あらすじ
グローバリズムが世界を覆い、テロ、排外主義、ナショナリズムが高まりを見せ、従来の思想が時代の状況に対する答えを出せないでいる中、私たちはいかにして新しい政治思想の足がかりを探し、他者とともに生きる道を見つけることができるのか。
一個の人間の生のあり方から、人類史的問題に至るまで、さまざまに読まれうる可能性に満ちた、スケールの大きな哲学書が誕生しました。
ルソー、ローティ、ネグリ、ドストエフスキー、ネットワーク理論を自在に横断し、ヘーゲルのパラダイムを乗り越える。
否定神学的マルチチュードから郵便的マルチチュードへ――。
著者20年の集大成であり、新展開を告げる渾身の書き下ろし新著。
感情タグBEST3
このページにはネタバレを含むレビューが表示されています
Posted by ブクログ
15 思想の核となるアイデアはいままで言い尽くされている。
ゆえに哲学書の本質は、そのテーマの新しさにではなく、むしろスタイルや意匠の新しさに存する。
つまり、いかに語るかという装飾という非本質な部分こそが本質だと言えるし、本質こそが非本質である。
さらに、言えば、この本質と非本質の定まらなさ・決定不可能性こそが哲学の「本質」だとも言える。
241とある時代のとある主張は、「新しい思想」というよりも、単にその時代状況の表現だと考えた方がよい時がある。
26. 「観光」の条件
労働階級の台頭、大衆社会化、産業主義化。
・クックは、観光を通じて大衆を啓蒙し、社会をより良くすることができると本気で信じていた。近代観光の歴史はその信念から始まっている。
82 観光客は、ただ自分の利己心と旅行業者の商業精神に導かれて、他国を訪問するだけである。にも関わらず、その訪問=観光の事実は平和の条件になると、カントは考えた。
86 カール・シュミットの「友敵理論」
政治はまず、世界を友と敵に分け共同体を確立する。その際、敵を敵たらしめる根拠はない。
そのうえで政治は、友か敵かという判断項に基づいて、共同体の存続を第一に考え、必要とあらば倫理的・美的・経済的というあらゆる他の二項対立から構成される判断軸を放棄する。
89 ヘーゲルの国家論で重要なのは、市民社会から国家へのその移行が、たんなる歴史的あるいは社会学的な展開としてではなく、人間の精神的な向上と結びつけて語られていることである。
117 ヘーゲルは国家を市民社会の「自己意識」だと捉えた。
カントは「国家をもった民族」はひとつの人格を持つものとみなした。
121 国家の二層構造
<a>精神、思考、意識、政治、上半身、”国民”としての人間
=ナショナリズム、リベラリズム
↕
<b>身体、無意識、経済、下半身、欲望、動物、消費者
=リバタリアニズム、コミュニタリアニズム、グローバリズム
point1 121 欲望の管理は、健全な社会生活を営む上で致命的に重要である。それに失敗すると人(=人格、国家)は病気になる。
point2 123 ナショナリズムとグローバリズムは、統合されることなく、それぞれ異なった仕方で秩序を作り上げてしまっている。
<ネーション>
政治 ネーション(国家)の単位で語られる
↕
経済 グローバリズムとしてネーションから独立して行動
point3 132 グローバリズムは、ナショナリズムをいささか変質させた。すなわち、ナショナリズムは普遍的な世界共和国へつながる回路をもはや持ちえず、永遠にナショナリズムのままである。
141 国民国家(人間を人間として扱う機構)は出産を奨励できないが、帝国(人間を統計の対象として数字で、動物のように扱う機構)は奨励できる
149 否定神学とは
「否定」を媒介とした存在証明の論理。
「その対象が“存在する”」ということを、直接積極的に言うのではなく、「~ではない/~でもないことを通じて、しかしそれがなければ説明できない/それを仮定しなければならない」という形で、実質的にその存在を前提せざるを得ない立場が生じる。
156 それに対して「郵便」は存在し得ないものは端的に存在しないが、現実世界のさまざまな失敗の効果で存在しているように見えるし、またそのかぎりで存在するかのような効果を及ぼすという、現実的な観察を示す言葉である。
158 郵便的とはここでは、あるものをある場所にきちんととどけるシステムを指すのではなく、むしろ、誤配すなわち配達の失敗や予期しないコミュニケーションの可能性を含むという意味で使われている。
160 デモには敵がいるが、観光には敵がいない。ラディカル・デモクラシーは友敵理論の内側にあるが、観光はその外部にある。
161 ネットワーク理論
世界の多くの事象は、多数の「実体」があり、その上でそれら実体を結びつける「関係」があるという、広義のネットワークの構造を備えていると見なす考え方
171 スケールフリー性とは
友達が多い人のところへますます友達が増えるという不平等性を表したネットワーク理論のモデル
177 人間社会がネットワーク理論でモデル化でき、そしてそこにスケールフリーの特徴が現れるというバラバシたちの発見が、19世紀の史的唯物論や20世紀の構造主義に続き、「人間社会の構造をあたかも自然現象であるかのように説明する言説の可能性」を開いた
