あらすじ
動物の権利運動の理論的基盤
不滅の名著、30余年ぶりの全面改訂版を完全新訳。最新のデータと議論にもとづき本文の3分の2を書き換え、さらに気候変動や新型ウイルスなど新たなトピックを盛り込んで、21世紀の緊急課題に応える。序論=ユヴァル・ノア・ハラリ(『サピエンス全史』)。
各界識者絶賛
「すべての存在に公正な社会を目指す新世代の意欲をかきたてるだろう」──ホアキン・フェニックス
「70年代に本書を読んで以来、私は肉を食べるのをやめた。もしこの改訂版を読んでいたら、もっと早くビーガンになっていただろう」──ジェーン・グドール
「動物解放運動の原点ともいえる必読書が新たに生まれ変わった」──J・M・クッツェー
「シンガーの徹底した利他主義が我々を不快にするなら、それだけで本書を読む理由がある」──リチャード・ドーキンス
【目次】
序論 ユヴァル・ノア・ハラリ
二〇二三年版緒言
第一章 全ての動物は平等である
あるいは、人間の平等を基礎づける倫理原則が平等な配慮を動物たちにも広げるべきだと求める理由
第二章 研究のための道具
違う、これは人命を救うこととは何の関係もない
第三章 工場式畜産に抗して
あるいは、あなたの晩餐が動物だった時に起きたこと
第四章 種差別なき生活
気候変動と闘い、健康な生活を楽しみながら
第五章 人の支配
種差別小史
第六章 今日の種差別
動物解放への反論と、その克服による前進
謝辞
レシピ集
訳者解題
原注
索引
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
動物の苦しみに配慮すべきだ、という。それは、人間の平等を基礎づける理論が、動物にも拡大されるべきだという主張でもある。
様々な角度から論証がなされているが、特に印象に残ったのは冒頭の功利主義的論証だ。苦しむ能力を唯一の基準とし、それを有する主体に平等に配慮すべきであり、動物も苦しむからだという。
なぜ苦しむ能力の有無で線を引くのか?それ以外の基準で、万人の平等と衝突しないものを探すのは難しい。例えば、もし認知能力の差を理由に差別を認めるなら、幼児や障がいを負った人への差別をも許容してしまう。人種や性別による線引きも論外だ。(何が最善の基準かは、演繹的には証明されないのかもしれない。そうだとしたら、今ある選択肢からどれかを選ばざるを得ない問題なのだろう。私は上の基準より納得いくものを挙げられないが、代案は提出されているのだろうか?)
ここで、苦しむ能力を他の基準(理性や言語使用、自己意識など)と並列される基準のひとつとするのでなく、あくまで唯一の基準とした点は注意すべきだろう。これは、他の基準が優先されることで、苦しむ者の中の一部が排除されてしまうことを避けるためだ。
また、動物に苦しむ能力があることは、科学的に示されているという。著者は「科学者がそう言っている」というだけでは終わらせない。私のような生物学に全く無知な人間にも分かるように、「科学的」とはどういうことか、なぜ動物がそういう感覚を持つという仮説に説得力があるのか、を示してくれている。
以上の二点(苦しみへの平等な配慮と、動物が苦しむということ)を認めるなら、動物の苦しみにも配慮しなくてはならない。
これを読んだ直後は、納得した、ように思えた。ただ疑念もある。私は自分に危害を加えてくる人間に対して、あるいは虫(痛みを感じる証拠がいろいろと挙がったとして)に対しても、積極的に苦しみを減らし幸福な生を送ってほしいとは思えるだろうか。そうでなければ、私は豚や牛が愛らしいものと思っているから、その保護に同意できただけではないのか。苦しみの能力ではなく、結局のところ自分は主観的感情で線を引いている気がした。
著者は、個人の感情に訴えることで、主張が受け入れられるかどうかは個人の自由、という問題になってしまうことを避けたかったらしい。そうではなく、事実と論理に基づき、それが正しいという意識で以て行動を変えたいという。
私のような感情的な読者に対し、著者はどう思うのだろうか。
さて、著者は動物の苦しみへの配慮の具体的行動のひとつとして、菜食への移行を挙げる。
採食が実際に動物の苦しみを減らす、という現実的な効果への言及には、強く行動を促された。いわく、私たちが動物の肉を買わなければ、販売店は発注を減らす可能性があり、(不買行動にはその期待値がある)それは工業的畜産で苦しみに満ちた生を送り殺される動物の数を直接減らす、という。対して肉を買うことは、メーカーに資金を与え、それを使って工業的畜産の残酷さを覆い隠し、禁止法の成立を阻むという形で、動物の殺害を支援する。
