あらすじ
建築家水原のそれぞれ母の違う三人の娘、自殺した母の悲劇と戦争に恋人を奪われた心の傷(いた)みのために次々と年下の美少年を愛する姉百子、京都の芸者の子である妹若子、全く性格の違う姉や妹をはらはらと見守る優しい麻子。大徳寺、都踊、四条から桂離宮――雅(みやび)やかな京風俗を背景に、琵琶の湖面に浮かんだ虹のはかなさ美しさにも似た三姉妹の愛と生命(いのち)の哀しみを詩情豊かに描く名作。(解説・北条誠、田中慎弥)
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死と不在が色濃く漂う戦後の空気の下、姉妹は悲哀を抱えながらも気丈に生きている。しがらみの中で自由な生を探す姿は強く美しい。とらえどころがなく、はかなくも、希望がひらめき、ほのかに色づく。「雪国」の川端が描く、虹のような汽車の旅へ。
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1950(昭和25)年から翌年にかけて雑誌に連載された、川端が50ー51歳の頃の作品。『千羽鶴』『山の音』などと同時期のものである。
私は遙か昔、高校生の頃に川端康成の小説を結構読んでおり、当時もずらっと書店に並んでいた新潮文庫の川端康成を、どんどん買って読んだのだった。
しかし、川端作品はどうも私にはピンとこないような気がしていたのだが、最近未読だったものをまた読んでみるようになり、今回、本作を読み通して、なるほど、これは優れた作品だと初めて納得がいった。
比較作品論的に読んでみるとただちに気づくのだが、この小説には登場人物の容貌などの「描写」がほとんど無いのである。文章はかなりの省略が施されていて、いつも川端作品を読むとイメージされる「もの凄くか細い線の、はかなく危うい感じ」は、このようなところから来ている。
バルザック以来のフランス近代文学やドイツ近代文学における「描写」の在り方と比べると、川端文学は凄まじいほどの「欠落」によって特徴づけられている。
容貌の描写も、ときどきはおおよその年齢も省略されているために、読者にとってこれらの登場人物は影絵のようにほのかだ。
こうした「省略」はもちろん、日本文学において特色ある短歌や俳句などの作法とも通じている。最小限の言葉の布置による技芸の呈示なのだが、悪く言えば、何故そんなに少ない言葉で用が足りるかというと、「いちいち細かいこと言わなくても、ほら、わかるでしょ? こういうふうに感じるでしょ?」という、「我々」の生活・感覚・思考の共通性(同一性)を前提としているからである。似たような感じ方で、似たような生活の文脈の中で、モノを見る。この前提が無ければ、あまりにも少ない言葉数では意味が伝わらないはずだ。
つまり、古来日本人たちは日本に住む同胞「我々」を同一性においてのみ捉えており、差異なき文化を生きてきた(あるいはそう直感した)のだろう。他民族が絶え間なく混交して織りなされるアメリカ文化とはほぼ正反対だ。
このような同一性文化は、やはり危うい側面があり、いつかは「他者」(外部の者とは限らないだろう)と齟齬をきたして破綻するのではないか、という危惧を持たざるを得ない。
そんな危うさが、川端の小説そのものによって体現されているような気がする。
危ういけれども、確かに美しい。そのはかなさゆえに強く、そして常に「死」と接触しつつある。
本作では三人姉妹のうち波乱に満ちた百子の遍歴の部分がなかなか面白いし、切り詰められた文章がときおり思いがけなく鋭いひらめきを放つのが素晴らしい。高度に美しい文学である。そのような点が理解されて、ノーベル文学賞に結び付いたのだろう、と、初めて心から納得した。
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川端の鹿屋における「海軍報道班員」経験が下敷きになっていると
考えられえる小説ということで読む。
鹿屋を訪ねたときのお供でもある。
久しぶり、おそらく20年ぶりくらいの川端ワールド。
あいかわらず美しくて不気味。
なんか露悪的というか変態的というか・・・
そういう部分が必ずあるんだよね、川端。
建築家の父をもつ美しい三姉妹は、それぞれ母親が違う。
長女は特攻兵として恋人が戦死して以後、少年愛に走り・・・
