【感想・ネタバレ】杯(乙女の本棚)のレビュー

あらすじ

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人気シリーズ「乙女の本棚」第45弾は、文豪・森鷗外×イラストレーター・今井キラのコラボレーション!
小説としても画集としても楽しめる、魅惑の1冊。全イラスト描き下ろし。

「わたくしの杯は大きくはございません。それでもわたくしはわたくしの杯で戴きます」

夏の朝、温泉宿から泉に向かう七人の少女たち。そこで、彼女たちとは様子の異なる第八の少女と出会う。

森鷗外の名作が、乙女心をくすぐる作品で知られ、本シリーズでは太宰治『待つ』、『女生徒』を担当するイラストレーター・今井キラによって描かれる。名作文学と現代の美麗なイラストが融合した、珠玉のコラボレーション・シリーズ。
自分の本棚に飾っておきたい。大切なあの人にプレゼントしたい。そんな気持ちになる「乙女の本棚」シリーズの1冊。

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感情タグBEST3

Posted by ブクログ

とても読みやすくなによりイラストが可愛い!娘たちが集合している所がなんとも可愛らしい。ふわふわしてる感じのイラストで好きでした。

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2025年04月27日

Posted by ブクログ

ネタバレ

十二歳ぐらいの七人の少女がきゃいきゃいやっていたところに現れた、十四五と思われる西洋人形のような"平和の破壊者"。

少女たちと同じように、彼女も泉を汲んで飲もうとするのだが、取り出した杯は黒ずんでいて馬鹿に小さく、少女たちの大きな銀の杯とくらべてずいぶん見劣りがする。
少女たちはそれを口々に貶しながらも、哀れみから「あたいのを借そうかしら」と差し出すが——

「わたくしの杯は大きくはございません。それでもわたくしはわたくしの杯で戴きます」

という凜とした主張は、なにかしら人生に対する訓戒のように思えた。
パステルかつメルヘンながら毒を感じる今井キラさんの絵が、森鴎外の文章と絶妙に融合する一冊。

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2025年05月01日

Posted by ブクログ

いわゆる文豪といわれる方々の本を普段読まないからか、内容の理解はできていないと思います。ただイラストが綺麗で、なんとなくわかった気になって楽しめます。

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2025年08月22日

Posted by ブクログ

乙女の本棚シリーズ。
それぞれ自分の杯を持った女の子達のお話。

七人の日本人の女の子達と、一人の外国の女の子。杯の形や大きさ、色の違いは、おそらく何かを示唆しているんだろうと思ったんですが…よく分かりませんでした。うーん、森鴎外は何を表現したかったんだろう。

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2025年07月30日

Posted by ブクログ

森鷗外なんて普段読みませんが、イラストに惹かれて。
女子が集まると「からかい」「いじり」みたいなの起きますよね。集団だと強くなっちゃうみたいな……。
第八の娘から聞き慣れない言語が出た事で、関わるのをやめた。
作品を深く理解するのは難しい〜!

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2025年07月27日

Posted by ブクログ

森鷗外文学忌、鷗外忌
1910年明治43年 中央公論初出

藍色の浴衣の七人の少女達
それぞれ銀の杯を持ち
泉の水を汲んで飲む
杯には「自然」の二文字
最後に西洋の少女が小さい黒い杯で水を汲む

解説等で「自然」が自然主義文学の表現としたりするが、それにしてもそれではあまりお洒落でない
おそらく少女達の人数にも舞台が湧き出でる泉であることにも意味があるのだろうとは思う
そこに突然二文字だけが具体的
日本人の徒党を組む的な性格に対する抵抗心?
今井キラさんのロリータっぽい森鷗外

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2025年07月09日

Posted by ブクログ

 森鷗外のこの作品は「乙女の本棚」第45弾として取り上げられています。
 なぜこの作品が取り上げられたのかはよく分かりません。夏の朝に7人の11歳か12歳くらいの女の子たちが、杯で泉の水を飲むという風景が印象的だからなのかもしれません。
 出版社のホームページ内で、イラストを手掛けた今井キラさんのコメントに「杯は読む人ごとに形を変えて誰の心にも響くのだと思います。」と書かれていますので、わたしなりにこの作品を読んでみようと思います。

 読み始めから、わたしの気持ちにスッキリ入ってこない描写がありました。(何か裏に秘めたものがある薄気味悪さというか。。。)

