あらすじ
「子どもへのまなざし」の読者の方々からいただいた質問に対して、児童精神科の著者が臨床経験をふまえて答えていきます。乳幼児期の育児について、母性と父性について、障がいを持つ子をどう育てたらいいのか、あるいは、最近、幼稚園、保育園で目立ってきました注意欠陥多動性障がい(ADHD)の子どもたちを、どう理解したらいいのか、さらに、少年事件の背景にあるものを、どう考えたらいいのかなどをわかりやすく答えています。
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Posted by ブクログ
前半は前作『子どもへのまなざし』の読者からの質問のアンサー、後半は前作で語り切れなかった内容が新たに書かれています。
前作の内容を補うような内容が多く、育児に関してさらに考えを深めることが出来ました。特に第4章の障害を持つ子どもに関しては、障害児自身の苦悩と障害児を取り巻く育児環境の難しさを垣間見ることが出来て、自身の育児や身近な子ども達との関わり方に対する考え方に影響を受けました。
前作が良いと思った方は、今作もぜひお読みいただきたいと思います。
Posted by ブクログ
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親に十分に依存させた経験ほど子供の自立につながるらしい。
ああしてほしいこうしてほしいっていうのを叶えるのが大事らしい。
育児本、人間の基礎の部分て感じがして好きなんだよね
自称HSPとかふざけたやつが出てきてるのも、怒られなくなったことによる弊害だと思う。
健常児だけじゃなくて自閉症、ダウン症の子供のことも包括的に書かれててよかった。
育児本て子供が居ないから読む必要無いことは無いと思う。姪とか甥が居る人も多いし、友達の子供と関わることもあるし。育児本は人間の基礎であり、本質だから。仕事って基本的に人間同士の信頼関係で出来てるから人間というものを知るというのが最も大事だから育児書は仕事に役立つと思う。
佐々木 正美
1935年、群馬県生まれ。川崎医療福祉大学特任教授、ノースカロライナ大学医学部精神科非常勤教授。新潟大学医学部を卒業後、ブリティッシュ・コロンビア大学、小児療育相談センターなどをへて、現職。専門は児童青年精神医学
全部読み終わって、思わず涙がでてしまいました。安心感というか、ただ手さぐりで夢中になって子育てしている自分に不安でしょうがなかったときだけに、本当に本当に道案内をしてくださったような気がします。ありがとうございました。いま、主人が会社にいく電車のなかでこの本を読んでいます。(七歳と四歳の子の母親)
山脇百合子さんのすてきな挿絵とともに、最後まで心にしみこませながら読みました。わかりやすくて「そういうことなのか」と、すぐに理解できるようなエピソードがたくさん折りこまれており、それでいて、まったく押しつけがましくなく、本当にすばらしい本に出合えたと思っています。(幼稚園教諭)
すこし前に、ニューズウィーク日本版に「0歳からの教育&4歳からの学習」という特集があり、そのなかにこんな内容の記事がありました。マイアミ大学皮膚接触研究所のT・フィールド所長は、スキンシップの効果を力説して「毎日数分間のやさしいマッサージを受けた未熟児は、マッサージを受けなかった新生児と比べて、毎日四七%も多い体重の増加がみられ、退院時期が平均で六日間も早まる」といっています。このスキンシップの研究は、アメリカでもまだ基礎研究の段階であり、いろいろな評価があるようですが、それでも新生児専用の集中治療施設では、スキンシップの療法を採用するところがふえているそうです。
私は義理の父がああいう時代に、どうして信念をまげることなく、生きぬいてこられたのかとよく考えます。いつまでも、おっぱいを飲んでいたということばかりではありませんが、幼いときに、父には自分の意思や感情をそのまま受容して、育んでくれる人がたくさんいたのだと思います。ですから、自分の信念をしっかり持って、生きることができたのかもしれません。ようするに、子どもというのは、ありのまま受け入れられるという依存体験を十分すると、それだけしっかり自立していくものなんですね。そして、この依存と自立というのは正比例するんです。依存の体験が豊かなほど、自立もしっかりするわけです。私には、義理の父がそういう生きた実例のように思えるのです。
そのように、親に十分に依存できた子どもは、それぞれしっかりと、それなりに自立していきます。早くから自分の目標を自分で考えますし、目標が高すぎて自分では無理だと思うと修正するものです。いろいろなことを自分でどんどんやっていきますし、親からみるとさびしくなるぐらい、しっかりと早く自立していきます。ですから、「おっぱいを早くやめさせよう」とか、「これは早くできるようにさせよう」とか、そんなことを考える必要はないと思っております。
つぎに子どもの望んだことを、どこまで満たしてあげればいいのかということがありますね。基本的にいえば、子どもが「もういい」というまでしてあげるのが一番いいですね。そうすれば子どもたちは安心して、しっかりと自立していきます。「もういい」というまでしてあげれば、一番いい自律や自立をするんです。 これは国と国との関係を考えるとわかりやすいですね。先進国が発展途上国に対して、相手の望むように援助をしていれば、どんどん自立していくものなんです。ところが、先進国の思い通りに援助しようとしたり、干渉したりすればするほど、発展途上国は自立できなくなってしまいます。実際、発展途上国はそのような状況になっているのではないでしょうか。
子どものこういう気持ちをわかってあげて、望んだことを望んだ通りに満たしてあげればいいんですよ。子どもがそれによって依頼心が強くなり、自律心がそこなわれるということはありません。かえって、子どもは自律的になるんです、いい子になるんです。聞き分けがよくなるし、しっかりしていくんですよ。
一方で、私はこういうふうにも思いました。「もの」以外での要求をたくさん満たしてあげていれば、それだけ子どもは「もの」を要求しないものだと。これは決定的なことのように思えました。子どもに「もの」以外の要求で、どんなことを満たしてあげるのかということは、私があれだとか、これだとかいうべき問題ではありませんが、ようするにお金ではなく、心や手をかけるということです。そのやり方は、それぞれの家庭でいろいろあると思います。
子どもの要求に、そういうふうにこたえてあげるときに、親が自分の手づくりでこたえればこたえるほど、他でつくられた「もの」を要求しないものだと思いました。手づくりでというか、気持ちでというか、自分の心や体や時間でといってもいいですね。それから、親が自分の心や体や時間で、子どもの要求に直接こたえてあげられないときほど、他でつくられた「もの」を、子どもは要求してくるように思いました。 私はこういう職業をしていますので、自分の子育てを、やや実験的な気持ちもこめて、夫婦で協力してやってみました。ですから、子どもが「もの」を要求するということは、もしかすると、両親が自分の手づくりで、子どもの望んでいるものにこたえるこたえ方が、不足しているのではないかと思いました。私は子どもたちが育ちざかりのころには、休日であれば、ほとんど子どもの要求にこたえていたと思います。トランプをしようとか、キャッチボールをしようとか、釣り堀にいこうとか、たいてい、その要求にはこたえてやっていました。
先生は本のなかで「しつけはくり返し教えること、そして待つこと」と、書いていらっしゃいます。子どもの育児には待つという姿勢が大切なのに、自分がまったくできないということに気づき、育児のむずかしさを実感しました。お伺いしたいのですが、最近、息子がまつげを引っ張っているのですが、私が「早くしなさい」としかったりしているために、子どものストレスになっているのでしょうか。
