【感想・ネタバレ】庭の話のレビュー

あらすじ

『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』への刮目すべき挑戦が現れた。
情報社会論より発せられた「庭」と「制作」という提案から私は目を離すことができずにいる。(國分功一郎)

プラットフォーム経済に支配された現代社会。しかし、そこには人間本来の多様性が失われている。
著者は「庭」という概念を通じて、テクノロジーと自然が共生する新たな社会像を提示する。(安宅和人)

*プラットフォーム資本主義と人間との関係はどうあるべきなのか?
ケア、民藝、パターン・ランゲージ、中動態、そして「作庭」。一見無関係なさまざまな分野の知見を総動員してプラットフォームでも、コモンズでもない「庭」と呼ばれるあらたな公共空間のモデルを構想する。『遅いインターネット』から4年、疫病と戦争を経たこの時代にもっとも切実に求められている、情報技術が失わせたものを回復するための智慧がここに。

【目次】
#1 プラットフォームから「庭」へ
#2 「動いている庭」と多自然ガーデニング
#3 「庭」の条件
#4 「ムジナの庭」と事物のコレクティフ
#5 ケアから民藝へ、民藝からパターン・ランゲージへ
#6 「浪費」から「制作」へ
#7 すでに回復されている「中動態の世界」
#8 「家」から「庭」へ
#9 孤独について
#10 コモンズから(プラットフォームではなく)「庭」へ
#11 戦争と一人の女、疫病と一人の男
#12 弱い自立
#13 消費から制作へ
#14 「庭の条件」から「人間の条件」へ

「家」族から国「家」まで、ここしばらく、人類は「家」のことばかりを考えすぎてきたのではないか。しかし人間は「家」だけで暮らしていくのではない。「家庭」という言葉が示すように、そこには「庭」があるのだ。家という関係の絶対性の外部がその暮らしの場に設けられていることが、人間には必要なのではないか。(中略)/「家」の内部で承認の交換を反復するだけでは見えないもの、触れられないものが「庭」という事物と事物の自律的なコミュニケーションが生態系をなす場には渦巻いている。事物そのものへの、問題そのものへのコミュニケーションを取り戻すために、いま、私たちは「庭」を再構築しなければいけないのだ。プラットフォームを「庭」に変えていくことが必要なのだ。(本文より)

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Posted by ブクログ

今年1,2を争う濃密な読書体験ができた一冊だった。一言でも気軽な感想をうまく書けないのが悔しいが、自分の中で咀嚼して再読してから追記したいと思う。

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2025年12月03日

Posted by ブクログ

現代社会では、SNS上の発信と反応の連鎖が世論形成に大きく影響している。だれもが受け手であり発信者でもあるため、他者からの反応を求める気持ちが自然に生まれる。問題は、発信の目的が内容そのものではなく、反応を得ることへとずれていく点にある。

著者は、この相互承認の流れから距離を置くための考え方として「庭」を提示する。「庭」とは、人と人の関係ではなく、人と事物との関わりに没頭できる場とされる。事物同士が関係し合う場に人が関わることで、人と事物のやり取りが生まれ、結果として偶然その場にいる人同士の関係が生まれることもある、という構造を指している。

庭の条件のひとつに「攻略できないこと」が挙げられる。事物と向き合うとは、目的を達成する行為ではなく、それ自体に関わり続けることにあり、その時間が相互承認の流れから一時的に離れることを可能にする。

著者はさらに、「コレクティフ」という、ばらばらのまま共にある集団のあり方を取り上げ、「共同体」と対比している。共同体は敵をつくることで成立し、内部に勝敗を生みやすい。SNSの相互承認の仕組みは、この共同体の性質と結びつきやすいとされる。自分の生活では不要に感じながら、仕事では「コミュニティ」という言葉を肯定的に使うことに何となく違和感を持っていたが、その背景が説明されたように感じ、腑に落ちた。