次女は優しい娘として心を砕き・・・
三女は一人芸妓の母の元、ひっそりと生きて・・・
ところが、運命のいたずらで・・・
という小説。
結末の終わり方がいい。
川端が愛した「美しい日本」らしく
舞台は箱根や京都。
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京都の嵯峨野や嵐山、渡月橋などの風流な情景が表されていて優しい表現が多かった。
宮ちゃんと百子の物語、『僕を捨てるの?』
百子が相手に任せてしまう性格だと青木の父が指摘する所などが頭に残っている。
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(以下コピペ)
建築家水原のそれぞれ母の違う三人の娘、自殺した母の悲劇と戦争に恋人を奪われた心の傷(いた)みのために次々と年下の美少年を愛する姉百子、京都の芸者の子である妹若子、全く性格の違う姉や妹をはらはらと見守る優しい麻子。大徳寺、都踊、四条から桂離宮――雅(みやび)やかな京風俗を背景に、琵琶の湖面に浮かんだ虹のはかなさ美しさにも似た三姉妹の愛と生命(いのち)の哀しみを詩情豊かに描く名作。
(コピペ以上)
とあらすじにあるので三姉妹に平等にスポットが当たるかと思いきや、
三女・若子はちょっと絡んでくる程度。
前半のメインはイイコチャンの次女・麻子。
後半は魔的な長女・百子がメインになる。
思い付きでつらつら書く川端の「構成力不足」に居心地が悪い「あらすじ作成者」がつい三姉妹ものと見做してしまったんだろう。
彼女らの歪みの元凶は、まあ、父・水原常男なわけだが、この人、自分のヤリチン具合を、誇りもしなければ(まあそれはいいんだけど)悪びれもしない。
ただフラットに自殺した女や、死んだ妻や、生きているメカケや、同居している娘ふたり、と接する。
それをメカケも娘らも罵ったりせず、女たちは自らに刻まれた歪みで言動もおかしくなっていくわけだ。
次女・麻子は対して面白みがある人物ではない。
川端がよく描いた、理想的な娘タイプ。
面白いのは、長女・百子だ。
この人、竹宮少年という大学生を篭絡しているのだが、その手つきや眼つきがどうにも、川端の「少年」の清野少年を思い出させるのだ。
百子は自分を男性化し、竹宮少年を女性化して扱っている、という記述があったと思うが、これってひょっとしたら、川端が百子に自分を仮託して、かつての自分の願望をねちねち書き込んでいるだけなんじゃ?
「少年」の連載は1948年開始、本作の連載は1950年開始。
やっぱり。
「少年」で堂々と少年愛傾向(「私」ー清野少年)をカミングアウトした後だからこそ、本作で願望充足的変奏曲(百子ー竹宮少年)を奏でようとしているのだろう。
wikipediaでは独立記事として立項されていないし、自伝作品としてカウントされてはいないけれど、部分的に自分埋め込みをしてほくそ笑んでいる、川端の顔が見える。
また百子、戦死した恋人に、おっぱいで銀のお椀(「乳椀」!)をとられた、という仰天挿話があるのだが、ここに何かしら象徴的意味を見出そうとするのも愚かだろう。
ただ50代のオッサンが面白そうだなと思ったアイデアかもしれないし、酒の席で聞いたことを盛り込んだだけかもしれない。
その恋人・敬太による心無い言葉「がっかりした。君は女でない」も、川端のサディズム的・願望充足的・記述かもしれない、が、彼が鹿児島から特攻して死んだという挿話は、川端が1945年、鹿屋航空基地で一か月取材をしたという経験に拠るものだろう。
この人、とことん自分の経験を作品に埋め込まなければ、書けなかった人なのではないか。
で、以上すべてのあれやこれやを、まるで鳥籠に入れたかのように、あるいは箱庭を作っているかのように、書いている作者の眼。
太宰治が、犬や鳥を飼うのがそんなに偉いことなのかと罵倒しているが、その記述が想定しているであろう例の写真の、ちょっと尋常ではない「冷たい眼」で、本作も書かれていると思った。
たとえ百子がどれだけ魔的に活躍しようと、籠の外から神たる作者がサディスティックに登場人物の動き(の小ささ)を愉しんでいる、とでもいうような。
などと考えるきっかけになってくれた作品。