しつけを考える場合、「これはやっちゃいけないんだよ」「こういうときは、こうしなければいけないんだよ」などと、いわば社会のルールや文化を、子どもに教え伝えるところまでがしつけだと思います。そして、子どもが納得してできるようになるまで、待っていてあげるのがいいしつけで、そのことが本当に教えたことになるんですね。 ところが、親が待てないで、今すぐに、強制的にでもやらせるということは、子どもの自尊心を傷つけながら、しつけをするということになってしまいます。ですから、そういうやり方では強制的なしつけによって、子どもをしたがわせることができても、いずれ、どこかで反撃にあいますよ。 その場ではうまくしつけたようにみえても、結局は、長い目でみるとマイナス部分のほうが大きいと思います。子どもに対しては「こういうことはしちゃいけないんだよ」「こうしなければいけないんだよ」ということを、くり返しくり返し、根気よく伝えてあげるだけでいいと思うのです。
二歳のお子さんがまつげを引っ張るという質問ですが、たぶん、子どもに大きな欲求不満やストレスがあるのではないでしょうか。お母さんにしかられるから、そういうことをするのかどうかは、単純にはいえないかもしれませんが、子どもが望んだことが満たされていない場合、それが欲求不満となって、そういう行動を示すということは、しばしばあると思います。もしかすると、これからもまつげやまゆげ、あるいは毛髪をつぎつぎ引きぬいていくかもしれませんね。
私が臨床の場で出会った、毛をぬいてしまうという中学生や高校生は、たいてい、親の過剰な期待に苦しんでいました。しかし、幼い子どもの場合は、親の過剰な干渉や期待というよりも、子どもの望んでいることが、十分に満たしてもらっていないということが、多いのではないでしょうか。
ところが、親のほうがあやまるのがいやだからといって、子どもに不始末をさせないように、子どもの行動をおさえこんでしまうことは、むしろ、子どもをだめにしてしまうと思います。私の経験では、育児がうまくいかない人というのは、たいてい、「自分はとても不幸だ」「自分はこれ以上不幸を背負えない」「もっと幸せにならなくてはいやだ」と思っているのではないでしょうか。ようするに、親が自分自身の希望のほうを大切にして、しかも、自分の欲求のほうが、子どもの望んでいることよりも大きいという場合が多いと思います。ですから、子どもを自分の思い通りにしようと思ってしまうのでしょうね。
子どもたちのなかに、人に感謝する、人を尊敬するという感情を育てるには、まず、私たちおとなが日ごろから、そういう感情を持つように努力することが必要なことですね。そういう感謝とか尊敬という気持ちや感情は、困った人や弱い立場にある人に出会ったとき、相手の気持ちになれる、思いやれるということと、いわば表裏一体になったものなんです。ですから、ある人に出会ったときに、羨望する、嫉妬をするよりは、その人に感謝できたり、尊敬できるというのは、とても幸せなことだという気持ちを、みなさんにも、ぜひ持っていただきたいと思っております。
わかりやすい例でお話しますが、たとえば、英国には王室があり、わが国には皇室がありますね。王室のなかの子どもたちといいましょうか、王室の人たちはあまり他の人と育ち合ってこなかったと思います。 人が育つという場合に、なにが育たなければいけないのかといいますと、社会人として健全に生きていくための、社会的人格が育たなければいけないのです。そして、その社会的人格はだれかによって教えられるものではなく、だれか他の人と一緒に育ち合っていくなかで、つくりあげていくものです。だから、そのような環境で育てられないとだめなんですね。
王室の人たちは、ごちそうを食べていますから体は大きくなりますし、教育もしっかり受けていますので知識も豊かだと思います。ところが、わりあい閉じられた環境で育てられてきましたから、王室のなかだけでなら、しっかりと生活をできる人にはなります。けれども、社会的人格は本当には育ってないと思いますね。 近年、英国の王室の人たちは社会に開かれた王室にしようとしました。ところが、社会人として育ち合うような環境で育ってこなかった人たちを、社会に開かれた環境のなかにおきましたら、いろいろと問題がでてきましたね。たとえば、エリザベス女王以後の王室の人で、結婚生活を継続できた人はいないのです。エリザベス女王は開かれたところにいらっしゃらない、だから、育てられた環境のなかに、そのままいればよかったわけです。チャールズ皇太子とダイアナ元妃の離婚もそうですが、他の人と育ち合うということがなく育った人が、本当の意味で社会的に開かれた環境におかれたら、どうなるかわからないということだと思います。育ち合ってこなければ、人間は人間社会で自律して生きていけないということを、私たちは知らなければいけないと思います。
たとえば、自分の毛を引きぬいてしまうという子どもたちに、小さい子どもばかりでなく中学生や高校生にも、私は臨床の場で何人も出会ってきました。頭髪のほとんどすべて、つるつるになるまで引きぬいてしまった少女もいました。彼ら、彼女らは、たいてい親の過剰な期待に苦しんでいました。ですから、過剰期待がなぜいけないのか、子どもにとって最悪なのかということを、みなさんにも考えていただきたいと思うのです。
欲求不満があるというと、否定的に受け取られがちですが、一方で、人間というのは微妙でして、欲求不満があるから向上心がでるという側面もあるんですね。こういう側面もあることを知っておくことは、とても大事なことだと思いますので、前にもお話をしたかもしれませんが、もう一度お話をいたします。 人間は一つの欲求が満たされると、かならずつぎの欲求を目指すものです、それが努力です、努力の原動力なんです。ですから、人間の向上心とか努力の背景には、欲求不満と紙一重の感情があるのです、あるいは、欲求不満とほとんど区別のつかない感情があるんですね。自分はもうこれでいいんだと思ったら、人間はそれ以上の努力はしないものですね。
自分はだれとも合わないんだということがあったら、それこそ問題だと思いますね。これは現代人の孤独、孤立からくる一つの不安だと思うのです。人間というのは孤独、孤立になったら、だれもが健全でいられないということを、よく知っていたほうがいいと思います。どうも人間というのは、孤独、孤立になればなるほど、自己愛的になっていくものなんです。自己愛的になるということは、自分自身のことが大切ですから、自分が望むようにまわりの人を操作しようとします。そして、そういう人は人間関係をつくりにくいし、友人を持ちにくいものです。さらに、自分で人間関係が苦手だと、直感的に思いこんでしまいますから、人とのつきあいをしようとしません。その結果、一番つきあいやすい自分の子どもに対してさえ、自己愛を投影してしまうのですね。
母性的なものの発達という研究がありますが、その研究によりますと、お母さん自身の生育歴が大切だそうです。それから、夫婦関係や親子関係もとても大切なことです。親が子どもを虐待してしまう場合は、たいてい夫婦は仲がわるいようです。夫婦仲がわるければ、かならず虐待するという意味ではないのですが、夫婦仲がいいのに虐待してしまうということは、まずないのです。そして、母性的機能を発揮するためには、夫婦仲がいいほうがいいんですね。母性的機能や父性的機能がうまく働くには、自分の親との関係、自分自身の生い立ち、そして夫婦関係などが、みんな関係していることは事実なんです。
人間というのは、だれにも長所があり短所があります。長所のない人なんかいないわけです。けれども、人の持っているいい面とわるい面のうち、私たちはわるい面のほう、いやな面のほうを感じやすくなっているのも事実ですね。
では、どうしてお母さんは子どもの欲求を、ありのままに受け入れることができなくなってしまったのでしょうか。それは日ごろから、お母さん自身が自分の欲求をいろいろな人に、受け入れられていないということなんです。自分の欲求を夫に受け入れられている、近所の人とか友人とか保育者とか職場の同僚とか、いろいろな人にたくさん受け入れられていれば育児不安もなくなりますし、まわりの人から愛されているという気持ちを持つことができます。
お母さんが自分の欲求を子どもにむけるのではなくて、子どもの欲求を受け入れてあげるようになるためには、お母さんの欲求をだれか他の人に、たくさん受け入れてもらわなければいけないのです。本当は、お母さんが自分の自漫話とか、愚痴とか、その他のささいなことでも、安心して話せる人を持てば、問題の多くは解決すると思いますね。