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2025年11月17日

Posted by ブクログ

情報社会論に分類される本らしいですが、色々な読み方が出来てめちゃくちゃ面白かったです。 
この本における著者、宇野常寛の認識の妥当性とか前提を批判することは簡単ですが、そういうことではなく、自分自身の在り方を考えるエッセイ(試論)として示唆的で、対話的に読めるという意味でも素晴らしい読書体験でした。
また、(比喩的な意味での)庭の話の本なのに、終盤になってその限界を自ら論じ始めるところも含めて(わざわざ損をしに行くスタイル笑)、すごく正直な著作です。 
* * *
ところで、本書中にはほとんど登場しませんが、社会学者?、宮台真司のかつての著作と比較して読めたのも面白かったです。
例えば、宮台はかつて「承認なき社会」の地獄を論じていましたが(援交少女の出現など)、プラットフォーム資本主義によって、現在では皮肉な形でコスパ良く(しかし中毒的に安易な)承認が供給され、新たな地獄を出現させています。
また宮台は、その処方箋として、クソ社会から距離をおいて「世界と接続せよ(サイファ、覚醒せよ)」と宗教じみたことを主張しますが、宇野の場合、社会と世界の間に「庭」的な場所をつくることで、社会の改良(補完)を主張しています。
これは、エリート主義(Anywhere)で実存主義の宮台に対する民衆派(Somewhere)で個人主義の宇野の反撃なのでしょうか?
この本では、吉本隆明から糸井重里に続く路線を真っ向から批判していることに注目が集まりがちですが、個人的には、宮台チルドレンの宇野が老害じみてきた宮台を終わらせたと思えるところも興味深かったです。

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2025年09月06日

Posted by ブクログ

ネタバレ

庭を喩えに、

社会と個人のかかわり方について思索されていて、新しい考え方が学べてとてもよかったです。

共同体に属さなくても社会とかかわれる、そして自分自身の生きがいを担保できる、そう考えさせられる本でした。

コモンズやコミュニタリアン的な議論は、共感するところもありつつ、でもなんだか理想主義的になってしまいがちなところがあって、やっぱり何らかの形で内と外の境界線を作っていくので、固定的なところや排外性を抑えて実際にうまく機能するのは現実的ではないところがあったりと、

でも庭の話では、そんな人間関係自体をいったん相対化して、個人が事物と対峙する関係性を採り入れていた。人間関係から快楽や生きがいを得るのではなく、あるモノに向き合うこと―それは結局は自分との関係ともいえるのではとも考えたりしながら読みました。

また、「する」ことへの評価と「である」ことへの存在、ときどき論じられていることがありますが、どっちが大事だとか、よく読みながら、えっと、結局どっちなの?と、分からなくなっていたところ、

そもそも両方とも、他者からどう思われるか、というところに依拠している、という点で同じだと気づき、庭の話では、その二択を超えて、それ以外の方法で自分の生きる意味や生きる喜びを感じる方法がはっきり示されていて、とても新鮮でした。

ある意味自分の中にこもるようで、自分自身も相対化しているような。

この、共同体を活用しながらも依存しない、個々人での社会とのつながり方が、弱い自立、とも論じられていましたが、

個々人の芯の強さがそこには欠かせないように感じました。

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2025年08月30日

Posted by ブクログ

書き方によって、一部の人を見下しているように読めるところもあり、必ずしも耳触りの良い中身ではない。しかし、だからこそ?あまり人が踏み込まない矛盾にも突っ込んでいけるのかもしれない。

右派も左派も文脈は違えど共同体の回帰を目指す。孤立を防ぐために、普段からのつながりな共感を持った「暖かい」互助の世界。しかし、そもそも孤立化する人がその共同体の中で周辺でなく真ん中に自然と入れるものか?そもそも共同体は強いものがより搾取しやすい状況だと。村八分者が何も売ってもらえない贈与経済化より、村八分者でも100円を持っていけばパンが買える方が余程自由で平等な社会なのではないか?

