あらすじ
独自の生活様式と思想を持ち、過酷な自然の中で生きる「大自然の民アボリジニ」。そんなイメージとは裏腹に、マイノリティとして町に暮らすアボリジニもまた多くいる。伝統文化を失い、白人と同じような暮らしをしながら、翻弄されて生きる人々……その過去と現在を描く。多文化主義オーストラリアのもうひとつの素顔。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
全く違うルーツや文化をもつ隣人と共存するということの複雑さや奥行きを平らかに伝えてくれた本。
ここまでまっすぐに相手と向き合って研究することは簡単なことではないと思う。
移民政策というものが重要になってきた今の日本にも決して無関係ではないテーマだと思うし、この本に出会えて良かった。
Posted by ブクログ
以前からオーストラリアの歴史に興味はあったけれども、今回一人旅をしてからオーストラリア関連の動画をよく見ておりその過程で知ったこの本。
出版年が古いと最新情報じゃないよなとか思うことはあるけれど、この本くらい本腰を入れてフィールドワークをしたうえで書かれた本が世の中にどのくらいあるのだろうか。
安易な結論づけや私情は挟まずに、情報量と公平性を重視したこういう本をたくさん読みたいと思った。
Posted by ブクログ
上橋菜穂子さんの研究者としての側面がうかがえる本。
実際に何度か現地に滞在して行った調査から、アボリジニの人たちの歴史、文化や民族集団としての復興の労苦などがわかる、
それと同時に、日本人とはまた違った家族のつながりや親族集団の構造などについても説明があり、非常に興味ぶかい。
Posted by ブクログ
隣のアボリジニ 上橋菜穂子 筑摩書房
小説家で有名な文化人類学者によるフィールドワークのお話
先住民は遠くに在りて思うもの
という意味から上橋さんは学者の調査研究としてではなく
海外派遣の教師という立場でオーストラリアに潜入して
アボリジニの生徒がいる小学校を選びました
日々の暮らしの中でできるだけ対等な関係のお付き合いから
彼らの伝統文化と現状の中での生き方を吸収しようと考えたようです
この本の全体を通して
客観性を保ちながらも心の機微に注目している様子がうかがえます
歴史を戻す訳にはいきませんし現状を受け入れた上で
過去も精算しつつ今から迎える未来を個人の単位でいかに棲み分けて
お互いを補い合いながら信頼感を育て自由自在性を確保できるかという
壮大で視野の広い意識を目指して
個々の存在と全体の調和を模索し続けることなのだと思う
Posted by ブクログ
「守り人」シリーズの上橋さんが文化人類学者とは知っていましたが、そのお仕事ぶりを描かれた本があったとは知りませんでした!守り人シリーズとちがって、ハードでシリアスな現代のアボリジニの生活。しかもこの新版の文庫の解説はなぜか池上彰さんです!
Posted by ブクログ
「異文化交流」「異文化共存」。 あまりにも手垢にまみれた感のあるこの言葉。 それぞれの言葉が持つスローガンは高尚なものだと思うし、決してそれらを否定するものではないけれど、その実現となると絶望的なまでに多くの問題を孕むものなんだなぁ・・・・ということを改めて再認識しました。 極論すれば異文化が共存するために必要なことは「侵略なしの相互不干渉」しかないのではないか・・・・と。 だいたいにおいて「農耕民族」と「狩猟採集民族」が同じ道義で生きているはずはないし、「土地を所有する」という考え方がある民族と「土地はみんなのもので個人に属すものではない」という考え方がある民族が同じフィールドに立てば摩擦が起こるのは必至なわけで・・・・・。
(中略)
はっきりしていることは、文化が違う者同士が接触する際に、決してそこには誰もが納得する「絶対的な優劣」は存在しないということを自覚するべきであるということだけなんだと思うんですよ。 例えば文化的な生活を営む私たち先進国の人間は、とかく原始的な生活を送っている人たちを「歴史の発展から取り残された可愛そうな人たち」とか「ある種のノスタルジーを感じさせる貴重な(稀有な)人たち」と考えがちだけど、それは自分の物差しだけで物事を見ているちっちゃな考え方だし、彼らからすれば余計なお世話なんだということをきちんと自覚すべきなんだと思います。