まず、子どもを十分に受け入れてあげる、子どもの望んだことを望んだ通りに与えるという、母性的なものを子どもに満たしてあげたうえで、こういうことはやってはいけないという父性的ものを教えていけば、子どもはうまく育っていくものです。
ところが、両親二人そろっていても、子どもが健全に育たない家庭もたくさんありますね。それは、どういうものが母性的なものであり、父性的なものなのかということを、両親が十分に理解していないからだと思います。それから、どういう順序でそれらを、子どもに伝えていけばいいのかということが、わかっていないからだと思います。
もちろん、育児の中心的存在は母親ですが、子どもが四、五歳になったら親だけに育てられていてはだめだと思います。子どもはたくさんの人のなかで、いろいろな人間関係を経験することで、共感性や自主性が養われていくものなんです。そういう過程を通して、子どもは友達や仲間を求めていくものだと思います。
いろいろな事情で、片親で子どもを育てる場合、個人的な感想としては、父子家庭は母子家庭より、はるかにむずかしいのは事実だと思います。一般論としていわせていただければ、母親は家庭のやすらぎや、くつろぎをつくる中心であり、父親は社会性のモデルとして位置づけられています。家庭のなかで子どもを育てる場合には、母性的なものと、父性的なものが必要と前にもお話しましたが、この二つの機能を子どもに伝えていくためには順序があるのです。
妊娠、出産、授乳といった一連の行為は女性(母親)にしかできないことですし、だれかが代わってやることのできないものです。この過程のなかでは、家庭のやすらぎをつくる主役は母親であり、そのほうが子どもの精神衛生にとっても安定感を与えると思います。こういう母性的なものが、十分に子どもに働いたうえに、社会の一員として生きていくときに不可欠なことを、教え、伝えていくのが父性的なものだと思うのです。 子どもの年齢が低ければ低いほど、つまり、乳児期から幼児期の初期にかけては、家庭という場にあって、主役を演じるのは母親がむいていると思いますね。直接的に子どもに接するのは母親であり、それに対して、父親は育児という舞台で、母親という主役を引き立てる助演の役目なのです。このような主演と助演の役割の分担が大切なんだと思います。それは、どちらのほうが価値があるというのではなく、同等な価値があると思うのです。あくまでも、いい意味での役割分担であると考えるべきではないでしょうか。
つぎに、おじいちゃんが孫になんでも買ってしまうという質問があります。こういうことも、それほど心配することはないんですよ。祖父母が孫に、おもちゃを買い与えてばかりで困るというときに、親は自分が育児の主役だという気持ちをしっかりと持って、祖父母にちゃんといえばいいのです。たとえば、「孫が欲しがっていないものまで買ってきても、おもちゃ箱をいっぱいにするだけですよ」と、これだけを祖父母にいってあげたらいいのです。
孤独や孤立の裏側は自分勝手さでしょう。人間というのは、孤独になればなるほど人を信じる力が弱くなり、自分勝手で自己中心的になっていくものです。自己中心さが、じつは孤独さのあらわれだと思います。自己中心的な人には相手が寄ってきませんし、自分のほうも、人と交際する力が弱くなっていると思いますね。 けれども、人間の幸福というのは、人を信じる力がある、あるいは信じられる人を持っていることだと思います。本当はこれなしでは、人間は健全には生きられないのではないでしょうか。だけど、そういう人はそれを、自分を大切にして生きているとか、自分は個性的な生き方をしているとか、思っているのでしょうね。
以前に、NHKのETV特集で拒食症の女の子が、「信じられるのは自分だけだ」ということをいっているのをみましたが、そのなかで、拒食症の子の母親も「信じられるのは自分だけだ」と、口ぐせのようにいっているんですね。けれども、自分だけしか信じられないということは、本当は自分のことも信じられないということなんです。ようするに、だれも信じられないということですね。それは究極のところは、自分も信じていないということなんです。 だれも信じられないということは、自分を信じてくれる人がいなかった、自分を愛してくれる人がいなかったということなんです。ですから、そういう人たちは、自分自身が人を愛する力が弱いということをわかりたくないために、自己愛的に生きようとしてしまうのでしょうね。
だれにでもある、母性的なものと父性的なもの
私は母性と父性という言葉で代表される子どもを育てる機能は、それぞれとても大切なことだと思っています。けれども、母性と父性、あるいは母性的なものと父性的なもの、こういってもいいと思いますが、母性はお母さんだけが持っているもので、父性はお父さんだけが持っているものという考え方は、間違いだと思うのです。
なぜかといいますと、本来、母性的なものと父性的なものは、人間にはだれの気持ちのなかにもあるものなんです。女性のなかに母性的なものは豊かにありますし、父性的なものもあるのです。男性のなかにも母性的なものもあるし、父性的なものもあるのです。
親ならその両方を持っているわけですから、母子家庭であっても父子家庭であっても、子どもをきちんと、バランスよく育てるということはできることだと思います。一方で、たとえ両親がそろっていても、母性的なものも父性的なものも、きわめて不十分な家庭もいっぱいあると思うのです。年々、そういう家庭が多くなってきたと思いますね。
そして、このごろでは、母性とか父性という表現を、つかわないようにする風潮があるようです。母性とか父性という表現をやめて、親性とか両親性という言い方をしようという傾向がありますね。そういう風潮は、父性的な役割より母性的な役割のほうが大変なことであり、しかも、育児の役割を女性にたくさん負わせ、それが女性に重くのしかかるのは、不公平じゃないかという考えからでてきたのだと思います。
けれども、どういう言葉をつかっても、私は従来から母性的なものとか、父性的なものといわれていたことを、しっかりと機能させながら育児をすることの大切さは、なにも変わっていないと思っています。
私はそういう風潮にはなじめないし、むしろ今こそ、母性とか、父性の本来的な役割を考える必要があると思っているのです。そして単純に、母性的なものはお母さんが、父性的なものはお父さんが負うべきだということをいっているのではなく、まず、もう一度、家庭における母性や父性の意味について、しっかりと考える必要があるのではないかと思っているのです。
子どもが育っていくときには、まず第一に、母性的なものが家庭のなかに必要だと思うのです。たとえば、こういうことではないでしょうか。両親が「おまえのこういうところがいいね。お母さんもお父さんも、そう思っているよ」というようなことを、子どもに対して感じることなんです。口で表現するのもいいですが、本当に、両親が日々の生活のなかで、子どものことを心から、条件なしに好きになってあげることです。そうすれば、子どもに「お母さん、お父さんが、僕のこと、私のことをこう思ってくれている」と、ちゃんと伝わりますよ。そのことは、子どもに絶対伝わりますから。
そして子どもは、親がそう思ってくれたというだけで、生き生きと輝くのです。子どもにとっては、自分のいいところを感じてくれる人の隣にいることが、なんともいえないやすらぎであり、くつろぎなんです。親や家族がそうすることによって、子どもたちは自信を持っていくのです。そういうことができるのが母性的な機能なんですね。
みなさんも自分の家庭に帰るとほっとするでしょうし、多くの家庭にも、そういうほっとする雰囲気はあるんです。たぶん、家庭に大きなくつろぎや、やすらぎの雰囲気があればあるほど、多くの人はまっすぐに家へ帰ると思うのです。ところが、仕事が終わっても寄り道しないと家に帰れない人が、ビジネスマンのなかにはいますね。家に帰ってもほっとできない人ほど、寄り道をするのではないでしょうか。