という指摘は一定の検討余地を感じた。

ただ、庭の状態が戦争にも当てはまるという後半の話はピンと来なかった…

喫茶ランドリーや銭湯を例にやらなければならないことで偶然同じ場に集うというのは今まで実験してきたことなので非常によくわかる。

コミュニティを作ろう!みんなで支え合おう!という共同体には、孤立しやすい人でなくても現役世代は多分入れないだろうし。

ただ、庭の例えがわかりやすかったのかは最後まで疑問。コレクティフの話は面白かった。関与できるけどコントロールできない。やらされ感のない当事者意識がもてる状態。

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2025年08月06日

Posted by ブクログ

2025年度印象の残るNo.1候補。最後にあとがきがないのはこれを読んでそしてどうするかと問いかけられているかのよう。今まで読んできた民藝やパターンランゲージに関することや、同じ著者の『遅いインターネット』のほか、『暇と退屈の倫理学』や『中動態の世界』を通じて「庭」とは何でなぜ今必要なのか、孤独について、そしてハンナ・アーレントの『人間の条件』に回帰してきたこの流れを読み終わったもののあらためて追って整理したい。特に『人間の条件』はまだ読み切れていないので読まねばと思う。

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2025年06月26日

Posted by ブクログ

いわゆる社会の価値交換活動から少し離れて没入できる場をここ数年特に趣味方面のクリエイティブに求めてきたのは、本書でいうところの「庭」での営みだったのだなと腹落ちして、またとないちょうど良いタイミングで出会えた一冊でした。

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2025年04月01日

Posted by ブクログ

久しぶりで評論を読んだ。こういうのしばらくさぼっていたというか遠ざかっていた。なんでだろう。自分が参加するが自分ではどうにもならない自然としての庭が必要、というのはすごく説得力がある。戦争論も。ここで災害論じゃなくて戦争論なのはウクライナかなあ。AnywhereなひととSomewhereなひと、地元ヤンキーの人的資本論、される側としての自己の話とかあたりはちょっと違和感あるがまだ言語化できない。庭がプラットフォームになれない/しないのあたりも。共同体怖いし共同体回帰はやめてくれにはとても共感する。生物多様性の豊富さのために人手を入れる話も。時間とってクレマン読んでみよう。制作するだけの時間の取れる仕事の在り方をもっと増やす。そうか、私は共同体にはじかれる恐怖を結構根深く持っている。
最後は、もう少し色々読みたいと思った。

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2025年03月27日

Posted by ブクログ

國分功一郎がかつて『暇と退屈の倫理学』や『中動態の世界』で提示した生き方(世界から別の世界へ飛び移ることで自分が変わること。それに備えて訓練を積む楽しさ)は、情報社会によってすっかり過去に、あるいは既に達成されてしまっていた。

「庭」という概念を持ち出すことにより、共同体を強化するために承認を交換することからも、社会からの評価に依存することからも解放され、人間らしく生きられる社会が提示される。

ぼくはまた、ほんとうの意味で「生きる」とは何なのかを、考え直さないわけにはいかなかった。

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2025年02月16日

Posted by ブクログ

ここで登場する「庭」とはメタファーであり、半分閉じて半分開放された空間を指す。そこでは独自の生態系がそこに棲む生き物たちの共進化によって成り立っており、「庭」の主たる人間の思惑や思想を超越した偶発性が発生することで人生をより豊かにしていく機会となる。

果たして、科学技術の発展は私たちの暮らしを本当に豊かにしているのだろうか。とくにインターネットの登場は、Web2.0⇒Web3.0とバージョンアップが図られるとともに、誰もが発信者たり得ると無邪気に信奉されてきた。その結果がFacebookやXのプラットフォーマーによる寡占と、フェイクや陰謀論に扇動・動員される民主主義の危機である。

