あらすじ
「暴力反対」とはよく聞くけれど、じつは世の中は暴力にあふれている。国は警察という暴力装置を持っており、問答無用で私たちから徴税する(そして増税する)。資本主義は、私たちを搾取し、格差を生み出す。家父長制は男性優位・女性劣位のシステムをつくりあげる。一方で、こうした暴力に対抗して、民主化や差別の撤廃などを成し遂げてきたのも、また暴力である。世の中にあふれる暴力には、否定すべきものと、肯定せざるをえないものがあるのだ。思考停止の「暴力反対」から抜け出し、世界の思想・運動から倫理的な力のあり方を学ぶ。
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Posted by ブクログ
大変おもしろく読んだ。
端的に言って「否定すべき暴力と、肯定せざるを得ない暴力がある」というのが本書の主張である。
その通りだ。その通りであるのだが、ここには重要な前置きが必要である。それは主にヒエラルキーの話だ。ヒエラルキーの上からの暴力と、下からの暴力では、その意味合いはまったく異なる。
また、「国家対国家」というレイヤーにこの暴力論を当てはめるのも大変危険である。それはともすれば、軍拡競争につながるからだ。
著者の専門はアナキズム。そう言われれば、本書における暴力の目線がわかるだろう。権力への抵抗である。非暴力を貫いた先に民衆の破滅があるのなら、一時的に、限定的にでも暴力を扱う、あるいはちらつかせる必要に迫られる。それは本書で紹介されるアパルトヘイト撤廃への道のりの例が大変わかりやすい。
当初、マンデラたちは非暴力で訴えるが、どれだけ言っても抵抗しても何も変わらない。しかしその間も、人種差別という暴力がやむことはないのだ。ヒエラルキー上位からの暴力が常態化している。それを当たり前のことと強制される。ならばどうするか、非暴力を貫いて殺されるのか。そんなことはできない、びびらせてやるしかない。
翻って、現代日本で行われるデモは、権力者たちをびびらせられているのだろうか?と著者は疑問を抱く。実際、びびらせられてなんていないだろう。もちろん無意味とは言わないが、実効的とも言えない。
私たち民衆は、個人としては人に優しく非暴力的である方がよい、と個人的には思う。
しかし、ヒエラルキーとその上位者たちによる暴力(法律、警察、税金)を考えた時、優しく非暴力の態度だけでは足りない場合があるだろう。それは言ってしまえば「聞き分けのいい、都合のいい弱者」になりかねない。
難しい。
暴力の必要性はおおいに納得できたが、これにかこつけて、日本も核爆弾持つしかない、なんて意見を助長されたとしたら困る。当然本書の著者がそんなことを微塵も考えていないのはわかるが、「かこつける人たち」はきっといる。そこに対しては、毅然とした態度で向き合うしかない。難しい問題に対し、単純な解法を当てはめてはいけない。難しい問題を難しいままに扱うこと、個別の問題を個別のままに扱うこと、そういった面倒なやり方をするしかない。そこを横着してしまうと、悲惨な目に遭う。かといって放置しても、ヒエラルキー上位からの暴力は止まない。
本書の内容とはズレるが、権力者あるいはヒエラルキー上位の視点に立つなら、「ヒエラルキー下位のものたちに、暴力を受けていると認識させない」ことが重要になるだろう。当たり前なんだよと認識させる。それどころか、「私たちに非があるから」「弱肉強食だから」「効率的だから」、仕方ないよねと被差別者/社会的弱者たちが自発的に思ってしまうような社会構造を作ってしまえばいいのだ。
それが、今の日本である程度成功してしまっていることは、いうまでもない。