でも悲しいことに人類はその歴史の中でこのことに関して無自覚な行動を繰り返してきたし、その結果として今も尚世界のあちらこちらに「民族問題」「人種問題」を抱え続けています。 そしてそれを何とか解決しようとする善意の活動であってさえもその多くは「上から目線」で解決策を模索しようとしているような気がしないでもありません。
(全文はブログにて)
Posted by ブクログ
実は現代思想の入門書にもなっている。(勿論「アボリジニ」はそんなもののために存在しているわけではないが) 中学入試でここから出題しても良いのではないだろうか。
Posted by ブクログ
この本はアボリジニについて書かれた本ですが、いわゆるステレオタイプのアボリジニではなく、白人社会の中で、白人とともに暮らす人間味溢れるアボリジニの姿が描かれています。
文化も言葉も独自のものが薄れて生きながらも、力強く生きている姿は在日コリアンと重なる部分も多く、心強く感じます。
世界のマイノリティの存在や先住民の問題にも興味がわきます。
考えさせられる本ですが、とっても読みやすかったのでおすすめです★
Posted by ブクログ
土地への結びつき方が全く違うアボリジニ。
違うからって、お金の価値もわからないだろうとか決めつけられるのは悲しい。
人生って一生研究なのかもなぁと思わされる。
Posted by ブクログ
#2024年に読んだ本 55冊目
#10月に読んだ本 2冊目
著者自身と、著者が取材した
それぞれの人の、一人称というものを
大事にして書かれているのが誠実だと思う
Posted by ブクログ
本書を読んで、アボリジニのイメージが、非常に変わりました。町に住むアボリジニが、どのように悩み、苦労しながら生活してきたのかがよく分かりました。アボリジニの伝統を抱えながら、白人社会の中で生活する難しさ、そこから生じる様々な問題もありますが、明るく楽しく生活している隣のアボリジニが増えることを望みます。
Posted by ブクログ
人類学者の卵だった著者がオーストラリアに滞在し、街に住むアボリジニとイメージのなかのアボリジニのギャップにショックを受けながら、友情を通して〈理想の先住民〉ではない隣人としての姿を少しずつ知っていく過程を綴った体験記。
管啓次郎の『本は読めないものだから心配するな』で紹介されていたので手に取ったのだけど、本当にいい本だった。文章は優しくとても読みやすく書かれていながら、オーストラリアに限らずありとあらゆる文化において他者を尊重するとはどういうことなのか、考えるヒントをくれる一冊だと思う。
文化人類学というものがそもそも西洋のアカデミズムに拠っているという問題がある。先住民に〈野生〉の理想を押しつけながら、同時に資本主義的な観点からは〈役立たず〉のレッテルを貼り、社会から排除する。上橋さんの戸惑いもまずはそこから出発する。
一方で、今はもう街に暮らしているアボリジニも親戚の死などをきっかけに伝統社会に引き戻され、魔術師やトーテムがいる世界に入っていってしまうところはやっぱり面白く、興味を惹かれずにいられない。本書で取材対象になっているのは、日本文化の先生としてオーストラリア西部の小学校に赴任した上橋さんが友だちになったアボリジニの女性たちだ。彼女たちは幼い頃を白人が定めた居留地で過ごし、今は街で生活しており、父や夫はもう狩りをしていない。
面白いのは居留地時代がノスタルジーの対象になっていることだ。居留地はそれぞれの共同体が白人の入植前に暮らしてきた土地とは関係なく決められていたらしいのだが、それでもブッシュで動物や虫を捕っていた日々を語る口ぶりはにわかにいきいきしてくる。言葉や文化の伝授を禁止された時期があるせいで親世代と子世代は精神的な分断を抱えており、ブッシュの記憶はその溝を飛び越える大事なものだったのではないか。
日本でもアイヌや琉球の文化を持て囃す一方で、生活リズムの違いや宗教観・家族観の違いには理解を示さない、歩み寄らないという差別の歴史があると思う。「物質社会 VS 精神世界」だとか、「先住民の生き方こそが"本当"なのだ」とかいう話じゃなく、他者や他文化を理想化せずに尊重するにはこれから世界はどう変わっていかなければならないのか、と優しく問いかける一冊。