筆者はこのSNSの潮目を読みながら情報の真偽よりも人間関係の承認獲得に勤しむ状況を脱するために、「庭」の重要性を説く。折しもSANCHACOは、保護猫という存在が人間の思惑を超越した生物として君臨し、訪れる人間たちに偶発性を提供している「庭」となっている。個人的にはXを辞めて、Facebookもあまりログインしなくなっている状況だが、高校生からお年寄りまで地域の人間関係が広がっている。

SNSの功罪について、あまりにも露悪的に語っている傾向はあるが、アメリカ大統領から街のお店までSNSでバズることを目的に短期的な利得と承認獲得を目指す社会になってしまった現在において、未来をどのように志向していくべきか個人の行動指標となり得る内容となっている。物事に対する見方や取組み方を他者の承認という外部評価によって決めるのか、それとも「庭」を持って自分と物事の距離感を最適化させるのか、多くの現代人にとって示唆に富む内容である。

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2025年01月14日

Posted by ブクログ

めちゃおもしろかった。が、最後の方理解が追いつかなかった。

個人的には、仕事、家族以外のコミュニティにゆるくかかかわっていたい、それが自分の助けになると思っている。
でも、元来の飲みニケーションや、自治会みたいなもの、、、昔ながらの場を考えるとちょっと違うなぁそのままではなと思っていて

この本の庭の概念、条件が、よりよい場のヒントになるのではと思ったし、生きていくうえでの選択の参考になるのではと。
この本は、社会への提案だが。。


孤食より共食、でなく縁食という話
からのやっぱり孤独が必要という展開も面白かった。
縁食論にしっくりきて好きな考え方だったから、
そこからこうきたかという。

動いている庭、中動態も本を買ったものの積読だったもの。縁食論は読んでた。とか少し自分の興味と通じて、でも出てくる話は多様で、
いろんな場所に連れて行ってもらえた本という感想。

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2024年12月31日

Posted by ブクログ

お庭の話、、なんて思ったらとんでもない!庭はあくまで比喩、メタファーで、
ネットに影響される現代人の存在するプラットフォーム、共同体、孤独、
といったところを鋭くえぐっている。
#3 「庭」の条件に入るまでは、実際の「庭」が人々に与える感覚などを
書いていたが、庭の条件を示したこの一文が、著者の思考の深さを表現している。

本書が「庭」の比喩で考えていくプラットフォームを内包するために必要な環境とは何か。
これまでの議論から浮上するのは、以下の三つの「庭」の条件だ。

第一にまず、「庭」とは人間が人間以外の事物とコミュニケーションを取るための場であり、
第二に「庭」はその人間外の事物同士がコミュニケーションを取り、外部に開かれた生態系を
   構築している場所でなくてはいけない。
そして第三に、人間がその生態系に関与できること/
       しかし、完全に支配することはできない場所である必要がある。

とても消化しきれない。能力が足りない。しかし、著者は手を差し伸べてくれる。國分功一郎の中動態が出てくる。美味しんぼと孤独のグルメも出てくる。秋葉原の殺人事件も出てくる。加藤は孤独でなかったからあの犯行に至った、、ううう

SNSのプラットフォームと銭湯を対比している。
Xなどのプラットフォームは民間が作った共同体、庭。
ルールがある、それに従わないと居づらくなる。
銭湯は「よく知らないけど身近な他者がありのままの姿で存在してる」
自己を肯定するのでなく、受容している。

うーん、なんとなくわかってきたような、、

プラットフォームは人をはじく、庭は孤独でも居られる。
今の世の中プラットフォームだらけ。孤独でいることが悪のよう。
孤独でいることを許容する庭の存在価値を見直そう、ってとこなのかなあ。

もーっとじっくり読むべきなんだろうなあ、、、

#1 プラットフォームから「庭」へ
#2 「動いている庭」と多自然ガーデニング
#3 「庭」の条件
#4 「ムジナの庭」と事物のコレクティフ
#5 ケアから民藝へ、民藝からパターン・ランゲージへ
#6 「浪費」から「制作」へ
#7 すでに回復されている「中動態の世界」
#8 「家」から「庭」へ
#9 孤独について
#10 コモンズから(プラットフォームではなく)「庭」へ
#11 戦争と一人の女、疫病と一人の男
#12 弱い自立
#13 消費から制作へ
#14 「庭の条件」から「人間の条件」へ

