あらすじ
人生が深いよろこびと数々の翳りに満ちたものだということを、まだ知らなかった遠い朝、「私」を魅了した数々の本たち。それは私の肉体の一部となり、精神の羅針盤となった――。一人の少女が大人になっていく過程で出会い、愛しんだ文学作品の数々を、記憶の中のひとをめぐるエピソードや、失われた日本の風景を織り交ぜて描く。病床の著者が最期まで推敲を加えた一冊。
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最初の章は「しげちゃんの昇天」。しげちゃんは小学以来の同級生、中学では本読み友達になった。その時のことが綴られている。大学卒業後しげちゃんは信仰の道(修道院)へ、敦子は大学院に進み、その後留学。そして35年が経ち、ふたりは再会することになるのだが。
最後の章は「赤い表紙の小さな本」。ある日見つけたのは、半世紀もまえのBirthday Book、家族や友人の誕生日が記された赤い本。3月のページにあったのは、少女時代にだれよりも影響を受けた親友「しいべ」のサインと敦子へのひとこと。そのしいべの思い出が綴られている。しいべの本名は重子。すなわち、しげちゃんのこと。
この2つの章に、サンドイッチよろしく、14の章がはさまれている。どんな本を、どんな時にどんなところで、だれと読んできたか。どんなことを考えながら、読んでいたか。麻布本村町の自宅から見える情景も詳しく描写されている。それはその時の敦子の心象風景でもある。読書について父親からどのような影響を受けたかも書いている。
須賀敦子は1998年3月20日の早朝に亡くなった。本書はその1カ月後の4月25日に刊行された。
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育った土地、生きてきた時代も違えば読み耽った本もあまり一致しないのに、この本を読んでいる間ずっと懐かしい気持ちで満たされていた。人生についてなにもわかっていなかったはずの子供心には、何かに夢中になっていた記憶とか、すごいものみつけた!という静かな興奮とか不思議とかが殊更にきらめいて焼きつくからなのかもしれない。小さな狭い世界に芽生えたささやかな幸せの感触が思い出されて懐かしくなったのかも。遠い朝。遠くなってしまった。
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人生の初期に出会った本をめぐるエッセイ集。
子どもの頃、あるいは学生時代に出会い、印象を残した本。
それらは読んだ時の場所、状況、その本を読む上でかかわりを持った人々などとつながり、その人の中に独自の形で残り続ける。
時には忘れ去られていることもあるが、ふとしたきっかけで甦ってくる。
あるいは、年齢を重ねて読み直してみて、かつて気づくことができなかった意味を見出すこともある。
本書を読むということは、須賀敦子というひとを通してそうした経験を追体験することである。
取り上げられている本はといえばー
『小公子』や『愛の妖精』『星の王子様』、『ケティー物語』といった、海外の少年・少女向けの物語。
須賀さんにとっては父の思い出と分かちがたく在る鴎外の『即興詩人』に『平家物語』。
幼いころ無性に悲しい思いになった「刈萱童子和讃」。
中原淳一の挿画で当時の少女たちを魅了した「少女の友」とそこに掲載されていた川端康成の少女小説。
今はあまり読まれていないと思われる本、自分にとっても読んだことがない本もあるが、それでも興味深く文章を読むことができる。
本とかかわりを持つことができるのは、なんと幸せなことだろうか。
中でも、アン・モロウ・リンドバーグを取り上げた「葦の中の声」、小学生の頃、関西から移住した東京麻布の家の隣に住んでいた俳人原石鼎について書いた「ひらひらと七月の蝶」の文章の美しいこと。
リンドバーグの『海からの贈物』は、一度読んでみなくては。
鴎外の史伝に西洋的な技法を見出だすことができるのではないか(「父の鴎外」)という見方は、長年西欧文学の紹介をしてきたこの人ならではの視点だろう。
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戦争中、空襲に逃げ惑い、防空壕まで本を持っていって本の世界にのめり込んだ十代前半の須賀敦子が戦後平和を希求しながら左派カトリック運動に走った須賀敦子の読書体験が素晴らしい文章で書かれのめりこんでしまった。