決して代表作ではないし、構成にもやや難があるし、深みや鋭さに欠けるかもしれないが、
そういう気づきを促してくれた点、後の魔的の萌芽が芽吹き始めていることや、関東ー関西の行き来、「古都」への発展前、などなど、読んで得るものが多かった。
解説は北条誠、田中慎弥。
映画版では大筋は同じだが、後半は「いい話」に改変されているみたい。
さもありなん。
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2006. たぶん11月頃
これはなかなか設定が面白いです。是非今の時代に流行らせたいです。てか誰かこれでギャルゲーを作って欲しいです。それで麻子萌えか百子萌えか若子萌えか議論を白熱させたいです。おそらく裏ルートで竹宮少年も攻略可能。そんな話を誰かとしたいです。
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建築家、水原とその娘2人を中心に
それぞれの人間関係を綴る
戦後であっても
なんとも裕福な家庭であるらしく
何不自由なく生きている感じがする
が、
それぞれに複雑な事情が見え隠れする
1番目の娘、百子は愛人の子
母は自殺、百子はかつての恋人を戦争で失くす
今は少年ばかり愛し、
心穏やかでない生活をしている
2番目の娘、麻子は本妻の子
本妻は病死している
そして京都にもう1人
愛人との間に娘がいる
3番目の若子
それぞれは
水原を慕いながら
水原に守られて生きている
時代を感じさせる男と女の力関係
今なら問題ありだらけだけれど
なぜかそこに大きな大きな愛と、抱擁力を感じる
身勝手とも思える態度も多々ありですが
こんな内容もすんなりと受け入れてしまえるほど
川端康成の世界はやはり美しい
京都の桂離宮を歩きながら考える
琵琶湖にかかる虹を見て考える
どれもこれも美しい
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美しい情景が脳裏に浮かび冬の箱根や京都を旅してみたくなりました。日本語が美しくて、70年でここまで変わった要因はなんだろう?とか、花街言葉はかわいいけどややこしいなとか、東京から京都まで《銀河》で10時間。ボオイも乗ってるらしい。とか、余計な事も考えつつ時間をかけて読み進めました。
「夕霞んで」という表現が出て来たんだけど、もちろん使った事なくて、なんとなく分かるような分からないような、、、。
三姉妹に共感する事は出来なかった。時代が変わり、女性の置かれてる立場や意識が変わったからなんだろうな。
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舞台が、ちょうど私がよく知っている景色から始まっている。なんだか自分自身も旅をしているような不思議な気分のまま読み終えた。湖国の虹は一度見たら一生忘れられない。そして、百子は自ら虹の橋を渡って行った者たちの呪縛から解き放たれる日が果たして来るのだろうか?
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どことなく未完のような雰囲気。物語としてはあまりすっきりしません。
文章はやはり素敵で、乳椀のところなどもういない啓太の人間性が垣間見れる部分が特に惹きつけられた。
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建築家水原のそれぞれ母の違う三人の娘、自殺した母の悲劇と戦争に恋人を奪われた心の傷みのために次々と年下の美少年を愛する姉百子、京都の芸者の子である妹若子、全く性格の違う姉や妹をはらはらと見守る優しい麻子。大徳寺、都踊、四条から桂離宮―雅やかな京風俗を背景に、琵琶の湖面に浮かんだ虹のはかなさ美しさにも似た三姉妹の愛と生命の哀しみを詩情豊かに描く名作。
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母親の違う3人姉妹の物語が情緒たっぷりの京都の四季を背景に描かれている.「古都」にも通じるような設定だが,こちらはもっと通俗的で,少し前の宮本輝の小説のような感じ.朝鮮戦争のころに発表された作品だがあまり古びたところがなく時代を感じさせない.