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2025年12月03日

Posted by ブクログ

ネタバレ

SNSの“承認ゲーム”に少し疲れ、でもネットから離れたいわけじゃない——そんな自分に、この本は「庭」という視点をくれました。ここで言う庭は、手放しのユートピアでも“全部コントロールできる私的空間”でもありません。風や虫や雑草のような人間の外部が入り込み、思い通りにならないことを含んだ場です。著者はそこで、能動でも受動でもない中動態の姿勢を勧めます。世界を押し切るのでも流されるのでもなく、「ともに動く」。その構えが、承認の波に即応し続けるSNSのリズムから私たちを救い出す、と。

とりわけ納得したのは、ジル・クレマンの“動いている庭”という比喩です。自然は固定化できない。だから設計は“完成図”ではなく、剪定・間引き・遅延といった手入れの作法へ移る。情報の世界も同じで、タイムラインを定期的に剪定し、即時反応を遅延させ、受け取ったものを味わい直す時間を置く。そのとき、急ぎの成果ではなく、手触りとしての回復が生まれる。読んだ翌日に実際、通知を切り、閲覧回数を減らし、短いメモを書く——そんな小さな“庭仕事”から気分が軽くなりました。

一方で不満もあります。後半、戦争の強制力を“庭的あり方”に準える比喩には跳躍が大きいと感じました。平時の庭の具体像(生活の設計図)をもう一段掘り下げてほしかった。それでも、本書は「作ること(制作)を生活の基準線に引きなおす」という強い方向性を示します。承認の速さに合わせるのではなく、自分の手でリズムを作る。完璧な処方箋ではないけれど、日々を“庭仕事”として捉え直すための、実用的な比喩集として十分に価値がありました。

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2025年10月12日

Posted by ブクログ

大衆が共同体内での承認を得るためにイジメをするという構造はまさにと思った。
そしてエリートしか評価をされず、経済的にも格差が広がるという構造も、まさにと思う。

でも、大衆が弱い自立をするイメージが持てなかったなあ。チョンキンマンションでもやはりコミュニケーション能力が必要とされると思うし、大衆は承認を必要とするとおもった。相対的な強さがないと、つまりエリートでないと自立は難しいと思った。

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2025年09月15日

Posted by ブクログ

庭の比喩・アナロジーが微妙に難しい。読み手によっていかようにも解釈できるようにも感じる。古今東西さまざまなエピソードや書物を引用して、「庭」へ向かう概念が語られるのは小気味良かったが、最後の主張がやや尻切れトンボっぽい感触だった。材料は提供したので、自分自身で考えろということなのかも知れない。
しかし、宇野氏のプラットフォーム論、共同体、公共と私、特に孤独についての考え方には基本的に賛成できる。10年後にもまた本書を再読してみたい。果たしてその時にも同じ感想を述べられるのだろうか。

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2025年08月30日

Posted by ブクログ

共同体を作らない、コレク'ティフ'の概念、制作など、それらを繋ぐプラットフォームではなく、庭の概念。

論証という観点では少し荒さも目立つが、現代において非常に重要な問題提起だと思った。

特に個人的には社会の人々を取りこぼさないためには、共同体より、お金を払えば誰でもサービスを受けられることが重要という考え。
生活する上で必要となる静脈的な活動の延長に、都市への庭を園芸すること、それも不完全ながらそれを増やしていくこと。
なんとも心許ないように思える結論だが、むしろいまはそれで十分に思える。
今後の社会を考えていく上で、本書は無視できないだろう。