まず、7人の少女たちを描写する表現です。
「遅れ先立つ娘の子の、同じような洗髪を結んだ、真赤な、幅の広いリボンが、ひらひらと蝶が群れて飛ぶように見えて来る。
 これもお揃(そろい)の、藍色の勝った湯帷子(ゆかた)の袖が翻る。足に穿いているのも、お揃の、赤い端緒の草履である。」
 わたしには、殊更に「同じような」「群れて」「これもお揃の」「のも、お揃の」という[同じ]を強調する表現が、同類で群れていることを奇異に思って批判的に描いているように感じました。

次に「この七顆(か)の珊瑚の珠を貫くのは何の緒か。誰が連れて温泉宿には来ているのだろう。」と書かれていますが、最後まで誰が少女たちを連れてきているのかは明らかにされていません。何か気持ち悪いです。

そして「銀の杯はお揃で、どれにも二字の銘がある。それは自然の二字である。妙な字体で書いてある。」です。単に水を飲むのなら、なぜこの描写が必要なのでしょうか。

さらに、この少女たちが自分たちの杯で泉の水を飲んでいると、第八の娘(西洋人なのか黄金色の髪で14歳か15歳くらい)が背後から姿を現します。彼女が持っている杯の描写です。「小さい杯である。どこの陶器か。火の坑(あな)から流れ出た溶巌(ようがん)の冷めたような色をしている。」全然キレイではありません。
その後の「七人の娘は、この時始てこの平和の破壊者のあるのを知った。」という表現。ここまで大げさに書くことでしょうか。

第八の娘は、七人の娘たちが自分たちの美しくて大きい銀の杯を貸してあげるという言葉に反して、こう言います。
『Mon verre n’est pas grand, mais je bois dans mon verre.』
(「わたくしの杯は大きくはございません。それでもわたくしはわたくしの杯で戴きます」 作中の訳です)
 なぜフランス語なのでしょう。なぜ前置詞がdans(の中に・の中の)なのでしょう。  

また、第八の娘の所作の描写はこうです。「永遠の驚を以て自然を覗いている。」「第八の娘は両臂(りょうひじ)を自然の重みで垂れて、サントオレアの花のような目は只じいっと空を見ている。」七人の娘たちの杯に刻まれた「妙な字体」の「自然」という銘との対比が明らかな気がします。

 で、何かスッキリしないので、少しネットで調べてみました。すると以下のことが分かりました。
① 鴎外の『杯』は、1910年1月に『中央公論』で発表された作品でした。
② フランス語の表現は、Alfred de Musset(アルフレッド・ミュッセ)の詩『La Coupe et les Lèvres — Dédicace(カップと唇 - 献呈)』(1895年版)からの(おそらく)引用でした。
③「明治時代の森鴎外は、フランスの作家エミール・ゾラの提唱する「自然主義文学」を日本に紹介します。それは、「物事を正確に描く」、いわゆる「自然科学主義」。ところが、当時の小説家は、「正直に描く」と誤解して受け取ります。つまり自分の人生を赤裸々に描く「独白」のようなものになっていきます。」(読書会コミュニティより)という記述を見つけました。

ミュッセの詩の該当箇所を引用します。(『 』はわたしが付けました。訳はGoogle訳です。)
On m’a dit l’an passé que j’imitais Byron :
Vous qui me connaissez, vous savez bien que non.
Je hais comme la mort l’état de plagiaire ;
『Mon verre n’est pas grand, mais je bois dans mon verre.』
C’est bien peu, je le sais, que d’être homme de bien,
Mais toujours est-il vrai que je n’exhume rien.
( 昨年、私はバイロンの真似をしていると言われました。
私を知っている皆さんは、自分が知らないことをよく知っています。
私は死のような盗作の状態が嫌いです。
『私のグラスは大きくありませんが、グラスから飲みます。』
善良な男であることは、私が知っていることです。
しかし、私が何も発掘していないのは事実です。)

 これで、前置詞dans(の中に・の中の)の理由が分かります。盗作が嫌いだから小さくても自分の杯の「中のもの」を飲むのです(他人の杯の中のものではなくて)。通常なら、単純にJe bois un verre d'eau.(杯1杯の水を飲む)とか、Je bois avec mon verre.(私の杯を使って飲む)と書くでしょうから。
 1895年版のミュッセの詩集を知っていたら、1910年に鴎外が『杯』に用いてもおかしくありません(と思います)。

