で世の中は良くなったものの、田沼意次など「ぬらくら侍」が困っているという話。これまでにない大ヒットとなり、7月にはついに一万部を突破し、奉公人たちには金一封が配られた。

天明9年1月に蔦重が出した本のうち、黄表紙は多くが風刺本だった。よく売れたが、とくに恋川春町の『鸚鵡返文武二道(ぶんぶのふたみち)』が大いに注目を集めた。

1月25日、改元されて「寛政」へ。前年から浅間山の噴火が収まり、天候が回復してきたからだとの理由だった。

4月、黄表紙はすべて1万部を超える売上げとなった。

4月10日、書物の担当である北町奉行所から、同心の中島右門が来た。『鸚鵡返』を絶版にせよとの命だった。恋川春町こと倉橋格にも、近々呼び出しがあるだろうとのこと。

すぐに絶版にしたら版元の信用にもとると考え、まずは倉橋の意見を聞こうと小島藩屋敷に行くが、会えなかった。文を置いて帰ると返事が来て、全般の命に従ってくれとのことだった。数日後、倉橋は江戸城に呼び出されたが、病気を理由に断り、4月25日にあっさりと隠居した。

7月、新刊が並ぶなかに恋川春町の本がないのが寂しかった。そこへ、北尾政重と朋誠堂喜三二が訪ねてきた。暗い顔をしていた。恋川春町が死んだという。表向きは病死だが、切腹したのだろうと。そして、この件で平沢常富も佐竹藩主に呼ばれ、ことのいきさつを説明すると公儀の批判はならぬ、とお叱りを受けた。ただし、切腹は絶対にだめだとも言われた。もう筆を折るしかない。


第4章

朋誠堂喜三二と恋川春町の2人を失った蔦重は、山東京伝にもっと黄表紙を書いてくれと頼みに行く。京伝は最愛の花魁を身請けするお金を貯めていて、使い込まないように蔦重が預かっていた。既に110両たまり、あと90両となっている。書く量を増やしてくれたら、その90両を前払して、今年中に身請けできるようにすると提案。京伝は喜んだが、蔦重の求めるのは風刺本だろうと尻込みした。蔦重はそれを否定し、あんたの好きなように書いてくれと言うので、快諾した。

寛政元年中に身請けする話をつけ、京伝と菊園(お咲)は寛政2(1790)年2月に祝言をあげた。2年7月に黄表紙を3つ出すことが決まっているが、京伝は祝言から一月はうきうきで何もせず、3月半ばに筆を執り始めた。

同時に、歌麿の絵にも力を入れる。美人画の背景を敢えて描かないと歌麿がいうので、白雲母で塗ってきらきらさせるアイデアをひらめいた。それを十枚一組にして『婦女人相十品(ふじょにんそうじっぽん)』と題して売る。

寛政2年5月半ば、大田南畝から新たな出版取締令の情報がもたらされた。今度は風刺本に対してではなく、「好色本ハ此ヲ禁ズ」。洒落本のことだった。ただし、町人が書いたものであれば、改所をちゃんと通過してさえしていればお咎めはないはずだと南畝。7月に京伝の黄表紙3編を刊行。問題がおきそうな内容ではなかったが、当代一の売れっ子京伝の作品にしてはいささか物足らない売れ行きだった。蔦重は洒落本も一つ二つ出したが、御法度になるようなことはなかった。

京伝の『玉磨青砥銭(たまみがくあおとがぜに)』は物足らない売れ行きだった。松平定信を肯んずる内容だったため、町衆受けするものではなかった。そのため、蔦重は洒落本を書いてくれと頼みにいく。京伝は御法度になるからと尻込みしたが、今回、蔦重が出した洒落本は問題ないと説得した。