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2025年08月07日

Posted by ブクログ

視点や切り口は面白い
ただ自分には現代思想っぽい話は合わないのかもしれない。飛躍では?と何度も思ってしまった

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2025年07月17日

Posted by ブクログ

非常に心地よく読み進められた。宇野常寛氏の著書は初めてだったが、私の課題感=研究テーマに近いことを考えていた。しかし、アーレントの「人間の三条件」をアップデートし「制作」に至るとは。思っても見なかった。いや、しかし自分の中では実は分かっていたのか彼の最後の決断は心にスンと落ちてきた。
本書は、プラットフォーム資本主義に対抗するための共同体主義に対して警鐘を鳴らし、共同体になり得ない別のオルタナティブを求める。「庭」は評価や承認を目的とせず、事物と人間との自律的なコミュニケーションが行われる場でないといけない、、、と順に条件を発見していくが、最後に、「戦争」が「庭」的であることを考察し、そして、庭を作ることの重要性をとどめてこれは万事の解決策にはなり得ないとして、庭の話は終わる。
そして、終盤で急に始まったのは、「弱い自立」、「消費から制作へ」、最後に庭の条件から人間の条件へとゴールする。そう、環境=「庭」の話から、個人=「人間」の話になる。終盤の、制作に関する具体的な処方箋、向き合い方の話がなかったのが少し残念であったが、次回作や彼の今後の発言に注目したい。
ありがとうございました

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2025年06月09日

Posted by ブクログ

読めているか分からないけれど、考えることのなかった視点で貴重な読書体験でした。
現在はプラットフォーム上で展開される情報環境。
発信による相互評価の連鎖と世論形成への懸念。
著書は「庭」というメタファーでの在り方で「孤独」を提案、そして「制作」することの必要性を説いています。
「共同体」の中にいることで起こる不都合なことを知ると、「孤独」を強調される意味が理解できます。
ここで言う孤独とは、心落ち着いて自分と向き合う、というふうに私は解釈しました。

多くの文献を紹介しながら意見を述べられてる中で、
國分功一郎さん著の『暇と退屈の倫理学』がありました。

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2025年05月23日

Posted by ブクログ

ネタバレ

本書は、画一的で高速な社会構造(プラットフォーム)から、多様で個別性を尊重する柔軟な社会構造(庭)への転換を提唱する。社会や環境との関係性を再定義し、「庭」を媒介として、持続可能で創造的なコミュニティ形成を目指す。

「庭」とは単なる空間を超えて、人間と環境、人間と非人間の新たな関係を築く概念であり、消費から制作へ、強い自立から弱い自立へ、プラットフォームから多元的共生へと社会全体を変革する思想的枠組みである。

著者は、これを通じて人間の条件そのものをアップデートし、21世紀の持続可能で豊かな社会を実現するための哲学を提示している。

本書の限界:

「庭」の概念は抽象的であり、具体的な社会変革の方法や実践への明確な道筋が示されていない点がある。

提唱される多自然的なアプローチや弱い自立のモデルが、現代の資本主義社会においてどの程度現実的であるかが不明瞭。

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2025年05月10日

Posted by ブクログ

プラットフォーム相互承認の快楽に溺れててええんかい、という宇野さんがよく言っている問題設定から、庭のメタファーを用いてどういった場、機会が社会に必要か考える。と言いつつ、場があるだけではダメで、人間が何かを作ることで世界と関わる「制作」的な営みによって、新しい視点を得ていくことが前提として大事なのだ、ということを述べる。
いくつか事例は紹介されるが、どれも論の途中での参照という感じなので、なかなか具体的、実践的なイメージまでいきつかない部分もある。
超絶に雑に解釈してみれば、宇野さんがサブカル批評からキャリアをスタートしたように、自分の好きなものに没頭して価値観が変わる(消費者からその先にいく、みたいな)ような体験、的なことによって、世界との関わり方を変えることが大事なんじゃない、ということだと思う。やや、ポジショントーク的と言えなくもないかも、しれないが。
とはいえ、各所各所で、人の欲求について考えるヒントになる概念や事例も多々出てきて、考えながら読むのは面白かった。