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何よりもまず人間。
詩と自然にひたりたかった私が、なによりもまず人間,というフランスやイタリアのことばに,さらにこれらの国々の文学にのめり込んで、はては散文を書くことにのめりこんでいったのが、ふしぎな気がする。p206
と、かいておられる。須賀敦子さんの、子ども時代学生時代を振り返る本書を貫くのは、読んだ本,作者やその登場人物、行動から本能的に,そして本質的にかぎとり、受け止めてきた、何よりもまず人間ということ。
サンテグジュペリの,人間の土地。飛行機とともに、われわれは直線を知ったという文章がある、と、須賀敦子さんは引いている。牛や羊に依存していた人たちによって作られた、くねくねと曲がった道をたどっていた時代の社会通念と、都市と都市を直線でつなげることを知った空からの視点を人間が手に入れた時代のそれとは大きく変わるはずだと言う事をこの短い文章は指し示しているが、これは宇宙飛行士の視点に通じるものに他ならないだろう。空から地球を見るようになって、と、サンテグジュペリは、書いている。私たちは、(… )宇宙的尺度で人間を判断することになったのだ。人間の歴史を(もう一度)さかのぼって読むことになったのだ。
という須賀敦子さんの文章,は、飛行機により新しい時代新しい尺度新しい人間性を大いに期待しながらも、飛行機により戦争やさまざまな,今ならCO2エミッションなどの厄災ももたらしてきた、インターネットがウェブやコンピュータの登場も当初はなんら同様の直線化による無限の可能性無限の新尺度を期待させながらも、新しき良き時代だけではなく、飛行機でもないさらにドローンなるもので人間も土地も破壊できるようになっている,そんなことを思いながらも、なによりもまず人間なのだという須賀敦子の一貫したよりどころに、救済される。
冒頭と最後の、しげちゃんのこと。くらい戦争の時代を、精一杯カラフルに生きようとし、くらさや嘘,欺瞞、偉そうな感じ,排除やきなくささに敏感になりながら自由自分らしさを求めて生きたおふたり、そこにつながるリンドバーグと一緒に飛行機で冒険したアンモロウリンドバーグの、世界を空から見る目線と,庭に咲く草花や木の芽をありのままに捉える目線。
須賀敦子さんならではの筆致,圧巻と感じるのはやはりイタリアのシエナの坂道の章,シエナの聖女カテリーナとの邂逅。
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妙先生にお借りした本。
子供の頃感じたこと、本にまつわること、そういったことを大切に、素直な気持ちで書けるなんてすてき。子供の頃何が大切だったか、どう感じたのか、そういったことを大切にしている人が好き。例えば、中勘助とか。忙しない日々に、つかの間の透き通った時間をもらえた気分。アン・リンドバーグも並行して読んでいる。そんな年頃なのかな。
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著者の生きてきた背景や感じ方・考え方・捉え方に共感するところが多く、吸い込まれるように読み終えて、著者が小さい頃から読んだ本についての感想に感化されて何冊か読んでみたいと思った。
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アン・モロー・リンドバーグの『海からの贈り物』は、名著として名高い。試しに、ある程度本を読んでいそうな女性何人かに訊ねると、「読みました」とか「勿論読みましたよ」と返ってきた。中には「私の一番の愛読書です」と答えたひともいた。単なる随筆の域を超えて女性の生き方の指針たり得る一冊であるらしい(「らしい」というのは、私自身は男で『海からの贈り物』もよく読んではいないからだ)。
そのアンも、多くの場合姓名ではなくてリンドバーグ夫人と呼ばれてしまう。実際、新潮文庫版の著者名でさえ「夫人」となっている。まるで、歴史的な冒険旅行家であるチャールズ・リンドバーグの配偶者であるということが、この女性の最大の存在意義であると言わんばかりの呼称である。
それはともかく、大西洋単独飛行で有名な夫君のチャールズと妻のアンの二人が、カムチャッカから千島列島を経て日本まで、小型機で飛来した時の記録が『北方の旅へ』で、アンの処女作だ。本邦では昭和十一年初出の山本有三編の『世界名作選』(日本少国民文庫)に抄訳が紹介されている。