 そして、上記③のフランス発の「自然主義文学」が誤解されて伝わったという説を用いると、七人の同じような恰好の娘たちが持っている「奇妙な字体」で刻まれた「自然」の銘が入った杯の意味と、それを使って(社会という)泉から水を飲むという行動が説明でき(る気がしま)す。フランス語の詩を引用した意味も分かり(る気がし)ます。

 つまり、鴎外は、この作品をとおして、日本で(間違って)横行する「自然主義文学(一派)」のことを揶揄、またはその状況のことを危惧していたのではないでしょうか。(これで勝手にスッキリしました。)

 上記はあくまで個人の感想(妄想)として聞いていただくことにして、
 森鴎外の格調高い文体と美しい今井キラさんのイラストのコラボレーションをぜひ本書でお楽しみください♡
 
最後に好きな自然描写の一箇所を引用します。
「漂う白雲の間に漏れて、木々の梢を今一度漏れて、朝日の光が荒い縞のように泉の畔に差す。」
美しいですね♡

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2025年05月25日

Posted by ブクログ

なるほど、こうすれば鴎外の小説を現代の少年少女に届けることができるのか。いや、この表紙では、少年は読まないか。イラストはロリータの世界では有名な人らしい。この作品にこのイラストは、絶妙な感じはする。次は太宰の『女生徒』に挑戦してみるか。

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2025年04月29日

Posted by ブクログ

はい、43おネェはお待たせしました『読まずにレビュー』第7弾です!(キュオーン!)

*『読まずにレビュー』とは?
表紙と題名、作者のみを手がかりに本の内容を推理し、感想まで書いちゃう!という神がかったレビューです!(先に表紙拡大して確認してみてね)



はい、女子会!
もう女子会以外の何ものでもないです
ごめん、こんな発想しか出てこなくて
でも、どう見ても女子会
いわゆる女子だけの飲み会

しかも制服が同じ(え制服なん?)
なんで、同じ会社の人ですね
同僚ですよ
会社帰りかな?
職場の愚痴とかね、上司の悪口とかで盛り上がるわけですよ
しかもこの頃なんてねセクハラなんて言葉もありませんでしたからね
日々お尻とか触られまくりですよ
でもね!そんなことされて嫌な気持ちになるのは昔も今も変わらんわけですよ!
許すまじ!許すまじクソ上司ムガァ!

そして『杯』ですね
全員手に持ってます
でも、「杯」というより「盃」の字がしっくりくる感じよね
兄弟の契りとか、固めの盃とかさ

そ、そうか!分かったぞ!

【あらすじ】
森尾商會に勤める同期の女子社員4人は日々、社長の森尾の横暴に悩まされてきた
パワハラモラハラセクハラは当たり前で、毎日が地獄
しかし、森尾に借金を抱える4人は会社を辞めることもできずに言いなりになるしかなかったのだが、遂に我慢の限界が

そして4人は森尾の殺害を計画する
固めの盃を交わした4人は計画を実行に移すも、森尾は完璧に仕掛けられた罠をスルスルとすり抜けけていく

そんなはずは…ま、まさか4人の中に裏切り者が?!

【感想】
とんでもないスピード感で進行するサスペンス!完璧に姿を隠す裏切り者
4人しかいないのに最後の最後まで裏切り者が誰だか分かりませんでした
そして固めの盃に込められた意味が明かされた時の衝撃と言ったらなかったです
美貌の4人の持つ裏の顔もそれぞれ怖かったー
やっぱり女は怖いのぉ〜w

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2025年04月12日

Posted by ブクログ

 乙女の本棚シリーズから、森鴎外さんと今井キラさんのコラボ作品『杯』です。今井キラさんは、このシリーズでは「待つ」と「女生徒」をすでに手がけてらっしゃいます。パステル調の淡い色使いが特徴の、可愛いイラストを描かれるイラストレーターさんです。この作品も、めっちゃ可愛く、“乙女の本棚シリーズ”らしい作品です。

 ストーリーにも触れましょうか!泉の水をキレイな銀の杯を持って飲みに訪れる7人の可憐な少女たち、そこに青い目をした異国の少女が小さな黒い杯を持って訪れます。7人の少女たちは、自分たちの持ってきた杯を異国の少女に貸そうとしますが…。

 最初に思ったのは、この泉の成分って普通の水なのかな??と…なんか、若返りの聖水とかあるんじゃないかと勘ぐってしまいましたが、そこは普通の水っぽい…です。
あと『杯』っていうタイトルで連想するのは、やっぱお酒ですよねぇ…!水を『杯』で飲むっていうのも…ね!こんなこと思うのは私だけかな(^-^;

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2025年04月12日

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