【感想・ネタバレ】関東大震災 虐殺の謎を解く ――なぜ発生し忘却されたのかのレビュー

あらすじ

関東大震災で多くの朝鮮人が殺されたのはなぜか。荒唐無稽な流言に人びとが脅えたのはなぜか。百年を経た今も謎の歴史に迫るため、陸軍の記録、小学生の作文、海軍練習艦の無線傍受録、隠されていた閣議の決定、恩赦をめぐる行政文書など新たな手がかりを読み解き、実際に何が起きていたのか、多くの犯罪者が罪に問われなかったのはなぜか、虐殺はなぜ忘却されたのかを徹底追及。人間の行動の深層にあるものを冷静に問い続けるジャーナリストによる関東大震災研究の集大成。

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Posted by ブクログ

本書でいわれている関東大震災についての「通説」についてメモしておく。
これは当時の治安三人組といわれた内務大臣水野錬太郎、内務省警保局長後藤文夫、警視総監赤池濃(あつし)らが、1923(大正12)年9月1日、震災発生後に戒厳令を布き、朝鮮人たちが暴動を起こしているという流言蜚語を広めたという説のことである。
著者によれば、この通説を形作り、今日に至るまで影響を及ぼしている書籍として、以下の2冊を挙げている。
 吉村昭『関東大震災』文藝春秋、1973年
 姜徳相(カン・ドクサン)『関東大震災』中公新書、1975年
後者の姜徳相は、『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年の著者であり、本書の著者、渡辺延志氏も「六十年を経た今日でも、これをしのぐ資料集は見当たらず・・・」と絶賛している。
そして、この資料集には取り込まれなかった膨大な一次資料が、実は姜徳相コレクションとして韓国で保存されていたのである。この貴重な資料に当たって、姜徳相などが打ち立ててきた「通説」を、一つ一つ検証してゆくのである。
中でも当時の内務大臣水野錬太郎についての記述はスリリングでさえあった。彼は韓国の優れた映画『金子文子と朴烈』の中でも老獪で冷徹な権力者として描かれていた。金子と朴の二人は関東大震災後、予防検束という名目で警察に連行されたのである。
ところが、震災に先立つこと5年前の1918年8月の米騒動の際には、水野の留守中に、寺内正毅内閣の閣議決定でいったん決まった戒厳令の施行について、このときも内務大臣だった水野は最後まで首を縦に振らなかったという。
水野が反対した理由とは。
「そもそも戒厳令なるものは国内の擾乱危殆に瀕し、内乱状態に陥りたるの如き非常の場合に於て施行すべきものなり。戒厳令を施行するときは普通の行政組織に一大変更を来たし、行政、司法ともに軍司令官の権限に移り、軍国政治を現出するものなり。国家非常の場合においては、かくすること或は止むを得ずと雖、今日の場合は決してかくの如き状態にあらず、各府県に騒擾起こりたるは誠に遺憾に堪えずと雖も、これ一時の紛擾に止まり、決して根底あるものにあらず。現に東京市の如き夜間は多少の騒擾あるが如きも、昼間は何ら異状なく、市民平静その業に服するにあらずや。その他の地方もまた大抵かくの如し。然るにこれを以て非常時の如く考え、戒厳令を各地に施行し、銃剣を肩にせる兵士をして市中を徘徊せしめ、行政、司法ともに軍司令官の司るところとなるならば、国民は果たして如何の感をか為す。これ寧ろ国民をして激して一層の紛乱の巷に入らしむるものにあらずや。今日の状態は地方官憲の権限内に於てこれを取り締まることを得べし。もしその力足らずして兵力を要すると認むるときは、地方官は官制の命ずるところによりて師団長に移牒して出兵を要求することを得べし 」(p.161-162)
私たちは後の昭和の時代に軍が政治に容喙して政党政治の息の根を止めてしまったという史実から、ついつい大日本帝国憲法下の政治一般を専制的だったと思ってしまう悪癖があるが、この水野の法の執行責任者としての慎重な言動にはいささか感動を禁じ得ない(最近お隣の韓国で起こった尹錫悦前大統領による戒厳令騒動を見よ。そして、これを阻止した韓国民大衆の政治意識の高さを見よ)。
さて、関東大震災に際して、内務大臣水野錬太郎はどうしたか。
姜徳相も、また姜と同様、関東大震災の研究を牽引した第一人者琴秉洞(クム・ビョンドン)も依拠している『帝都復興記録』(1930年)の中に残されている水野の発言を、当時枢密顧問官だった伊東巳代治の発言と並べながら、渡辺氏は読み進めていく。詳細は本書に譲るが、このときも水野は戒厳令施行に極めて慎重だった。ただし以前の米騒動のときとは違って、横浜に端を発して燎原の火のごとく猛烈な勢いで、東京、埼玉の熊谷まで広まっていく根拠の希薄な朝鮮人暴動の流言と、それを信じた民衆の朝鮮人虐殺に対処するには、もはや警察力のみでは困難と判断して軍隊の出動に同意するのである。
余談だが、流言蜚語は熊谷をさらに北上し、遠く寄居にまで広がった。当時警察官により留置場に保護されていた28歳の具学永(ク・ハギョン)さん(朝鮮飴売で生計を立てていた)を、自警団が引きずり出して鳶口で殴打、撲殺した。警察官の力をもってしては、もはや憎悪と狂気に駆られた群衆を制止することはできなかったのだろうと想像される。
あんまの宮沢菊次郎という人が遺体を引き取り、正樹院というお寺に埋葬したという。100年も前のことを、このように寄居町史に残してきた歴代担当職員の良心には、敬服のほかない。また、この墓を残してきた歴代住職にも、頭が下がる。
私は新聞記事でこのことを知り、妻ともども、登山の帰りに墓を探して手を合わせてきた。嫉視を買うほど実入りの良いなりわいだったとは思われない。不謹慎のそしりを免れないかもしれないが、誠にあわれである。
さて、水野の発言の中に、殿下にご裁可を得たとあるが、のちの昭和天皇のことである。皇族に責任を負わせることができないことは、輔弼者として肝に銘じていたであろう。
では、同じ資料を読み込んでいたはずの姜徳相や琴秉洞は、治安三人組が戒厳令によって朝鮮人が暴動を起こしているとして、民衆を煽動したという結論を導き出したのだろうか。私はこれら先駆的な研究者たちの知的誠実さを疑うべきではないと思う。渡辺氏の指摘するとおり、現在に至るまで関東大震災という歴史的事実につきまとうイデオロギー的な色眼鏡から、両者とも自由ではなかったということに尽きると思う。まして1960年代から1980年代は、ソビエト社会主義共和国連邦が崩壊する前であり、左翼的な考え方が依然幅を利かせていた時代だった。

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2025年11月14日

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