須賀敦子は、その一文との出逢いと、後に忘れることなく深く刻み込まれたその時の感慨を『遠い朝の本たち』の中に記している。後世に生きる私の眼には、稀代の女流名文家二人の運命的な邂逅に見えてしまうのだけれど、昭和十七、八年ごろと思われる当時の二人は、著名な冒険飛行家の妻に過ぎぬ女性であり、空襲に怯える日本の小さな、勿論無名の少女であった。
リンドバーグ夫妻が千島列島に不時着し、救援を待つ場面の記述がある。その記述を読んだ半世紀後に須賀敦子が回想する。日本のどこなのか、人が住んでいる島なのかどうかもわからぬ島の葦原に浮かぶ暗い機内で、じっと耐える二人の様子が、奇跡的といえる臨場感で迫って来る。そうして、幼い須賀さんは、「いつか自分もこんな風に書きたい」とも思う。そして「アンの文章はあのとき私の肉体の一部になった」と半世紀後の須賀さんは回想する。それは著作者としての須賀敦子の生成過程であり、同時にひとつの人間形成過の断面図である。しかも極めて見事な断面である。須賀敦子の透徹しきった目と記憶とに鳥肌が立つほどだ。
鳥肌ものの記述はもうひとつ。
アンが日本語の「さようなら」について語ったくだりと、それを読んだ須賀さんの感慨とである。
「さようなら」は「左様ならば仕方ない」という運命を静かに受け入れる、日本人の美しいあきらめの心の表現だとアンは説く。それを読んだ須賀敦子は、外国語の側から日本語を見る視線の透徹性を感得する。やがて川端康成を伊訳し、ナタリア・ギンズブルグを和訳することとなる翻訳家須賀敦子の礎となった原体験だったのだろうと私は解釈する。さらには、日本語からイタリア語、イタリア文化から日本文化へと二つの言語、二つの異文化世界を行ったり来たりするうちに(ちなみに彼女は英語、仏語にも堪能)、自らの中で違和感というものが雲散消滅してゆく、その過程が、須賀敦子の魅力の計り知れない深さと広さとの根源であるようにも私には思える。
60近くになって彗星のごとく登場した彼女は、巡り合わせの如何によってはミラノの主婦として生涯を終えていたかもしれない人だった。登場以来亡くなるまでの数年間に10冊ばかりの作品を遺した。
私は今その十冊ばかりの珠玉の著作群に嵌り込んでいる。順繰りに繰り返しそれらを読み続けている。いつかは、須賀敦子の人と作品の魅力についてキチンと書いてみたいと思っている。だが、今はまだ、伝えきれるような言葉を知らない。それほど広く、深い。
須賀さんは、アンの『海からの贈り物』からもひとつの表現を引いている。それは、人間にとって孤独とは、あるいは一人になることは何なのか、それを問いかけている。私は、須賀さんの人生と作品の奥底にある掴みがたいなにものかを掴むヒントが、そこにある気がする。
アンの一文は以下の通り。
「我々が一人でいる時というのは、我々の一生のうちで極めて重要な役割を果たすものなのである。或る種の力は、我々が一人でいる時にだけしか湧いてこないものであって、芸術家は創造するために、文筆家は考えを練るために、音楽家は作曲するために、そして聖者は祈るために一人にならねばならない。しかし女にとっては、自分というものの本質を再び見いだすために一人になる必要があるので、その時に見いだした自分というものが、女のいろいろな複雑な人間関係の、なくてはならない中心になるのである」
最後には、一人確固として立っていた須賀さんの内奥に潜む、確かななにものかが見えた気がしてならない。
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須賀さんの本を読むのは初めてではないけどすごく久しぶり。
本に対する思いや本をめぐる出来事について書かれたエッセー集。
この方の感受性に触れることで誰もが優しい気持ちになれるんじゃないかと思います。
全部楽しく読めたんですが、その中に「人間のしるし」という本に関するエピソードがありました。
(私その本知ってる?多分読んだことある?)と思ったものの、借りたのか買ったのか詳しくどんな話だったとかは思い出せません。(後から探してみましたが家にも見当たりませんでした。)
もやもやしつつ読み進んでいたら須賀さんがその本の中の一文を引用してました。
それを読んだ瞬間、鳥肌!
私もその部分抜粋してノートに書きだした記憶がある!