それは家庭以上に、ほっとする場所が他にあるからですね。寄り道する人がみんな、家庭ではほっとできない、そんなことをいっているわけじゃありませんよ。けれども、家に帰ればほっとできる、くつろげる、やすらげるというものを、家庭のなかにつくりだしているのが母性的な機能なんです。それはお母さんが一人で負うということではないかもしれませんが、母性的な機能がつくりだすくつろぎや、やすらぎは、家庭のなかになくてはならないものだと思いますね。
わが家では私の家内が一人で、その役割を負っていますし、それを他の家族が享受していると思います。そのことを私の家内は不都合には思っていないでしょうね。それが自分の大きな役割であり、誇りにも自信にも思っています。喜んでそういう役割を負っていると思いますから、それでいいと私は思っています。
家族にとっては、家へ帰ることが大きなくつろぎであり、やすらぎであり、なぐさめであり、休息なんです。家でほっとできるということは、外では許されないことが、家に帰れば許されるということですし、外ではなかなか得られないものが、家では得られるということなんです。こういう雰囲気を家庭のなかにつくるのは、やはり母性的なものなんです。
一方、父性的なものの役割はどういうものかといいますと、人はどう生きるべきか、どんな価値観を持って、どんな理想を持って生きるべきかを、伝えていくことにあると思います。人間が社会生活、共同生活をするうえでは、どんな規則があるのか、そしてそれを破ったときは、どんな責任を負わなければいけないのか、ときには罰せられるということを、しっかり伝える役割が父性的な機能だと私は思います。こういうもののバランスのうえに、人は社会人としての人格をつくっていくものだと思います。
たとえば、こういうことを考えていただくと、わかりやすいと思うのです。社会のなかでルール違反をしている若者たちや、おとながたくさんいますね。現代社会でのルール違反の最たるもの、むしろ、犯罪といってもいいと思いますが、缶ジュースのなかに毒をいれて、おもしろがっているような人がいます。おもしろがっているかどうかわかりませんが、あんなことをしないでいられない人がいるわけです。 これは基本的にいえば、父性的なものが、その人のなかに伝わっていないということです。社会人としてやってはいけないことが自覚できない、それ以上に、犯罪行為をしてしまっている。そういう人は、そんなことがいかにわるいことか、重々承知してやっているわけです。けれども、しないでいられないのです。
母性を基礎にして、その上に父性が伝わるから、ゲイカップルが子を持つ方が批判が多いんだろうね。代理出産の件もあるだろうけど。
「あっ、そうか、わかった」「とんでもないことをやってしまった、明日からやめよう」なんて思う人は、はじめからやらないわけです。そういうことはいくらいっても伝わらないのです。そして、その人が捕まってから生い立ちをみると、おそらく、その人のなかには母性的なものが欠落していると思いますね。子どものときに母性的なものが、ちゃんと与えられないまま、おとなになってしまったのです。くつろぎや、やすらぎが十分に与えられるような家庭で、育ってこなかったのだと思いますね。ですから、母性的なものが十分機能していない人格のなかには、父性的なものが入りこむ余地がないわけです。
さらにこういう事件が、この何年かの間にありました。いつでしたか、横須賀で毎日新聞の記者が深夜の帰宅途中に、駅前で暴走族が信号を無視して走っていくのをみて、それを大声でとがめた。そうしたら彼らはUターンしてきて、その記者を殴り殺してしまったという事件がありました。 同じようなことで、所沢で、ある不動産会社の社長さんが、深夜に何人もの人と列をつくってタクシーを待っていた。そこへ若者のグループで割りこんできたので、それをとがめたら、若者たちがみんなで、その不動産会社の社長さんを殴る、蹴るをして殺してしまったという事件もありました。まだご記憶があることでしょう。 そういうときに「そんなことをしてはいけない」と注意する。これは父性的なしつけであり、教育です。だけど、彼らは母性的なものが十分与えられていないまま、育ってしまったわけです。私たちが、彼らはもう二〇歳近くになっているのだから、これぐらいのことはわかるはずと思って注意しても、母性的なものが十分与えられていない若者たちに、父性的なもので注意してもだめなのです。
いずれにしても、保育者のみなさんは、まず母性的なものを、子どもたちに豊かに与えてください。そうでなければ、その子の生涯は、いつも申しますように、幼児期は建築物の基礎工事ですから、基礎工事をあいまいなまま、建物を建てられてしまって、社会にでていかなくてはならないということになってしまいます。 そうしたら、そういう子どもは大きくなって、どんなあやふやな人生を送ることか、あるいは、非社会的、反社会的な行動をとってしまうかもしれません。ですから、みなさんが、その子のなかにある、特別なよさをみつけてあげる、気づいてあげる、そして、子ども自身にそれを気づかせてあげることだと思うのです。
不健康な家族に共通していることは、お父さんとお母さんの役割が、はっきりと分かれていなかったということです。そして、お父さんとお母さんの役割が、明らかに区別されている家族のほうが健康だったそうです。どうして、そういう特徴があらわれたかについては、一切なにもいっておりません。調査研究の結果、こういう事実がでましたということだけをいっているんですね。
不健康な家族の場合は、家族のメンバー全体が平等だという家庭が多いようでした。物事を決めるときに、だれかがイニシアチブを取るのではなくて、くじ引きで決めるとかいうような家庭です。そういう家庭では、イニシアチブの序列がきわめてあいまいで、そのときそのときで、父親が有利になったり、母親のほうが有利になったり、あるいは、子どもがイニシアチブを取ったりしています。家族それぞれで意見が分かれたときなどは、親と子が自分の意見を通すために、あっちに味方したり、こっちについたり、家族内での連合がころころ変わるというのです。まるで、弱小政党を引きこんだ不安定政権のようなもので、家族内でイニシアチブのうばい合いが起きるそうです。
私も東京都と神奈川県の五つの養護施設で、嘱託医や相談員をしてきました。そこでの経験でいいますと、乳児院から養護施設というように、そういうところでずっと育ってきた人たちは、しばしば社会的適応が困難なパーソナリティをつくるということがあるようです。いろいろな研究報告をみましても、日本だけでなく世界の国々でも、社会性が育たないままに、おとなになってしまう人が多いようです。 乳児院や養護施設で育った人が、すべてそうなるといっているわけではなく、本当の親でない人が、子どもを長い期間育てていくことのむずかしさをいっているのです。私たちが考えなくてはいけないことは、どういう点に、どういう配慮をすれば、問題を軽くすることができるかということなんです。 家庭の雰囲気に近づけることが大切だと、私たちは簡単にいいますが、ではどうすれば、家庭の雰囲気に近づけることができるのでしょうか。たとえば、誕生日のお祝いをするとか、小グループで遊園地にいくということも、それはそれで価値があります。けれども、それよりはるかに大事なことは、子ども一人ひとりに対する「えこひいき」だと思うのです。あるいは、無条件の愛情といいましょうか、それに近いことを本当の親でない人が、どれぐらい子どもたちにしてあげられるか、ということではないでしょうか。
他人との関係をつくれないという現代の若者を取り上げた、「傷つくのがこわい」という見出しの記事が、何回か新聞にでていました。彼らは友人であっても、敬語をつかってぶつかり合いを避け、相手の心にはふみこもうとしません。他の人とのつきあいを深めようとしないのは、自分が傷つくことをおそれているのだと思います。そして、現代の社会では、このようなことは若者だけではないのでしょう。
かつての子どもたちには、ある種のたくましさというか、鈍感さというか、傷つきにくさというか、そういうものがありました。親やおとなや先生に、みんながしかられていましたから、きっと平気だったのでしょうね。みんなで赤信号の横断歩道を渡っているようなものです。今日、自分がしかられていても、明日は他の仲間もそうなるだろうという気持ちを持っていましたから、しかられることで傷ついてしまう子どもなんていなかったと思います。しかし、現代の子どもが、私たちのころのようにされたら、おそらく、翌日から学校へいけなくなってしまうでしょうね。