寛政3年1月、京伝の洒落本3作を同時刊行。『錦之裏』『娼妓絹籭(きぬぶるい)』『仕懸文庫』。2月には重版の売れ行き。特に錦之裏。

ところが3月、北町奉行所の中島右門が来て御法度に引っかかったと言う。お白州での取り調べに際し、蔦重は京伝をかばい、お咎めは自分一人にと訴え、改所を通った本であり、洒落本と好色本は違うなど、必死に論を張ったが京伝を守り切れなかった。京伝は手鎖50日、蔦重は身代半分召し上げと噂されたが、鱗形屋と同じで過料20貫文の裁きを受けた。それっぽっちかと周りは言うが、重三郎は危機感を持っていた。鱗形屋はそれで世間からそっぽを向かれてしまったのだから。重三郎は吉原の店を閉めることを決意。お甲の心配や忠告を聞かなかったことに原因がある、一緒に住む必要性を感じたのだった

寛政3年6月終わり、歌麿の美人画が仕上がってきた。最初に受け取った「煙草を吸う女」はじめ、いい仕上がりだった。歌麿が編み出したこの画報を「大首絵」と蔦重は名付けた。「ポッピンを吹く女」は2枚目。7月、絵は爆発的に売れた。

寛政4年3月、前年の黄表紙『人間一生胸算用』の売れ行きが芳しくないことを告げるため、蔦重は京伝を訪ねた。筆禍以来、京伝も鈍ってしまったのだった。ここまで書いて大丈夫かと尻込みしてないか?と。京伝は辛い50日間を思い出し、二度とあんなことはしたくないと言う。その時、京伝の弟子になりたいという武士、滝沢七郎、興邦(おきくに)と出会う。暫くは京伝が筋書きを考え、滝沢が仕上げるという方法でやりたいと提案、かつ、蔦屋で雇ってもらう、と。かくして、瑣吉の名で手代として働きつつ戯作の勉強をする武士となった。滝沢の態度は尊大だった。

7月、歌麿の『婦人人相学十躰』を出してまた大当たり。

12月には、美人画の大家、勝川春章が67歳で死んだ。

寛政5年正月、瑣吉が客と喧嘩さわぎ。相変わらず尊大。1月ほど後、彼を連れて京伝宅へ。最近は京伝が筋を考え、滝沢が大作するものがいい出来になっている。京伝は、そろそろ滝沢の本を出させてやってくれというが、蔦重は渋る。それは京伝が以前のようにちゃんと書けるようになってから。今、蔦屋から滝沢の作品を出したら、京伝と区別がつかなくなり、京伝が別名で出していると思われる。それにしてもあの尊大な態度を改める方法はなにかないか、と重三郎は京伝に相談する。荒療治になるけど、ひとつあるという。九段の履物屋・伊勢屋の娘、百が婿を取っていたが、それがおととし死んだ。三十を超えた大年増だが、滝沢をその婿にしたらどうだろうという。二七歳で独身の滝沢は嫌がったが、蔦屋の薄給よりも、履物屋の経営者として戯作の勉強をした方がいいと蔦重も勧める。

3月半ばに祝言が決まった。蔦重は滝沢に、五月半ばまでに話を一つ書いてくださいと注文した。出版は蔦屋ではまずいので、いいところから出せるように話をつける。伊勢屋という同じ名前の版元だった。

寛政5年7月、伊勢屋から売り出された曲亭馬琴『御茶漬十二因縁』は、3巻からなる黄表紙だった。

寛政5年晩秋9月、相変わらず歌麿の勢いは収まらない。一昨年7月『婦女人相十品』、昨年7月『婦女人相十躰』とも売れ続けている。しかし、大田南畝が新たな情報を持ってきた。美人画を好色本の一つだと位置づけて取り締まろうという動きだった。松平定信が7月にお役御免になって自由になると期待していたのに。

一月は動きがなかったが、南畝のような下級武士まで知っているぐらいだから話はだいぶ進んでいるのだろう。蔦重は京伝を守れなかったことや、こんどなにかあったら大勢の奉公人などに迷惑を掛けることになると考えた。通達が出る前に先手だと言わんばかりに、喜多川歌麿の家へと出かけ、役者絵を描いてくれと頼む。死んだ勝川春章も「自分の出る幕はもう終わった」とまで言い、歌麿を褒めていたと伝えた。歌麿は、春章の跡を継げと言われたら悪い気はしないが、美人画をやめるわけにはいかない、あんたは弱気すぎると突っぱねた。では、別の版元で描いてくれと言うと、あんたに恩義があるからあんたのところで描きたい。もう少しで絵でも西村屋を追い越せる、一緒にやりたいと言う。そう言われて蔦重は嬉しかったが、結局、袂を分かつことになった。