187 神話とは、ある洞察の論理的な展開を、あたかも歴史的な展開であるかのように見做して、再構成する、物語風の記述形式を意味している。
189 論理と物語の違い
共時的な論理を、通時的な歴史として再構成すると、目の前の世界の構造になにが欠けているのか、きわめて語りやすくなることも確かだ。論理は、物語のかたちで語られるとはるかに理解と操作が容易くなる。
197 個人単位での、きわめて具体的な、そして偶然的な「細部」への感情移入に、連帯の基礎をおくべきではない。むしろ、「われわれ」の感覚は、その細部への共感のあと、事後的かつ遡行的に生み出される。
198 観光客の哲学=誤配の哲学、「連帯」とあわれみ
218 死の絶対性と運命の必然性が生み出すハイデガーの哲学に対置される、出生の相対性と家族の偶然性が生み出す新たな哲学=家族の哲学
223 国民の拡張には原理が必要だが、家族の拡張には原理がない。これがウィトゲンシュタインの指摘したことだった。
237 つまりアメリカにおいては、アメリカを愛することと現在の権力を批判すること、祖国への誇りと権力への怒りは矛盾なくむすびつく
Posted by ブクログ
政治に他者に関わることなく引きこもって自らの欲求を追求して暮らすことが可能な動物の時代。神も国家もアイデンティティの拠り所として機能せず、グローバルリズムを否定するためにテロリストでさえふわふわした浅薄な理由で(動画を見て)生まれる。テクノロジーとグローバル化により均質になっていく世界で、数々の哲学者の論説をひもときながら人はどうあるべきか模索する。
本来は世界市民となるはずだった現代人はリベラリズムに疲れはて、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムに分裂している。グローバリズム(経済的利益、肉体関係)はナショナリズム(政治、恋愛関係)を取り残したまま歪な秩序として浸透したのだ。SNSやLGBT運動に見られるネットと愛さえあればどうにかなるというマルティテュードも実効性が薄い。
シンギュラリティは空想社会主義にすぎず、仮想現実世界では匿名性がフェイクニュースやヘイトなど悪い意味で現実を侵食していく。
筆者は観光客=二次創作だと主張する。観光とはまさに産業社会によりうみ出された産物、大衆消費行動だ。しかし観光は単なる娯楽であると同時に誤配を生み、偶然性によって人の視野を広げ社会を繋げ直す。そして観光客は訪れる場所を観光地に変える。観光客は無力ではない。
国という概念が機能しなくなったテロリズムの問題は文学の範疇にあると筆者はとく。ドフトエフスキーの地下室人の手記、カラマーゾフの兄弟、悪霊について取り上げている。強制されると反発するためだけに反発するのが人の性。人はライプニッツ的理想の世界に殉じようとするが、現実の不条理に耐えられなくて絶望してテロリストとなり、さらにどちらの態度からも離れた無関心なニヒリストとなる。ニヒリストを克服するには、不能な父(観光客)となるしかないという。そして解決は次の世代に託し、そしてまたテロリストが生まれていく…。終わりなき円環の中に人は生きていくと筆者はしめくくる。
Posted by ブクログ
誤配に期待するしかないと。他者への寛容を支える哲学が家族的類似性と誤配くらいしかない、というのだが。偶然で生まれて必然の存在へと変わっていくことを家族としてとらえることに一人の母親として強烈な違和感を覚えるが、それが説明できるまでには相当かかりそうな気がする。
Posted by ブクログ
「観光客」という共同体や民族を越境する者(越境者)が、また人間の「観光客」的な在り方がこの先の世界を動かす(ひいては世界平和を実現する)?
そんな刺激的な問いを哲学的なアプローチで描いている本著。
盛りだくさんすぎて正直1回読んだだけでは私には処理しきれない・・!
でも面白いと感じる部分がたくさんあった。
著者はそのような読み方を望まないだろうけど、哲学(とその歴史)に興味を持つとっかかりとして手に取るのも面白いかも。
しかし高校の歴史や道徳、大学の文化論で登場した哲学者や文学者の名前がたくさん出てくる。
当時は興味を引かれなかったけど、思想を引用されるとみんな面白いことを考えてたんだなあと思える。カントなんて『永遠平和のために』どうすべきか真面目に考えてたんだなあって。すごいよな。
個人的にハンナ・アーレントの『人間の条件』は読んでみたくなった。
あと国(国民国家)を人間になぞらえて、そのうち政治=上半身、経済=下半身と例える表現とかはうまいし面白い。現代は愛(政治的な信頼関係)を持たぬまま肉体関係(経済の依存関係)を深めてしまった者(国)たちの時代らしい。
ドストエフスキーは『地下室の手記』と『カラマーゾフの兄弟』を読んだけど、この第7章で描かれてる研究者たちや批評家のような読み方にはまったくもって至れなかったのでまた読み直してみたいな。今なら違う読み方ができそう。