このように、ちょっとしたことに対しても、知らず知らずのうちに、今の子どもたちは傷つきやすくなりましたし、親も傷つきやすくなったのでしょう。ようするに、子どもも親も、一人ひとりが孤独になり、ばらばらになって孤立してしまったために、傷つきやすくなったということです。どっちがいいとか、わるいとか、あるいは昔の鈍感さが文化として劣っていたとか、現代の過敏さが文化としてすぐれているなどと、申し上げているのではありません。けれども、今の時代はそうなっているということを、みなさんにわかっていただきたいと思います。
ですから、私たちのころの子どもたちは、親やおとなに怒られても、その心の傷をいやす方法を知っていましたし、仲間と一緒にいることによっていやされていたのです。私も首にかけられた黒板がはずされた瞬間に、もう仲間と遊んでいましたし、家に帰っても「今日、先生に頭を殴られちゃった」というようなことは、親にはいいませんでした。親にいえば、親からももう一つ殴られましたからね。そのころは、「おまえがわるいことをしたから、先生が殴ったにちがいない」という親がほとんどだったと思います。
彼らの不作法をその場で注意することは、いってみれば、人を信じられなくなっているだけでなく、自分自身も信じられない状態にある若者たちを、さらに傷つけてしまうことになるわけです。結果としては、その若者たちの傷をさらに大きくしてしまう事件を、起こさせてしまうことになってしまいます。
まわりの人を否定しているということは、自分自身も否定していることになるわけですから、破れかぶれな行動をすることになってしまいます。そして、自分の将来にも希望なんて持ってないんですから、ある意味では、今、自分の人生が終わってもいい、という気持ちになっているのでしょうね。
どうなってもいいという気持ちが、ひそんでいるということは、それは自己否定なんです。自己否定をしている人は、他の人のことなんて、もっと否定しているのです。ですから、そういう場面に出合ったとき、だれも注意しないことを無責任だなんて、私は思わないのです。たとえ注意しても、若者たちは聞き入れませんし、かえって若者たちに、もっと大きな事件を起こさせることになり、そのことによってさらに傷を大きくすることのほうが心配なんです。
ゲイカップルは子育てあきらめろみたいな意見に可哀想みたいな引用リプつけてたやついたけど、子供が可哀想は大人が可哀想を避けなければならないと思う。大人は自由だもん。自由な分逃げ場がある。子供が可哀想な選択をするやつは許さない。
いじめている子どもと、いじめられている子どもについて考えてみますと、そこには共通点があると思うのです。どういうことかといいますと、ある意味では、どちら側の子どもにも、人を信じる力と、人から信じられているという実感がとぼしいように思います。 信頼関係の豊かな子どもたちは、いじめる子の側、いじめられる子の側とは無関係な位置にいます。ですから、いじめ、いじめられの関係は、人間の本当の信頼関係がないところで生じるわけですね。結局のところは、自分は他の人を信じられる、それ以前に、どれぐらい自分は、他の人から信じられているかという安心感がない者同士が、いじめ、いじめられの関係になると思うのです。人を信じられる子どもは、いろいろな子どもと友達になれますから、いじめる子どもとは友達にならなくてもいいのです。いい友達関係をしっかり持っている子どもに、いじめにくる子はあまりいません。いい友達がたくさんいて孤立してない子どもは、横のつながりもありますから、いじめっ子がそう手はだせないのです。ちょっかいをだそうとしても、その子はすっと、友達のほうに寄っていってしまいます。ですから、いい友達を多く持っている子どもを、仲間から引っ張りだしてきて、いじめることはできないものです。
お母さんからいじめられないで愛されている子どもは、いじめられる側にも、いじめる側にもなりません。いじめられもしないのに、いじめることはあまりないですからね。まったくないんじゃないでしょうか。また、親が子どもを愛していると思っていても、じつは、いじめているということもあるんです、いっぱいあるんですね。そこのところをきちっとわかってもらわないと困るんです。とくに小さい子どもの場合には、それは大きくなるまで引きずってしまいますから。
私はふだん、朝日新聞が好きでよく読んでいます。しかし、いじめについての朝日の記事には、先生が頑張ればなんとかなるという発想があると思います。けれども、いじめを予防したり、なくすのに、本質的なところで効果的なのは、各家庭で親子関係をもっと大切にして、生きていく必要があるという読売の記事のほうだと思いました。一紙しか読まない人も多いのですから、本当は、こういう研究や調査の結果は、新聞社が両方の内容をバランスよく報道するのがいいと思うのです。
今の子どもたちは、どの子もいじめやその他さまざまなことがあって、友達との人間関係をつくるのが、かつての子どもよりは下手になったと思いますね。たとえば、クラスのなかで人間関係がこじれたとき、仲直りのしかたを知らないのです。あるいは、友達とちょっとした言い合いをした場合、もうそれだけで「教室にいきたくない」と、保健室にいく子どもも多くなったと思います。
また、幼児期から家族や親類の人や、近所の人たちとの人間関係の経験が、極端に減っている子どもたちも多くなっています。とくに、相手から無条件に近い状態で、受け入れられるという経験が不足しています。かつては、たとえ親から無条件で受け入れられ、愛されるということが少なくても、親以外の親類や地域のおとなたちから、そのような経験ができていたと思います。ですから、子どもたちは家庭や学校でくつろげなくても、地域社会のなかにくつろげる場を自然に持っていました。
彼らに不足しているものは「母なるもの」なんですね。子どもたちは小さいころから、「母なるもの」を必要なだけ与えられてこないと、自分に安心できなくなってしまうものです。ですから、大きくなってからの友達や他の人との関係は、もっと安心できないものに思えてしまうのです。その結果、学校の教室もくつろぎや、やすらぎの場ではなくなってしまうのです。たしかに、学校の教室なんて、とくに授業中の時間なんて、だれにとってもそんなに楽しい場ではなかったかもしれません。 だけど、私たちが社会人になっていくためには、たとえ苦痛の場であっても、まったくいかないでいいかというと、そうはいかないわけですね。学校へいかなければならないということを前提に、ものをいっているわけではありませんが、子どもが成長していく過程では、一方では集団のなかで育っていくことも必要なことだと思うのです。
私たちはともすると、他者と関係を持たないで生きようという傾向も、強くしてきたように思います。そういう生き方は、おとなたち一人ひとりにとっては、居心地のいいことかもしれません。だけど、子どもが育っていく場合には、それは子どもにとって、居心地がいいことにはならないでしょうね。おとながすこし身勝手なやり方で、気軽に生きようとしている環境では、家庭の内外を問わず、子どもにとっては、それはけっして居心地がいいものではないと思うのです。 私たちおとなが、そういう一見、気楽な生き方を何年も続けてきてしまった結果が、離婚の多さ、シングルマザーなどという現象ではないでしょうか。家庭内の問題としてあらわれている、不登校、家庭内暴力、児童虐待、若者の引きこもりなども、現在のそういう生き方を助長する文化が、持っている問題なのではないでしょうか。そのことがいいとかわるいとか、いっているわけではないのですが、そういう文化の風潮は、気楽な生き方であるようですが、じつは、おとなにも子どもにも、大きな不安をもたらしているように思います。