Posted by ブクログ
上橋さんの描く物語の文化の繊細さや作り込みの奥深さは、こうした異文化との交流の経験とそれに基づいたリスペクトがあるからこそ、生まれているのだと感じた
Posted by ブクログ
1990年から約10年間、上橋菜穂子は小説を書きながら、同時にオーストラリアの西部の町を訪ねて定期的に文化人類学のフィールドワークを行っていた。アボリジニ先住民族の調査である。
私は今、戸惑っている。彼女の仕事を純粋に文化人類学の成果として学ぶべきなのか。彼女の小説にどのように影響しているのか分析するべきなのか。とりあえず、この一文はその両方の立場をとる曖昧なものになるだろう。
一つの文化体系に、強力な文化体系が押し寄せた時に、その文化はどのような変容を起こすのか。例えば縄文文化に弥生文化が押し寄せたとき、どうなったのか。弥生文化体系は、イギリス西洋文化よりは遥かに弱かったはずだ。しかし似たような変容を遂げたのではないか。
アボリジニは奥地に「追いやられた」わけではなかった。多くはその土地に留まり、積極的に「都市化」した者もいれば、伝統集団からはじき出され行き場をなくしスラム化した者もいた。オーストラリアの場合、それが急激に進んだので、略奪、疫病による人口急減、アボリジニ狩り、保護の名による囲い込み、子どもの隔離(文化絶滅戦略)、修正反省による保護政策等々が進んだ。
それでもなお、アボリジニは完全に西洋文化に「同化」しなかった。
すっかり都市化した中で暮らしているローラでさえ、部族の日常単語や日常動詞(「どこへ行くの」「食べるものが欲しい」「見ろ」)などの言葉を覚えていたし、精霊が人を殺すことを信じていた。
この精霊の概念や呪術師などの存在は、言葉としては「守り人シリーズ」でも出てくるが、その意味合いは全然違う。しかし、小説に影響したことは間違いないだろう。
その文化体系を残そうとする1番大きな契機は、一族をいかに守るか、ということだろう。上橋菜穂子が調査した二つの親族の女たちは、ビックリするほどの子どもたちを産んでいる。あるお母さんは10人、あるお母さんは13人を産んでいた。当たり前のように再婚を繰り返している。この系図は古事記の神様の系図に似ている。まるで文化の途絶を、本能的に守ろうとしているかのようだ。
「誰もが百人以上の親族を記憶していた」「(都市部においても)葬儀と婚姻に関する厳しい決まりは、いまなお強く守られている」その他、再婚や事実婚、10代の出産、白人との婚姻には寛容だが、系譜上近い親族との婚姻は、絶対に許されないタブーなどの決まりもある。そして、子供は親族全体で育ててゆく。
だから、なおさら新しい部族との婚姻は、その部族の「成長」にとって、欠かせない出来事なのかもしれない。
目に見えない精霊の働きは、そのことを大いに助けるだろう。
上橋菜穂子のファンタジーの住民たちの文化が、機械文明を排し、しかし古代文明よりも進んでいるのは、「隣のアボリジニ」の文化が参考になっているのかもしれない。
Posted by ブクログ
文化人類学の本は、どの土地のものであれ、読んでいて辛い気持ちになることが多い。大体「文化人類学」という学問分野で「調べる側」に立つのは西欧をはじめとした先進国側が圧倒的に多いわけで、「調べられる側」に立つのはアフリカや中南米、アジア、太平洋島嶼国といった、調べる側にとって「遅れた国」。結果、白人から見て相手の文化がどれほど劣っているか、異なっているかという視点が絶対に入り得る。それは、調べる側が「後から入ってきた先進国」、つまりアメリカや日本、オーストラリアなどになっても、大して変わるものではない。
そんな中、この本は著者が9年近くをアボリジニとともに暮らして感じたり調べたりしたことを元に書かれているためか、文化人類学の本のようでもあり、アボリジニの生活に関するエッセイのようでもあり、非常に読みやすく、公平な立場で書かれ、かつ読み応えのあるものになっている。
著者は序章で言う。