寛政6(1794)年1月、新刊はまずまずだが絵は大きく落ち込んだ。2月になると歌舞伎の芝居小屋回りを始めた。公認三座の本櫓である中村座、森田座、市村座は休場に追い込まれており、控櫓の都座、河原崎座、桐座で興行が行われていた。絵師たちは稽古を見ながら描いているので、そこで新たな絵師を発掘しようとした。河原崎座で異色の絵師を見かけたが、絵師ではなく阿波徳島藩お抱えの能役者、斎藤十郎兵衛だった。1年交代で演じていて、今は休みの年、絵が好きで描いている。蔦重はうちから出させてくれと交渉、最初は恋川春町のことを引き合いに武士身分でそれをするとまずいと尻込みしたが、役者絵なら心配ないと交渉、非番の1年だけという約束で成立した。身分も隠して、名前は東洲斎写楽とした。江戸っ子の彼が「洒落くせえ」という言葉を使ったことから、写楽。

寛政6年6月、写楽の絵が売り出された。三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛ほか、28作の大首絵がそろう。新刊は1月と7月発売だが、役者絵は7月の興行にあわせて6月に出す。ところが、売れなかった。役者絵は贔屓筋が一番よく買ってくれるが、役者は格好いいものとの感覚が強い。今回の絵は特徴を強調しているため、贔屓筋好みではなかった。先を行きすぎて、受け入れられるには時間がかかると思った。そこで第二弾として、総身の役者絵を描いて欲しいと頼んだ。

7月に興行を迎え、写楽の絵を派手に売り出したが、また売れなかった。他の絵師との違いがなくなってしまった。8月になり、今度は大首絵で顔の描き方を少々抑えめでいってくれと注文をつけた。

11月興行の際、三度目の正直に挑んだが、玄人筋を唸らせた凄みがすっかり抜け落ちていて、やはり売れない。正月興行にぶつけて新しい絵を出す計画も、1年の約束期間が間近で風前の灯火に。最後の絵を取りに行くが、抜け殻のようなものだった。写楽自身も分かっており、原因を言い始めた。実は重三郎と出会ったとき、自分のせいである人を自害に追い込んでいて、その悩みから逃げ出したい一心だった。歌舞伎を見ているときだけ忘れられ、気持ちを絵にぶつけていた。だから描けた。

重三郎は大いに反省した。写楽が最初に言った「私は絵師じゃない」という言葉を軽く考え過ぎていた。自分も来年は46歳、焼きが回ってきたか・・・帰り道、足がもつれて顔から倒れた。足が痺れて動かない。


終章

重三郎は脚気と医者から見立てられた。薬を飲み、青物を多く摂ったが、寛政9年5月を迎えたころには、病床に伏せるばかりとなっていた。5月5日、北尾重政と平沢常富が見舞いに来た。蔦重の実績を称える。戯作者では、恋川好町(春町の弟子)、山東京伝(北尾重政の弟子)。絵師では、勝川春朗(春章の弟子)・後の葛飾北斎、喜多川歌麿。曲亭馬琴、同じく耕書堂で手代しながら戯作者となった十返舎一九。

2人は、歌麿と決別した本当の理由を歌麿に言わなくていいのかと問うた。真相は、もし歌麿がこれ以上蔦重と仕事をすると、公儀から目を付けられている蔦重だけに、歌麿が狙われることになる。歌麿を守るために決別したのだった。

翌日の5月6日、番頭の勇助を呼び、蔦屋重三郎の二代目になってくれと頼む。そして、株を買ったと思ってお甲に500両やってくれ、とも。

お甲に、自分は今日の昼に死ぬと予想した。しかし、死ななかった。しかし、再び眠ると、もう目覚めなかった。48歳。

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2025年01月14日

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