私は今、苦悩している少年や、若者たちにこういうことをいいたいと思っています。それは、自立的に生きるということは、自分だけでなにかができることではなく、人と協力してなにかができるようになることが、大切なことだということです。 人と協力してなにかができるようになったら、教室は楽しくなるし、放課後、仲間との時間も楽しくなります。人と協力してなにかができなかったら、教室にいくこともできません。寮にこもったり、自宅に引きこもってしまいます。あるいは、せいぜい保健室までしかいけないということになってしまいます。
入学したころは、幼児期のような情緒反応を示していた、さきほどの全寮制の高校の生徒たちも、三年間でそれぞれが、自律や自立の過程を歩みながら卒業していきます。けれども今、私のところには何人もの人から相談があるのです。「卒業したら、その後、また家からでられなくなりました。どうしたらいいんでしょうか」と。三日ほど前にあった電話の相談では、「家からやっとでていけるようになったけれど、酒場にしかでていけない」というものでした。 私にはその理由はよくわかります。酒場ならほろ酔いかげんでいられます。その人にとっては、お酒が鎮静剤なんですね。そして、こちらがお金を払ってお酒を飲むわけですから、酒場のママさんは無条件に受け入れてくれるわけです。それがなんともいえないくつろぎだと思うのです。しかも、「それも深夜にしかでていけない」というのです。それも非常によくわかります。深夜にしかいけないのは、いろいろな人に出会うのがこわいんですよ。それでも、家で閉じこもっているよりは、外にでかけるほうが、はるかに進歩ですから、親やまわりの人は、そのことをわかってあげていただきたいと思います。
現代はこんなに豊かで自由なのに、なぜこんなに、みんなの心が病んでいるのでしょうか。なぜこんなに、子どもがむずかしくなったのでしょうか。それは、みんなが自分のことしか大切にしなくなったからなのです。だれかを大切にして生きなかったら、私たちは結果として、自分も大切にできないんだということです。
近所で殺人事件が起きれば別ですけれど、みなさんは新聞とかテレビの報道によってしか、知ることができないわけですから、夫婦間、親子間、兄弟間の家庭のなかの暴力行為が、殺人にいたった例しか知らないと思います。家庭内の暴力によって、ほとんどの人が死にいたるわけではなく、ごくまれなケースだけが死にいたるのです。そのまれなケースが現代社会のなかで、どれだけ多いかということですね。ですから、家庭内暴力といっても、けがの段階のものを考えると、実際には何十倍、何百倍あると思うのです。おそらく、みなさんは、そういう事実をご存じないと思います。ところが、私たち精神医学の臨床医のところには、家庭内の暴力でけがをした人たちがいらっしゃいます。けがといっても、殺人事件にいたらなかったという意味で、けっして軽いものではありません。家庭内暴力が殺人事件にいたった場合には、事件を起こした人は警察にいきますから、私たちのところにはきません。私たちのところの相談や診療、治療にいらっしゃるのは、家庭内での暴力行為が継続している人たちです。どれぐらいかというと、みなさんが想像できないぐらい多いんですよ。かつては、夫婦の間で、兄弟の間で、親子の間で殺してしまうほどの暴力になるなんていうことは、ほとんど考えられなかったと思うのです。
たとえば、子どもにもいろいろな個性や体質があります。同じ光化学スモッグ、あるいは大気汚染のなかにいても、ぜんそくになる子とならない子がいるのです。その他いろいろな環境の変化のなかにいても、アレルギー性鼻炎、杉花粉症などになる人と、ならない人がいるのです。同じ環境に育っても、ある現象が強くでる人と、でない人がいるんですね。
私は臨床の場で、いろいろなむずかしい若者たちに会い続けています。どうしてこんな非行をするんだという若者たちに、しじゅう会っています。そこで思うことは、彼らに自尊の感情を育てなければいけないということです。自分を尊重するということは、他の人を尊重する力でもあります。本来、他者を尊重しない自尊心なんて絶対ないんですから。ルール違反をする人は自尊心がないということでしょうし、その前に、他者を尊重する感情が育っていないということです。こんな手順を、できるだけ小さいころに、子どもの育ちのなかにしっかり与えてあげれば、育てやすいし、あとのことは非常にやさしくなっていくものです。
不適応行動、異常行動とはこういうものですと、二五種類ぐらいの項目が書いてありました。たとえば、ささいなことで興奮する、人に暴力をふるう、そして、自分で自分を傷つけてしまう、あるいは、食べ物でないものを食べてしまう、器物を破損する、便をこねたりして遊んでしまうなどという行動です。子どもたちがどういう不適応行動、異常行動を持っているのか、そして、そういう行動を日常的にたくさん示す子どもは、どういうタイプの子どもに多いのか、調べるわけです。そのために、それぞれの施設で養育や療育上、職員がもっとも困難に思っている子どもを、五人ずつ報告してくださいという要請でした。
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子育てしている両親、祖父母、保育士さん、幼稚園の先生、全員におすすめしたい本。
子どもを幸せにするためには、どうしたらいいかヒントが沢山散りばめられている。
医学的に興味深い話も織り交ぜられており、最後まで楽しく読めました。
読んだ後は優しい気持ちになれます。
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子どもへのまなざしを読み勉強になり、こちらも読んでみた。この本もノウハウではなく、子供との接し方、考え方が書かれており勉強になりました。
以下、個人的に気になった点を記載。
・けんかの中で、攻撃性や征服欲が解放されるので、兄弟げんかなどは必要だと思ってもよい。けんかの回数を気にするより、けんかの後の2人の気持ちを大切にする。雰囲気作りをする。
・親の目を気にして、家でいい子にしている子は、幼稚園や小学校で問題を起こすことが多い。家で欠点や弱点をだせる環境を作ってあげることが大事。
・しつけで大事なのは、いい面に気付かせてあげること。短所は先送りでいい。
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佐々木正美さんの言葉はすべてを包み込みそのままで良しとするあたたかさに溢れている。どの著書を読んでみてもだ。中でもこの子どもへのまなざしは折に触れて読みたい1冊。何度も読んでエッセンスを取り入れたい。
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育児がうまくいかない。
すぐイライラして怒鳴り散らしてしまう。
怒りで身体中の血が煮え立ち、そのたぎったものをどこにぶつけたらいいかわからない。
ストレスに次ぐストレス。
半年以上トイレトレーニングをしても未だにウンチはうまくいかないし、人が嫌がることをわざとやるし、減らず口を叩くくせに気持ちをうまく言えなくて大泣きする。
こんな子、いらない。
でも......。私が悪いのかもしれない、どこかに障害があるのかもしれない。
わからないよ、助けてほしい。
そこで目に留まったのが、「第四章 障害を持つ子ども」。
もしかして、を考えて読んだ。
すると、こう言われたのだ。
「一番大切なことは、この子達に深い理解を示してあげるということだ」(362頁)
私はちゃんとできているだろうか。
悪い親だから、この子の未来を潰してしまっているんじゃないだろうか。
「欠点や短所ばかりを注意され続けることによって、子どもは自分自身を信じられなくなってしまいます。」
「子どもというのは、私のこと、僕のことを大好きだと言ってくれる人に、どれだけめぐまれるかということが、その子がどれくらい自信と誇りを持って、生きていくことができるかを決めることになるんだと思います」(134頁)
「「あなたには、こういうすてきなところがある」と本人に伝えてあげること」
「こういうことを十分しないうちは、子供の欠点や弱点を指摘しても通じない」(182頁)
もっと甘えさせてあげよう。
もうおしまい、と勝手に切り上げないで。
すると、本当に、子供は「もうおんぶ降りる」と言ってくるではないか。
それでもやはり毎朝、毎晩、抱っこ抱っこと大騒ぎしているけれど、やってあげるとそれはそれは満足そうにしているのだ。