「この本で描くことが過度に一般化されて理解されてしまうことを防ぐために、私-日本人の未熟な娘-が、どんな風に彼らと出会い、どんな事件を経て、どう彼らを理解していったのか、それがきちんと見える形で語ることを心がけようと思っています。これからお話しすることは、あくまで私の体験という狭い窓から覗いた世界でしかないのですから。」
まさにこの視点を欠いた「過度な一般化」が、「貧しくて文明化されていない、可哀そうな途上国の少数民族」という固定観念をもたらしてしまうのだと思う。
逆に、この視点を持つことができれば、どんな土地にも「可哀相な人々」なんていない、ということがストンと理解できる。この考え方は、どの国のどの民族や文化に対しても適用できる普遍的で重要な視点。自分が妙な偏見に囚われないようにするためにも、今後も持ち続けていきたい。
Posted by ブクログ
オーストラリアの先住民であるアボリジニと、入植者である白人(イギリス人)との間に、様々な格差や文化的な違いがあるということは何となく知っていたが、アボリジニ同士においても、対立に似たような感情があることを初めて知った。
アボリジニの世間においても、「白人的」な部分と「アボリジニ的」な部分があり、均質ではないということ。
都会に出て行ったアボリジニと、地方のアボリジニでは生活スタイルが違うし、考え方にも隔たりが起きている。
それらは、自然の成り行きなのだろうけれど、元をただせば入植者の白人によってもたらされたものである。
アボリジニに対する白人による救済措置である、生活保護だって結局は、彼らを怠惰にする一因になってしまった。
アボリジニの生活を分断したこと、短絡的な救済措置、それらは白人の利己的発想のようにも感じる。
以前に読んだ台湾の話(「台湾生まれ日本語育ち」)と同じように、ここにもよそ者によってもたらされた悲しい歴史があった。
Posted by ブクログ
上橋菜穂子 「 隣のアボリジニ 」文化人類学の本。民族=文化であることがよくわかる。
感想
*自分の文化を語れなくなった民族は 民族とは言えない
*異文化差別の中では、文化より 自分を守るべき
*多文化の共生は難しい→文化人類学の使命は 文化と民族を守ることなのか とも思った
アボリジニ
*アボリジニの考え方は 全て 精霊に関わっている
*死者の名を口にしてはいけない慣習
*アボリジニは 生への執着が薄い→死期を悟ると諦める
文化人類学
*研究者自ら 異文化で暮らし カルチャーショックを研究→文化の現地調査
*研究者が 現地に入った瞬間 観察対象に変化を起こす
Posted by ブクログ
オーストラリアの先住民アボリジニを文化人類学者の立場から調査するため、10年間教師として生活を共にした。気遣いながら時間をかけて聞いたアボリジニの友人たちの話から、隠れていた実情が徐々に見えてくる。白人社会の外側に隔離され「原住民」として区別される。一方では白人社会に同化を強制されるものの、古いアボリジニの親族や法(おきて)の束縛から解放されずにいる地方都市に生きるアボリジニの歴史と苦しみがわかる。アボリジニだけでなく、世界のどの地の先住民も同じように排斥・隔離・共存の歴史をたどって、自らのアイデンティティに誇りを持ちながらも、徐々に失っていかざるを得ないのだと納得した。
Posted by ブクログ
著者の正直でリアルな描写は嫌味がなく、読みやすい。
大陸中央部の乾燥地域、北部の亜熱帯地域は白人にとって魅力的でなく、その地域の先住民は、白人との接触が遅れ、自分たちの文化を守れている。
一方、温帯の南部と海岸沿いの人々は、植民政策の影響をもろに被っている。
20世紀、政府は、「原住民」の親元から子供を「連れ去り」、白人の教育を受けさせた。―「盗まれた世代」
特に混血の子供の養育状況が不適切だと連れ去られてしまうため、みんな一生懸命清潔にしていた。
アボリジニは飲酒を禁止され、18時になると町の道路からいなくならないといけなかった。
伝統的暮らしから離れた「まちのアボリジニ」の複雑で曖昧なアイデンティティ。
Posted by ブクログ
筆者が現地に住み込んで経験した、白人の隣人として町に住むアボリジニ達の日々の暮らしを描いている。