私は正しいと信じつつも、無力感を言い訳に行動に移さないことが多々あった。選挙も、環境問題もそういう面がある。肉食においては、そうした言い訳は通じないようだ。
しかも、菜食は他の価値を犠牲にするものではない、例えば、動物の苦しみと人間の苦しみのどちらかを選ばざるを得ない、といった問題ではないようだ。
動物を食べなければ人間が飢える、というのは全くの間違いだ。畜産動物が摂取するカロリーが全て肉に変わる訳がなく、菜食を選択した方が食料は増える。そればかりか、肉食は環境さえ破壊する。
つまり、肉食と菜食の選択は、譲れない大事な価値の選択ではない。動物の想像を絶する苦しみと死、それに加えて食料や環境を犠牲にすることと、人間の味覚の満足との選択だということだ。ここでは倫理学の複雑な議論は必要ないようだ。
Posted by ブクログ
著者は反種差別理論の基礎に功利主義や平等のモラルの思想を自明的に置いているが、僕はそれらは自明ではなく丁寧な論証を要する部分ではないかなと思った。一方で細かいところを抜きにすれば、この本には読者を菜食主義に傾かせる十分な啓蒙の力があると感じた。
ユダヤ教の人間は動物を支配する立場にあるという信仰とギリシアで育まれた人間中心観の思想とが合わさり、ローマの自分の共同体に属さない者を害する風習を経て、キリスト教の人間が動物に優越し動物は人間に利用されることを目的とするという教義が普及し、現代の種差別的な価値観へと繋がっている。
現代では、動物擁護の価値観は徐々に広まってきているものの、動物を過剰に傷つけるような実験の材料としたり被畜産動物を肉や卵を生産する機械としたりする種差別的態度は依然強力である。
私たちにできることは、工場的畜産物の摂取を控えることで反種差別的態度を体現することである。
Posted by ブクログ
シンガーがどのような議論で動物権利論を提起したのかを知りたいなと思っていたところ、都合よく改訂訳が出たので読んでみた。
功利主義的な基盤に基づく「なぜ動物の苦しみを減ずるべきか」といった議論と、その推進を妨げるイデオロギーとしての種差別を論ずるパートに始まり、実験動物や畜産動物において非合理的な苦しみを与えられる動物たちの実例を紹介し、再度種差別イデオロギーの構築の史的分析に入る。
多角的に種差別に基づく動物虐待行為を論じており、その筆致も明快である(分析哲学的な明快さ)。だが、その明快さに少し違和感を感じる側面もある。
色々な意味で難しい古典だと感じた
気分悪くなってやめにした
お高い本なので、とりあえず試し読み。
作者氏、魚が嫌いみたいです。
肉とか魚とかが、魚がタコになっている。
たこ焼きには当たり外れがあるので特に東日本では食おうと思いませんが、
タコの美味いのを食ったことがないらしい。
可哀想な人です。ユダヤ教徒?海では鱗がついた生き物以外食えないそうな、
傷んだシャコでも食って腹壊したのかしら。
もっとも、隣人食い物にする方がはるかに罪深い気がする。
魚食うやつはタコ、あたしゃ魚食わないから知らねえ、のスタンスです。
缶詰、瓶詰めの不味そうな魚しか食ったことがないかもと考えると、
料理の腕は重要なのでしょうね。改めて可哀想になってきました。
気分が悪くなる料理を想像するのは精神衛生上良くないので、やめにします。
苦しむの定義が出てくるらしいのですが、よくわからんですね。
パンやアルコールの生産に使われるイースト、単細胞は使役に当たらない?
納豆菌も該当しますね。餌くれて増やされて、オーブンで焼かれるとか、胃袋で溶かされるとか、
苦しくないなら問題ないと、よくわからん。
ウニって美味しいですが、筆者は間違い無く食べた事ないでしょうね、
口にするのも汚らわしいなのでしょう。
目も耳もなくて口に入れられるものを口にして、長生きする個体は100年以上生きるそうです。
幼生の時はプランクトン扱いですが、もちろんしゃべくる舌なぞついてません。
脊椎動物ではないので考えたりするのかな、こうした生き物は苦しんだりするのですかね。
なんか魚食う日本人はタコと同じだから勝手に食ってろとか言われそうですが。
そういえばタコもイカも脊椎動物ではなかったな。目は性能のいいのがついてますが。
まあ、まあ、お好みで