思いもかけず須賀敦子さんとの共通点を見つけてすごくうれしくなりました。
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ああ、私が大事にして読んだ「ケティ物語」。想い出させてくれた。私にとっても「遠い朝の本たち」がたくさんで、忘れられない。これが、彼女の「遺著」である。帯に本文からの引用がある。 あの本を友人たちと読んだ頃、 人生がこれほど多くの翳りと、そして、それとおなじくらいゆたかな光に満ちていることを、 私たちは想像もしていなかった。誰にでも「遠い朝の本たち」があって、そして須賀敦子という人の書くものは、これからはもう増えないのだ、と、少し震えるような心で読んだ。
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少し昔を生きていた方の文章なので、集中しないと頭に入ってこない感じはあった。(私の問題)
でも、言葉選びと文のリズムが好きってことだけは実感できた。
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ずっと読みたい本フォルダに入ってた本、やっと読めたー!
著者の本との思い出、人生と本当の関わりが連ねられていました。著者にとってそれらの本は人生に、とくに深く根付いているんだろう。私も興味を惹かれていくつかの本をメモしました。
読み始めは正直、時代の違い(著者は戦争を知っている世代)などもあってあんまり感情移入できなかったけど、気づいたら2周目を読んでいた。
著者の記憶力のよさ聡明さに脱帽し、子供時代2回引っ越したけど何歳ごろにどの家いたかも定かでないボケーッとした自分との対比が我ながらおかしく思いながら読んでいた。
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某SNSで引用されていた一文に惹かれて購入。
恥ずかしながら、筆者を存じ上げなかったが、本と共に印象に残った出来事を振り返る文章がとても切なく愛おしく感じた。
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須賀さんの本、初めて読みました。
わかりやすく、すっきりとしていながら、やわらかく情景が浮かび上がってくる文章に心が震えました。
見たことのない情景が、目にも心にも浮かぶように感じました。
時を超える感覚が新鮮で、もっと他の本も読んでみたくなりました。
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須賀敦子さんのエッセイ。
過去の自分や読書について語られています。
小さいころからの友人、
夙川から麻布に引っ越したときの出来事、
隣人の俳人(原石鼎)のこと、
「少女の友」の中原淳一の挿絵、
などなど。
取り上げられている本が特に有名な本とは
限らないところが興味深く、
「即興詩人」「戦う操縦士」
「幼きものに」を読みたいです。
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本が大好きだった著者が子供時代に出会った本たちをエピソードと共に紹介。
静かで美しくゆったりした時間という印象。
子供の頃大好きだった本、大草原の小さな家シリーズを思い出した。
人生に影響を及ぼした本が私にはどれだけあるだろうか、、そんなふうな本の読み方をしたいと思える本でした。
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読んだ本を思い返すことは、その時の自分の思い出を手繰ることなんだと教えてくれる。
美しい言葉で語られる情景は素晴らしく、読んでいると須賀敦子さんの思い出に入っていくようです。
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感受性の鋭い子ども時代に多くの本との出合いを経験し、それを成長過程の風景と共に記憶している著者を羨ましく思った。
最初は、本との幸福な出会いを綴ったエッセイだと思ったけど、どんな本も出合って不幸になるものはないかもね。
アン・リンドバーグの「海からの贈物」は読んでみたい。
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小川洋子の『カラーひよことコーヒー豆』の中に出てきた、
まだ読んでいない本だったので迷わず手を伸ばしました。
どことなく寂しく、でもとても幸福な読後感に浸ることが
できました。
言葉の選び方がとても無駄がない。そしてすっきり整って
気持ちがいいのです。
幼いころの本との出会いや思い出は私のそれとは全然違って
思い切り豊かなのだけど、出合ったわくわく感はよく分かります。
彼女の文章を読むとたとえ夏の描写があっても初冬を感じる
のは、全体に漂うどこか寂しい雰囲気のせいでしょうか。
読み終わるのがもったいないと思ってしまいました。