自分が持っている「自然の民アボリジニ」というイメージが良い意味で壊された。「個人の顔の見えない、塊としての民族イメージ」というものが、いかに見当違いに成り得るかに気付くことができる本。
Posted by ブクログ
〈守り人シリーズ〉や『獣の奏者』で知られる著者の文化人類学者としての仕事。
「大自然の民」というイメージとは裏腹に、マイノリティとして町に暮らすアボリジニ。
一緒に生活して関係を作りながら、インタビューを重ね、彼らの声を引き出していく。
混血を繰り返し都市の生活に順応しながらも、白人とは違った親戚づきあいや世界観を持っている彼ら。差別を受けてきた歴史、それは悲惨そのものであるのだが、分離や保護といった政策には功罪両面があることも否めない。現実はこんなにも曖昧で複雑だ!「気高い大自然の民」あるいは「飲んだくれて暴れるならず者」といったステレオタイプにはまらないよう、ひとりひとりの歴史と生活を丁寧に描こうとする誠実さに感銘を受ける。
彼女が構築するファンタジー世界は緻密な設定と歴史観に裏打ちされていると感じるが、そのルーツがどこにあるのか、この本を読むと感じることができる。
上橋ファンタジーのファンにはぜひおすすめしたい一冊。
これを読んでから小説をまた読みたい。
Posted by ブクログ
上橋菜穂子らしい、丁寧で誠実な民族誌。彼女の小説が、例えファンタジーであってもリアルな理由がわかる。人を見る目が暖かく鋭い。陳列棚や画面の向こう側ではなく、こちら側として描かれている。
Posted by ブクログ
白人社会とアボリジニとしての生活の間に生きる人々の話。同じアボリジニといっても白人社会の中で文化が失われつつも生きる人々、アボリジニの文化を大切に生きる人々と様々で決して一括りにしてはいけない。そして差別されてきた歴史と今の残るものを正負両方の側から共に描かれています。実情を知ると自分がいかに無知であるか分かってしまうから辛いです。でもだからといって知らないままでよかったなんて思いはしないし、したくもありません。辛い生活の中でも明るく生きる人々がいることを忘れてはいけないと思いました。
Posted by ブクログ
「守り人シリーズ」や「獣の奏者」シリーズでお馴染みの上橋さんの、オーストラリア・アボリジニについての本です。エッセイ風な書き方なのでとても読みやすかったです。
内容紹介を、表紙裏から転載します。
『独自の生活様式と思想を持ち、過酷な自然の中で生きる「大自然の民」アボリジニ。しかしそんなイメージとは裏腹に、マイノリティとして町に暮らすアボリジニもまた多くいる。伝統文化を失い、白人と同じように暮らしながら、なおアボリジニのイメージに翻弄されて生きる人々。彼らの過去と現在を生き生きと描く、作家上橋菜穂子の、研究者としての姿が見える本。池上彰のよく分かる解説付き。』
アボリジニ研究で西オーストラリアに行っていたと言うと、「アボリジニの研究なら、本物がいるところに行かなくちゃ、北の方とか砂漠とか」とタクシーの運転手さんに言われてしまう上橋さん。本物って何?
実は上橋さんもはじめにアボリジニ研究をしようと思った動機は、「本物の」アボリジニのイメージに惹かれたためでした。
でも1990年当時、日本ではほとんどアボリジニの情報がなく伝手もなかった上橋さんは、海外で日本のことを教える民間プロジェクトに参加してオーストラリアに行きました。どこへ派遣されるか賭けみたいなもの。そして派遣された西オーストラリアの小さな町ジェラルトンで出会った混血の(タクシー運転手が言うところの本物でない)アボリジニたちが、上橋さんを変えたのです。
読みながらいろいろなことを考えたので、本書の内容から少し外れてしまうかもしれませんが思ったことを書きます。
人類は世界中に広がったけれど、大雑把に分けると二つの文化があったのではないかなあ。土地を所有する人たちと、土地を所有しない人たち。
もちろん土地を所有する人たちもずっとそこに居続けないこともあるけど、自分の住む土地を自分のものだと思い、管理しようとする。
土地を所有しない人たちは、そもそも土地を自分のものにするという考えが浮かばない。どうやったら自分の物に出来るっていうんだ?