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2025年04月29日

Posted by ブクログ

庭とは
人物外の事実とコミュニケーションを取る場所
たまたま、偶然に多様な事物に出会うための場所
関与できるが支配できない場所

昭和が舞台のサザエさんなどのアニメでは庭ごしにお隣さんと話したり、何かが出てきたりとして物語が始まる
今の街並みをみると、物語が始まらずいつまでも停滞するように感じる

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2025年04月27日

Posted by ブクログ

自分が抱いていた共同体への違和感をハッキリ明文化してくれて救われた

社会的ポジ、距離感いろいろ考えさせられる
問いを与えられ、自分で考えるキッカケをくれた

良書と思う、数年後また読み返したい

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2025年02月08日

Posted by ブクログ

ネタバレ

SNS上で潮目を読んでそれっぽいことをつぶやくことで安易に承認欲求が満たせることで、承認欲求中毒となってプラットフォーム上で踊らされてることへの警鐘。他者世界との関係性の中で無意識下にもある自己承認欲求を拗らせずにどうあるべきか。庭を例えに場と個人という観点で深掘りされてる。随所に著者のアナキズムというか偏屈さを感じるけどだからこそ生まれてくる問い、見方が新鮮。

地域のつながりがーコミュニティがーと言ってるうちは、共同体に参加しない自由がないというか、排除的な要素が含まれてしまってるなとハッとさせられた。

デモでも選挙でもなく、日々の自分の選択が社会を作るっていう実感を持つ上で、デジタルプラットフォームの果たす役割は大きいと思うのだけど、そういう庭にできてるかって言うと、問いを立てる側の力量が試されてるなとも思う

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2025年01月11日

Posted by ブクログ

知見、教養豊富な知識人が深い思索と広範な知識を用いてプラットフォーム資本主義社会の構造や見方を言語化してくれたものを本として享受させてもらえるのはありがたいなーと思いながら読みました。
頭フル回転で読まないと全然入ってこないので毎晩新生児の寝かしつけしながら1章ずつ読むのが限界だった。
前半10章くらいまでは面白く読めて理解も捗ったのですが11章の文学批評みたいなところで一気に振り落とされました笑
これはもうしょうがないのですが、問題提起や進むべき方向性の抽象概念まではなんとなく見えるんだけど、その先の具体的な解やアイディアが無いところは自分のような一般的ビジネスピーポー視点では物足りないなと感じつつ、いやいやそういうのこそ資本主義最前線で戦うビジネスパースンの役割だよな。と1人納得しました。(逆に宇野さんのような批評家にそこまで踏み込まれたら仕事がなくなる)

何にしても、万引きは犯罪だよね、とか。食べ過ぎたら太るから良くないよね、とか。寝不足は心身ともに良くないことが多いから寝よう、とか。ギャンブルは身を滅ぼす可能性があるのでやめよう、とか。
そういうレベルでSNS承認交換ゲームにハマるの、人生の貴重な時間と意識の使い先としてはあまり良くなさそうなのでやめよう、という一般常識的に多くの人がリスクを分かっている状態を少なくとも作らないとまずい気はした。義務教育レベルの話。


