あらすじ
紅灯の街,日本橋を舞台に,芸者・お孝と清葉,医学士・葛木晋三,商人・五十嵐伝吾,四人の男女が激しく切なく交錯する物語.時代の風潮に抗して,女性に凛々しさ,哀しさを求めた作家は,華麗な言葉を全篇にまく様にして,愛の観念を謳い上げた.鏡花一代の名作,近代文学不朽の古典.(解説=佐藤春夫・吉田昌志)
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Posted by ブクログ
言葉のひとつ一つを必死に受け止めて頭が痛くなります
そこが気持ちよくて中毒になります
鏡花の作品は戯曲もあり舞台にかけられると
その言葉が立ち上がります
机の上でそれを想像できる偉大な作家だと感じます
Posted by ブクログ
巡査がやたらに (良い意味で) キザすぎて、鳥肌がたつ。「同じく妻。」と書いた職質手帳の一ページを破りとってお孝に渡す場面とか、ゆりかもめで読みながら一人で鳥肌ぶわーってなった。残念なのはゆりかもめの始発が新橋で、最近まで日本橋と新橋をごっちゃにしていた自分のいい加減さ。
しかしあれはどこの方言なのか、どうでもよいがとても気になった。西日本だろうということしかわからん。少なくとも作者の出身地である北陸の言葉ではなかった。
泉鏡花の作品は本当に「序盤の」敷居が高い。大概の小説は、何となしに読んでいても表層だけは少なくとも理解できるのに、泉鏡花の作品は表層すら理解できない。何度同じところを読み返しても意味がわからない。あれは本当に絶望感が心に湧く。
はじめての泉鏡花の作品に『高野聖』を読んだ時は、あの薄い本を読むのに数日かけても数頁と進まず、ヤケクソになって無理やり進めたらいつのまにかトンネル抜けていてびっくりしたのを覚えている。謎でしかなかった文章の意味が一瞬のうちに明らかになり、中盤すぎると怒涛の如く場面が展開され、多少意味の取れないところがあっても寧ろ気にならなくなるから不思議。
『日本橋』も同じだった、とはいえ、やはりそれでも最後までよくわからない場面はいくつかのこる。個人的にわからないので多いのは江戸文化系の知識。『歌行燈』のヤジさんキタさんのオンパレードにはさすがに面食らった。『日本橋』なら忠臣蔵(?)か。もはやあの序盤の子供らが騒ぎながら成りきっている役が何を出典としているのかすら知らないから完全に置いてけぼりを食らった。
夏目漱石の小説も大概脚註は厖大な数でページも嵩むが、あの人の作品の脚註は大概が漢籍系の語彙や古典。対して泉鏡花のはもっと庶民的なのが多い。それはどうも師匠の尾形紅葉の系列だから?でも『色懺悔』とか『金色夜叉』とかは泉鏡花の小説みたいな変態的な脚註はなかった気がする。
溜めている本が多すぎて今回はさーっとしか読めていない。落ち着いたら是非ともゆっくり読み耽りたい。
「鏡花は正しくもう旧い。理由はそれがあまり文学だからである。今日のためにこそ惜しめ、鏡花のために惜しむ要は更にない。」(解説 p.249 佐藤春夫)
泉鏡花の作品は最近読みだしたばかりで、まだ有名どころを漁ったにすぎないものの、この人のこの一言には共感できるところが多い。
ただ、吉田昌志の解説でも言われているように、佐藤春夫がいうところの『日本橋』が自然主義云々というのは当たらないと思う。
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p.28
「お染久松が一寸戶惑ひをしたと云ふ姿で、火の番の羽目を出て、も一度仲通へ。」丁稚久松と主家の娘お染の駈落ちが浄瑠璃になったことからこの題材を通称でお染久松というらしいが、お染久松が戸惑いをした姿とは……。
Posted by ブクログ
鏡花作品は「山海評判記」(集成10巻)で暗礁に乗り上げかかっている僕だが、この「日本橋」は、初めどこか退屈に思われながら、さながら色褪せた衣が、内側に絢爛な錦絵を隠していて、それが次第に現れ出て来て、そこで、古びたような衣の表側の美にも改めて気づく、そのような目覚ましいものに感じられた。
星ひとつ減らしたのは、当時の見識では仕方なかったことかもしれないが、アイヌ(と呼ばれた当人は民族ではない)を蔑称として扱った一幕があったからである。
Posted by ブクログ
BSの「ぶらぶら美術館」で小村雪岱を知った。日本画家でデザイナー的な事もこなし、資生堂書体を作った人。(番組終わってしまって哀しい。五郎さんの博識案内をもっと聞きたかった。)
番組の中で紹介されたのが、泉鏡花のこの本。
正直、難しいかなと躊躇した。天守物語とか読んでいるけど、世話物というか現実の話は敷居が高いと感じていた。
(引用)
この声に、清らかな耳許、果敢なげな胸のあたりを飛廻られて、日向に悩む花がある。盛りの牡丹の妙齢ながら、島田髷の縺れに影が映す‥肩揚を除ったばかりらしい、姿も大柄に見えるほど荒い絣の、聊か身幅も広いのに、黒繻子の襟の掛かった縞御召の一枚着、友禅の前垂、同一で青い帯。緋鹿子の背負上げした、それしゃと見えるが仇気ない娘風俗、つい近所か、日傘も翳さず、可愛い素足に台所穿を引掛けたのが、紅と浅黄で羽を彩る飴の鳥と、打切飴の紙袋を両の手に、お馴染みの親仁の店。有りはしないが暖簾を潜りそうにして出た処を、捌いた褄も淀むまで、むらむらとその腕白共に寄って集られたものである。
漢字には細かくルビがあるし、巻末には脚注があるけれど、上の文章を何度読んでも悲しいかな、その風景は見えてこない。5,6回読み直し、あ、飴を買いに来たのねと分かった。一文が長いし、比喩表現がボンボン入ってくるから文意が取れないんだな。まったくお手上げという訳ではないけれど、細かい部分で理解できたのか、自信がない。
以下、幾つかの疑問。
・お孝の気狂いが唐突に感じた。
・葛木の姉に対する憧憬。姉に似た人形への思い。清葉への恋心は読まされたけど、お孝に口説かれて(?)、乗り換える辺りが、う~ん、それでいいのかとも思う。
・葛木が仏門に入り、また還俗するのも唐突だと思う。
つまり、読切れていないだと思う。
帯に玉三郎さん主演のシネマ歌舞伎の案内があった。シマッタ。見ておくべきだった。