世界が広くて人類がぽつぽつと離れて暮らしていれば、それぞれ軋轢なく暮らせるけど、もしその二つの勢力が出会ったら・・・。土地を所有する文化の方が勝つようです。だって、土地を所有する発想がない人たちがまごまごしている間に、既成事実を積み上げた土地所有派がその土地に居座ってしまうのですから。
日本ではおそらく縄文と弥生の文化交代がそれだったのでしょう。北海道で新政府とアイヌ民族との間で起きたことは、オーストラリアとそっくりだと思いました。
アメリカでのインディアンと白人の衝突もそうだなと思って読んでいたら、驚くことが書いてありました。
シッドおじさんが亡くなり、ローラが400キロも離れたシッドおじさんの属する場所まで、おじさんを埋葬しに行った話です。シッドおじさんはそれを望まなかったし、ローラもやりたくなかったのにそうせざるを得ない状況に追い込まれて。
最近読んだアメリカ開拓時代の小説(小説だけど事実をもとにしている)に、出てきた話にそういうのがあったのです。白人が開拓している森で、そりにおじいさんの遺体を乗せ、ある場所を探してさまよっているおばあさんと男の子のインディアン。おじいさんが生まれた場所に葬るために。探している二人はそこに行ったことがなかったのに、言い伝えられた言葉通りの場所を探していました。白人も協力して探し当てることが出来ましたが。
インディアンも土地を所有しない文化でした。そして白人に負けました。土地は所有しないけれど、逆に生まれた土地に縛られる文化なのか!オーストラリアとアメリカで、しかも時代も違うのに同じような発想で行動している人たちがいたことにびっくりしました。
昨年の春、そのものずばり「オーストラリア」という題の映画を見ました。ニコール・キッドマン主演で、かなり大々的に宣伝したのにどうやらあまりヒットしなかったのですが。私は、壮大なわりにパッとしない映画だったな、しかも日本軍のこと史実と違う・・・、全体としては悪くはなかったけどという感想を持ちました。
だけど、この本を先に読んでたらもっと違う見方ができたと思います。(日本軍のことはまあ置いといて・・・)アボリジニのことで、いろいろ思い当たるの。アボリジニについては、かなりきちんと詰めていた映画だったのだろうと、この本を読んだ今ならそう思えます。
つくづく、知識がないと受け取れるはずのものが受け取れないんだ!と思いました。
たぶん上橋さんの小説がヒットしたおかげで(ヒットしてますよね~)、この本が文庫化されたのかな?
そう思うと嬉しいです。
Posted by ブクログ
これを読むまで、アボリジニ=草原で暮らす人々というイメージでした。
本書は、そうではなく、都市生活に混じって暮らすアボリジニ達の暮らしに焦点をあてています。ステレオタイプな考えや知識にとらわれていることは、きっと自分が思うよりたくさんあるのだろう、と気づかせてくれる本でした。
非常に勉強になりました。
Posted by ブクログ
ふむふむ。読みやすい。
先住民、とかいうステレオタイプってなんの意味もないなというのがよくわかる。皆現代を生きているのだから。しかし呪術師はおっかねえ。
Posted by ブクログ
アボリジニの若者が底なしの退屈の闇に浸かり、男達は酒を飲み虚無を埋める。
漠然とした不安と不満。
国からの補償で酒を飲む人たちも、本当に好きでやっている訳ではないだろうし、健全に働けない心の状態になったら背景は見過ごせないと感じた。
Posted by ブクログ
先住民の文化がどんどん消えていく。それはもう止めることはできないんだろうなと思う。だけど、こういう風に自然とともに暮らしてきた人たちがいたことを忘れないでいたい。