本書に書かれた内容に、一から十まで全てが正しいとは思えない(一箇所同意しかねる部分があった)。
でも、通して子どもへの愛と、親、とりわけ母親に対する愛情が深く感じられた。
今日よりも明日、それが希望になるし、子供は望んだことを満たしてあげればちゃんと自立できる。
この二つの言葉が本当に助けになった。
下手な育児をしているのはわかっているし、点をつけるなら35/100点くらいの母親だ。
だから子どもに話した。
ママも、〇〇ちゃんも頑張らなくちゃいけないところがいっぱいある。
でも、二人で一緒に頑張っていこう。大好きだよ。
小さな指が私の指を掴んだ。
指切りね、この約束を守っていきたい。
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自分の使命は、尊くて、しかも困難なものであることを認識させてくれる1冊。
そして、これから、どんどん、もっと困難なものになっていくことすら予想させてくれる。
それでも、その道を志すのなら、やっぱり目をそむけてはいけないのだと思います。
そして、誇りをもって。
最近、「幸せ」についてよく考えています。
物質的な幸せと、精神的な幸せについて。
若い頃だったら、けっこう気にしてなかったというか、避けてきた考え方なのに、なんか最近は、そういう考え方に頷く自分がいます。
物質的な幸せは、精神的な幸せとつながっていないなぁ。つながっていないというよりも、反比例しているのかも。
でも、今の物質的な豊かさを手放せるかと聞かれると、それは無理だという……。
この本は、あきらかにわたしの子どもへの接し方を変化させるだけの力をもった本でした。
それは、表面的なところでは、見えない変化なのかもしれませんが。
わたしたちの前にあるのは、希望でしょうか?絶望でしょうか?
それでも、何があっても、1歩1歩、子どもたちと歩いていかなければなりません。
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続編は、読者の質問に答える形であり、1と並行して読んでも面白い。だって、「子どもの望むとおりにできるだけしろ」と言われても、「我儘になるんじゃないか」と普通は思うよね。でも、希望を聞いてもらった子が、他の人の希望も聞けるようになる、というのはそうだな、と思う。気持ちを受け入れてもらった子が、その人のいう事なら聞こう、と思えるんだもんな。それは大人だっておんなじだよな。義父が、小学生になってもおっぱいを飲んでいたが、大人になって戦争中、戦争反対を唱え続けた人だったらしい。あの時代、自分の信念を貫き通すことなんて、なかなかできることではないが、存分に子どもの頃認めてもらったから、自分に自信をもって行動できるようになった良い例だと思う、と書いてあった。取りようによれば、頑固。そういう生き方をしてほしいかどうかはまた別か?それとも、そういう人が幸せか?つい、子どものころ我慢させて、大人になっても何がしたいかわからない、受け身的、そんな大人が自分を含めて多いようだが・・・。それはいい事とは思われていないが。今の日本では、「個性を大事に」「自分らしく」とかいいつつ、そんなのがんがんやったらブーブー言われると思う。だから中途半端にそういう事が求められているのが今の現状なんだとおもうけどね。
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よかった。
ひたすら子どもといることを楽しもう!と、穏やか思える本。
優しく、まわりに開かれる育児の大切さを感じます。幼稚園選びにも影響しそう。
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そして…
『子どもへのまなざし』を読み終えた方…
また初めての方でも 質問形式のわかりやすい一冊。。。
「続 子どもへのまなざし」です。
一章では…
「子どもへのまなざし」を読んだ方からの不安や疑問に
佐々木先生が丁寧に答えてくれています。
二章では…
子どもたちにとって大切な母性と父性について
三章では…
いじめ問題 不登校について
育児と社会のかかわりについて
四章では…
障害のある子どもたちについて
この子どもたちを どのように理解し
どのように育てていったらいいのか…
とても育児の参考になりますので
是非とも 読んでみてくださいね。
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「子どもへのまなざし」に寄せられた読者からの質問・疑問にQ&A形式で綴られており、前作で提唱されていた「子どもの要求は全て叶えてあげる」というのをベースに、母性と父性のあり方・大切さが加えられ、昨今の子供による痛ましい事件との関連性にも触れて詳しく説明されていす。前作では殆ど触れていなかった障害児に関する章もあり、障害のタイプ・症状の違い、周囲の人からは理解しがたい行動の理由を実際の事例を挙げながら解説されており大変勉強になりました。
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町の子育て講座に来られた精神科医師の先生のお話が大変よかったので、早速著書を拝読しました。
この本を読んでいると、心が優しくなり、我が子のみならず、他の人の子どもにまで、優しい気持ちが持てる本でした。何回も愛読したい本です。
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娘3歳ADHD。今まで気になっていた娘の言動の特徴について、理論的に説明されていて、すっきり納得いった。
とにかく穏やかに分かりやすく言い聞かせていくしかない。
分かりづらい障害ゆえに、社会に出てからの周囲からの風当たりはやさしくはないと思うけど、そんな中でも自分自身に誇りを持って過ごせるように、今は「私たち親は、どんなあなたでも無条件に好きだよ」と伝えていくようにしたい。
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第二巻は読者の質問に答える形式なので、自分の悩みについての箇所を読むのもよさそう。
実践したいこと
•モノではないコトの欲求に応えてあげる
•たまに一人っ子のように、兄弟の見えないところでえこひいきする。
•長所やいいところに注目する
•短い時間でも、子どもの話をちゃんと聞く
子どもを育てることを真剣に考えることは、次の世代を思いながら仕事することだと思う。
第一巻で、まず自分が幸せであることとあったけれど、
自分のことしか大切にしなくなった、誰かを大切にして生きなかったから、結果として自分も大切にできていないということ。
ADHD、LDの話、悲しみから立ち直るまでの11の心理過程も勉強になった。
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前作と重なる内容が多かったが、新しい話でいうと、母性と父性の話は非常に納得度が高かった。夫とどう協力して良い家庭にすれば良いかの大きなヒントになった。
また、個人的に響いた内容では、鳥飼玖美子さんの、妊娠前に仕事が制限されることを恐れていたが、生まれたらただこの子のそばにいたいと思った、という言葉。自分自身もまさにその通りの感覚だった。
さらに、佐々木先生は、母親がおなかで40週も育てたのに、父親と同じぐらいの愛情しかもてないのは不思議ではないかと書いていて、母親としてのプライドをなくしてはいけないと書いておられる。私自身、産前は夫をたてることに何の抵抗もなかったのに、子育てだけはプライドが出てしまうことに罪悪感があったが、この言葉に救われました。
以下、まとめ。
子どもはものでは満たせない。もの以外で要求を満たしてあげると、ものを要求しなくなる。たとえば好きな献立を作る、休日にトランプやキャッチボールをするなど。
うそをつくことはよくないということは教えるべきだが、ある程度は認めてあげる。うそをつかなくていい雰囲気で育てるのが最も良い。