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須賀敦子は憧れの人。この本は大変な読書家で「いつも本に読まれて」いた彼女の、本との出合いとエピソードがたくさん書かれている。彼女の作品は私にとって、読むたびに刺激を与えてくれる特別な存在。背筋を伸ばして潔く生きていた彼女が選び抜いた言葉は本当に美しい。だからページをめくるのも勿体無くて時間をかけて読む・・。とても大切な本のひとつ。
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遠い朝・・・まだ人生の深さなど知らなかった少女時代・・・そして、大人になるまでに読んだ本の思い出をその時代の風景やエピソードを織り交ぜて語っている。単なる本の紹介でなく、その本と自分との関わりを美しい文章で綴られている。
中でも、サンテグジュベリ(星の王子様)やアン・モロウ・リンドバーグ(海からの贈り物)への深い思いに共鳴してしまった。
ちゃちゃ
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翻訳家の著者が、第二次大戦前後の女学校時代や大学院時代に読み、影響を受けたほんと、その本にまつわるエピソードを思い出しつつ、エッセイ形式で綴る。
あいも変わらずあらすじなどを読まずに読み始めるワタクシであるが、1本目は女学校時代の同級生が入院し、その頃に読んでいた本を思い出しつつ女学校時代を思い出すというような話で、普通に純文学のようなストーリーだったため、小説だと思っていた。
しかし、最後の段落で、生きていたと思ったら死んでしまい(本当にどちらが時系列的に先なのかわからない文章)、あれれ?と思ったら、2本目はしっかりとエッセイになっていた。
前半は、いろいろな過去のエピソードに、同級生や両親、妹といった人達が出てくるのだが、ほとんど会話らしきものがなくつらつらと地の文で説明されるため、見た目の割になかなか読み進まない。
ただ、1本目同様に、エッセイらしからぬ詩的な表現が含まれたりするものだから、おや?とおもう分が多々あるのがこの本の魅力だろう。
中盤の家の隣り住んでにいたホトトギス派の実力者俳人の原さんの話など、完全に小説として読んで面白いものだし、映画が1本撮れそうである。原さんの章だけで☆4くらいあげたい。
一方で、サンテグジュペリあたりからの中盤以降の話は、前半と打って変わって文章自体は読みやすくなる。ただ、論文的というか、評論的というか、やたらと固有名詞を叩きつけるような本の解説になってしまって、ほとんど頭に入らずに終わってしまった。父親が薦めてきた森鴎外の本を「旧字で漢字ばかりであって、主人公なども存在しないため目が滑る」と評しているが、実際にそういう文章になってしまっている。
世代的に少し上だし、紹介される本も鴎外を始めとした古典名作か、大学で翻訳した外国文学のようなものが多く、現代では参考にならない部分が多いが、見開きに1つくらいある、なんとも詩的な言葉選びは、一度体験する価値はあるだろう。
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2015.7.10
幼い頃における本にまつわる体験を静かに語るエッセイ集。
題名が秀逸。エッセイの雰囲気を体現している。
本に囲まれた環境が羨ましい。
本がいつでも側にある、そういう生き方を肯定している。ひたすら本とともに生きる著者の姿に励まされた。
本と共に生きるということの一つの理想を見出した感もある。
行間から本への思いが溢れでている。本とこんな関係を結べたら、これ以上の幸せはない。
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「幼い時の読書が私には、ものを食べるのと似ているように思えることがある。多くの側面を理解できないままではあったけれど、アンの文章はあのとき私の肉体の一部になった。いや、そういうことにならない読書は、やっぱり根本的に不毛だといっていいのかもしれない」
Posted by ブクログ
著者が遠い昔に読んだ本の記憶。
多くの大人が、幼少期に読書という体験をしているはず。
勿論、私もその一人だが著者の様に鮮明に何かを想起させるような物語はそんなに多くは持っていない。
その意味で著者はとても恵まれていると思う。
けれどもそれは、著者の感受性の豊かさにあるようにも思う。
本書を通して、若かりし頃の著者やその情景が読者にも感受性を分け与え、一緒に過ごしていたような身近な気持ちにさせる。
読書の楽しみを読者に強いることなく、自身の経験を通して教えてくれる。
表紙もとても素敵だ。
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書物をたよりに、フランス、イタリアへ。そして故郷である日本へ。
“吸い込まれるように”本を読み、“本にのめり”こんだ少女は、訪れた街や出逢った人を手掛かりに、書物の続きを紡ぎ出す。
須賀さんの、幼いころからの身の廻りに起きたこと、そしてそれらと処を隔てずに在る書物をめぐる記憶。
ワーズワース
“ダフォディル”
谷や丘のずっとうえに浮かんでいる雲
みたいに、ひとりさまよっていたとき、
いきなり見えた群れさわぐもの、
幾千の軍勢、金いろのダフォディル。
みずうみのすぐそばに、樹々の陰に、
そよ風にひらひらして、踊っていて。