・資本主義ゲームのゲームマスターたるanywhereな人とプレイヤーにすぎないsomewhereな人がそれぞれで多層的にゲームをプレイしている
・プラットフォーム空間で画一化された身体を通じ、他人の承認、賞賛、評価、嫉妬、欲望といったのものにひたすら突き動かされる、承認の交換の奴隷化する人々
・web2.0がもたらしたのはインタラクティブ性と多様性ではなく低コスト承認交換という実態。事物への思考を奪い、反射的に承認獲得に動いてしまう
・人間関係を切り出して肥大化させたSNSの中はまさに承認交換ゲームの檻である。ここに、自然と偶発、そして人間関係以外の虫や花やあるいはふらりと立ち寄った本屋で見つける本のようなセレンディピティを産む、カオスの場としての庭が必要
・SNSでは簡単に自分の投げかけが波紋を起こせるが、公園などの公共物に影響を及ぼすにはコストが相対的にかかりすぎる
・自分が関わり変えられること、手触り感が当事者意識にも結びつく
・庭は人間外の事物とコミュニケーションがとれ、その事物同士でも外部に開かれた生態系構築でき、人間も関与できるが支配できない場所
・秩序だった組織グループと、バス停の行列のような集団であるコレクティフ、ムジナの庭は後者を意図して設計された
・孤独もまた事物に純粋に向き合うために必要なものである
・強く疎でも密でもないこと、いずれに寄ろうとも中道であろうとも認められること、共同体への無条件の賞賛なき世界
・民主的に選択されていない場所がプラットフォーム以上に求心力を持つことは考えにくい
・コモンズという自治による共同体のための場所ではなく私的な場所が公的に開かれていることが庭の条件
・銭湯のようにありのままの姿で誰も相互承認のコミュニケーションを取ろうとしない、ただ共生するだけの場所

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2025年01月25日

Posted by ブクログ

難しくて読み切るのが大変でした。小杉湯やムジナの庭など「庭」の具体例は興味深く読みました。中盤くらいから面白くなってきて、庭の概念を理解できたと思ったら後半「労働・制作・行為のアップデート」という新しい視点が登場し、論点が再び拡散したように感じ混乱しました。結局この資本主義で承認・評価から逃れられない現代において、「庭」の機能が評価されて生活に実装されていくことには現実的に難しさを感じてしまいました。
ただ、秋葉原無差別殺人事件の山上のような孤立した「無敵の人」を産み出さないために、ゆるく繋がり「排除しない」多様な人間活動が可能な場所としての「庭」の必要性には納得させられました。

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2025年11月27日

Posted by ブクログ

公共空間としての「庭」の概念を広げていくとことによる社会の可能性というコンセプトに惹かれて読んだ。

社会/人とのコミュニケーションだけではなく、モノと人とのコミュニケーションや出会い(?)に可能性を示す視点は興味深く感じた。
特に、インターネット検索の時代にも課題になった「(新しい物事/コンセプトとの)出会い(セレンディピティ)」がソーシャルメディア隆盛やAIの登場でさらに難しくなりつつなるなかで、庭含めた物理の場所での出会いの可能性の視点は私も重要に感じる(最近読んだ他書である、「ケアする建築」でも同様に感じた)。

個人にとっての他者や物事との関わ方の話題を想像して読んだが、社会論的なものとその課題解決への提言に広がっていき、想像より視野の広い議論になっていったことには率直に驚いた。

また、著者の、単純なローカルコミュニティ活性化や促進のようなアプローチでの社会問題の解決についての批判については、非常に納得できた。

一方で、著者が、個人がソーシャルメディアなどで安易な承認をえることに躍起になっているという現象を批判し、(暗黙的に)自立/自律し創造性を発揮する個人像を善とする立場で議論を進めていることには、説明不足に感じるし、妥当性などに違和感を感じた。

今後、著者の視点で、AIの発展といった大きな変化が今あることを踏まえたうえで、どういった社会/人間像をめざすべきと考えるているかの明確化を見たい。

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2025年10月14日

Posted by ブクログ

基本的には『遅いインターネット』と同じ方向で、プラットフォームでのポピュリズムから離れるために、承認を得る快楽や仕事で金を稼ぐ快楽よりも物を作る快楽を取り戻そうとする試みを描いている。が、主眼はむしろその主張を裏付けるために列挙される具体例の豊かさにあるようにも思う。b型作業所や森の再開発、銭湯やランドリーカフェなど、従来の共同体の形ではなく、作業をしながら相互の存在を(承認ではなく)許容し合うことのできる場の例は、読んでいて色々なアイデアを与えてくれる楽しい体験であった。また、個人的にはクリストファー・アレクサンダーの「パターンランゲージ」という概念など建築や都市計画の概念が登場したことが興味深かった。最近の宇野は建築にも興味を示し始めたようだ。

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2025年05月06日

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