兄弟げんかはたくさんするほうが、友だちとは喧嘩せず仲良く遊べる。攻撃性や征服欲を自然な方法で向上心に変えていくのに格好のトレーニング。上をつい叱ってしまうのは、あまり心配いらない。強い者が我慢するのが世の中の道理。
うまい保育というのは、全員が一斉に同じことをするのではない。子どもたちがお互いに気の合った仲間を見つけて、いくつかのかたまりになっている状態が、育ち合うということ。そして入れない子を上手に入れてあげるのが上手な保育。
子どもに色々なものを与えるだけの早期教育は良いが、成果を期待するのはよくない。
親に気を許していない他人行儀のいい子より、いつも欠点を出している子どもの方が安心。
人の嫌がることをする子どもは、めぐまれた環境でやさしく育てられた経験が不足している。あるいは、望んだことを満たされながら育ってこなかった。人間は欲求不満になると攻撃的になる。
鳥飼玖美子さん「妊娠中は仕事がうんと制限されるのがつらいと思っていたが、生まれてみたらもうそんな考えがすっかりとんでしまって、もうこの子のそばにだけいたいという気持ちになった。こういう気持ちこそが母性なんだろうか」
子どもに対して、それでいいんだよといってあげ、くつろぎややすらぎや安心感を与える機能は母性的、このように生きなければと指摘し伝えるのは父性的なもの。
しつけは長所を見つけて伸ばす姿勢が大事。
育児の主役が親であれば、祖父母が孫を甘やかしても大丈夫。
母性が先にきて、父性は後にくる。複数のこどもがいても、ひとりひとりをえこひいきすることが大事。
不健康な家族に共通していることは、お父さんとお母さんの役割がはっきり分かれていないこと。健康な家族では誰がイニシアチブをとるのかはっきりしている。不健康な家族の場合は家族全体が平等。また、片親が子どもたちと連合して、もう片方の親との間に境界線をつくってイニシアチブを大きくしようとすると、子どもはうまく育たない。なかでも母親が男の子を取り込んで夫に対応しようとする場合は最悪。それらの家庭の66%に、重症な神経症患者がいた。
家族の役割は二つあり、一つはありのままの自分を、安心してさらけだせる場であること。もう一つは、人は何のために生きるのか、どういう価値観を持って生きるのか、どういう理想を持つべきかなどを考えていくこと。
信頼関係の豊かな子どもたちは、いじめともいじめられとも無関係な位置にいる。人を信じられる子どもは、いろいろな子どもと友達になれるから、いじめる子どもと友達にならなくてもいい。
小さい時から親が話を聞いてあげることが大切。親に話を聞いてもらって解決してもらった経験がなければ、子どもは親に話しても仕方ないと思うようになる。
母親が40週も自分のおなかのなかにおいて、大切に育ててきた子どもをいとおしまないで、父親と同じような愛情しか持てないというのは、不思議なことではないでしょうか。自分と同じような質でもって、父親がこの子をかわいがれるはずはないと思って、育児は自分でやりたいとどうして思わないのか。母親に母親としてのプライドがなくなってしまったは、子どもは安心して育っていくことはできなくなるのではないか。
ダウン症は不適応行動や異常行動が極端に少ない。極端に多いのは自閉症。ダウン症の子は人なつこく、他の子と一緒に何かやるのが大好き。自閉症はその逆。ダウン症は知能の発達だけが遅れているごくふつうの子ども。ADDやADHDはその間。特徴はシングルフォーカス。こういう子たちには、大人が我慢して叱らないでいてあげるしかない。
自閉症だと、想像力を働かせるということができない。同時にいくつものこともできない。イメージの世界がもてないので、鬼ごっこなどもできない。空間の世界に生きていて、時間の世界には生きられない。話してもわからないが、文字になればわかる。
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本作は、前作の『子どもへのまなざし』に関して読者から寄せられた質問や意見に対して深掘りして回答していく形式をとっております。
著者の深い経験と知識をもとにした解説があるので、読み物として面白いです。
最後の方のパートでは、障害がある子どもについての向き合い方が書かれており、個人的にはかなり興味深かったです。
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『子どもへのまなざし』の続編。読者からの質問等にていねいに答え、親、保母の役割、障害を持つ子どもたちの育て方、愛し方を優しく導く良書。ここで筆者から鋭く指定される現代社会の課題は、初版から15年以上経った今さらに悪化しているように思う。人がお互いを支え合う地域社会・コミュニティの復興、あるいはそれに代わる何かを作り上げるにはどうすれば良いのか、現代に生きる一人一人が真剣に考えるべき課題だ。
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子どもへのまなざし続編です。
育児について様々な具体的な質問に答えてあります。
子どもの感情を 大人に例えて指摘されると納得させられます。
子どもだからとついつい上から物を言っている自分に反省します。
子どもの内面がしっかり書かれている優れた本です。
それから身近にいる障害を持つ子どもたちのことを知るのにも勉強になる本です。
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Q&A形式になっているため、現在子育て中の母親にとっては読みやすく、わかりやすい。
佐々木氏は、自分より子供を優先するという古くから当たり前だったことが揺らいでいる現在について繰り返し警鐘を鳴らしています。佐々木氏の著書を読むと、子供を育てるというのはまず自分の生き方を見直すことだと思わされます。
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1巻での読者からの質問に回答する形式。
社会の変化にあわせて、自分を大切にする親が多くなったのではないか。という点は興味深い。
自分主体、個性的な生き方をめざす風潮は、子どもにとっては決して最高ではないと。子どもは、自分だけをえこひいきしてくれる存在、つまり母性的なものが必要な期間がある。というのはなるほどと思った。まず、母性的なものを十分にあたえ、それから父性的なものをあげるんですよと。
そして、誰かを大切にした生き方をしなければ、結果として自分も幸せにならない。人間関係をわずらわしいと思わず、作っていき、よい人間関係をたくさんもっているほど、よい育児ができる。
というのも、心に残った。
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基本的に前著と一緒で、とにかく親は子供の要求に全て答えることで愛情を注ぐべしと述べている。子供の要求はなるべく体験(抱っこおんぶ遊ぶ)で満たしてあげてモノで満たそうとはしないこと。
一人っ子家庭よりも、他の家族と育て合わない家庭の方が心配と著者は指摘する。地域の子育てサロンなども活用して積極的に他の家庭と交流する機会をもつこと。
子供に限らず大人でも、自分の話をゆっくり聞いてくれる人がいないと心にゆとりがなくなり、欲求不満になる。
子供にしつけ(父性的なもの)を教えようと思ったら、まずは愛情(母性的なもの)で満たしてあげること。愛情不足な子に、いくらしつけをしても意味はない。
家族の力関係がはっきりしている方が家庭が安定する。父がリーダーシップを発揮する方がなお良いらしい。そして、家族の役割(父は働きリーダーシップを発揮する、母は家事をやり父のサポートをするなど)がはっきりしている方が子供が健全に育つとのこと。
この辺は近年の新しい家族のかたち思想とは異なるが、個人的には一理あると思う。
後半は子供の発達障害について述べられていた。一般的に子供の発達障害が表面化してくるのは1歳半頃から。中でも自閉症の子は明らかに他の子と様子が違うから分かりやすい。ダウン症の子供は人懐っこくて、大人の言うこともよく聞くから非常に育てやすい。
自閉症、ADHD、学習障害の子供は、症状がとてもよく似ていて、線引きが難しい。
親だけで抱え込もうとすると、潰れてしまうから周囲のサポートを積極的に受けること。