あらすじ
日常のなかの不思議を研究した物理学者で、随筆の名手としても知られる寺田寅彦の短文集。大正9年に始まる句誌「渋柿」への連載から病床での口授筆記までを含む176篇。「なるべく心の忙(せわ)しくない、ゆっくりした余裕のある時に、一節ずつ間をおいて読んでもらいたい」という著者の願いがこめられている。(解説=池内 了)
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随筆だと思っていたのだが、読んでみるとそれよりも短い掌編が多く、箴言集のような趣もあるし、軽いスケッチのような感じもする。なんとも言えないユーモアが楽しめる。
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寺田寅彦が俳句雑誌「渋柿」に載せた短文を集めた「柿の種」「橡の実」からの176篇をまとめたもの。随筆の名手の、さらに短い文章が、寺田寅彦の心境、想いを、より深く伝えているようで、興味深く読みました。
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物理学者とは思えない情緒豊かな作者の100年前の日常。随筆というのか散文というのか、短い文章の中に当時の思索や出来ごとが簡潔に描かれていて、そこに去来する感情に共感するところが多く、とても身近に感じた。
大正から昭和の始めにかけての「今」がここにある。
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とても些細な日常を、人間として、また科学者としての視点で切り取ると、こうも面白かったり感慨深かったりするのだなぁと気づかされた。それと同時に、自分はたくさんのことを見落としながら生きているだろうということが勿体無く感じる。また、解説でおっしゃっている、科学は些細な日常から始まる、というお話にもなるほどと思わせられた。そして関東大震災の後の随筆は、東日本大震災後の現代日本でリアルタイムに書かれたと錯覚しそうなくらい、現代にも通じているような気がする。
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明治生まれの科学者、寺田寅彦の随筆集。俳句雑誌の巻頭に寄せた文章が中心となっている。著者が先生と呼ぶ、夏目漱石の影響が文章にも感じられる。特に短章 その1のほうは、夢十夜のような幻想的な雰囲気さえある。
後書きは、池内了によるのもので、阪神大震災の1年後に書かれており、著者が触れている関東大震災後の日本への警鐘を、今の日本にも通ずるとしている。東日本大震災が起こった今、更にその思いを強くせざるを得ない。
(2015.2)
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物理学者である寺田寅彦の随筆集。短いものは1ページちょい、長い者でも10ページに満たない様々な文章が収められており、どれを読んでも楽しめます。
物理学者であるにも関わらず、文学者のような視点も備えた著者が見た大正と昭和の時代の移り変わり、そして関東大震災後の復興の様子もここから読み取れます。
体の弱かったらしい著者の、「泥坊のできる泥坊の健康がうらやましく、大臣になって刑務所へはいるほどの勢力がうらやましく、富豪になって首を釣るほどの活力がうらやましい。」という文章には、シニカルで滋味深い著者の力量が感じられます。折りを見てゆっくりと読み返したい本です。
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古本で購入。
「天災は忘れた頃にやってくる」
と言った(と言われている)物理学者、寺田寅彦の短いエッセイを集めた本。
「なるべく心の忙しくない、ゆっくりした余裕のある時に、一節ずつ間をおいて読んでもらいたい」
という著者の願いを無下にした一読者ではあるけれども、夜ごと数編を読んで眠りにつけば、きっとゆったりした心持ちになれるだろう。
寺田寅彦の「気付き」の鋭さおもしろさに唸らされる。
いっこうに花の咲かないコスモスに、ある日アリが数匹いた。よく見ると蕾らしいのが少し見える。コスモスの高さはアリの身長の数百倍、人間にとっての数千尺にあたる。そんな高さにある小さな蕾を、アリはどうして嗅ぎつけるのだろう―
言われてみれば何てことのないような、だけど誰も気にもとめないようなことに、「あぁ、確かに」と思わされてしまう。
また、俳人でもある彼の目を通して見る東京の日常は、詩情豊かで味がある。
永代橋のたもとに電車の監督と思しき四十恰好の男がいて、右手に持った板片を振って電車に合図している。左手は1匹のカニを大事そうにつまんでいる。そうして何となくにこやかな顔をしている。この男には6つ7つの男の子がいそうな気がした。その家はそう遠くない所にありそうな気がした―
読んでいて知らず微笑んでしまうようでいて、どこかせつない感じのエピソードがいくつもある。
日々の生活に、そうした光景はきっといくつも通り過ぎていくのかもしれない。
僕の生には詩が足りない。
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なんて素敵な本なんだろう。科学とは。生きるとは。
こういうふうに純粋に、学問のひろがりを味わってたのしむことが、やはり心の忙しくなりやすい現代ではなかなか叶わないから。
科学を志すひとにもそうでないひとにも、いちど手にとってもらいたい。
科学の原点とは何であったか、見失わずに科学と向きあっていけたらと願う。
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p.29 この説明が仮に正しいとしても、この事実の不思議さは少しも減りはしない。不思議さが少しばかり根元へ喰い込むだけである。
p.92 にぎやかな中に暗い絶望的な悲しみを含んだものである。
科学と文学と感覚の不可分さがシックリ腑に落ちる。
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随筆のお手本のような1冊。
こんな平易な文章で 何気ない日常を切り取って 鮮やかな印象を残す。
本来の意味での「観察」を怠らない 注意深く 好奇心旺盛な双眸が 「
くもりなき 瞳」というべきものだろうか?
p.60 そのなつかしそうな声をきいたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持ちがした。
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無粋な人ならば、あまり日常のことに気を留めない人ならば通り過ぎるところを興味深く観察しているのが良い。あ~確かに!ってなる。
科学者が文学者であることに納得がいった。
機知に富んだ話に休憩をはさむように猫の話が出てくるのがまた良い。
気になったこと:ナシ赤星病の話がある気がする。
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寺田寅彦という人物の評判だけ凄い感じで、皇室も本書を有り難く読んでいるとか言われても、正直言うとピンと来ない。先週から色んな会合に参加し、その度に酒を飲み、前後不覚では本も読めず、酩酊しながらレビューを書くが、こんな簡単な自身の線引きからわかるのは、人は書くより聞く方が難しい生き物だという事。ならばエッセイなどは、何割も引いて読まねばなるまい。適当に書いたものを有り難く読む、アル中のスノビズムの情けなさよ。
あるいは人の想像力の逞しさ。または、見たいものを見たいように見ているだけの独善的な仮想世界よ。
その虚勢こそが、物理学の泰斗してのアイコン化された寺田寅彦の存在そのものではないかと。マグニチュードを用いたり「天災は忘れた頃にやって来る」と言っただけでは。東京帝国大学の教授、夏目漱石の弟子だからと、何であったか。
どうやら戦前にも文系、理系といった選択責任にべったりと不随するようなコスプレやゴッコ遊びは存在し、寺田寅彦は物理学教授ながら、夏目漱石の関係性もあって、文理融合の象徴的な扱いをされたらしい。
だが、書き物は一級の小説家には足らず、物理学は湯川秀樹にはならず、所謂、権威のみが一人歩きし、ブランド化された半端ものである。が、社会的価値観が、半端な扱いはしなかった。
では、結句、文理の壁は破壊し得たか。その点に関しては彼自身に責任はないが、まるでそうした境界線がある事を却って浮き彫りにした上に、令和の今ですら解消せず。「柿の種」から見通す自然秩序に、文学的解釈の予感を混ぜた示唆を与えるのみで種は芽生えず。
戦前の栄華、ビバ東大教授と有り難き地蔵権威。
マグニチュード並みの酔災は忘れた頃に。
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物理学者の短文集なのでどうかなぁと思っていたら、これが結構面白い。癖になる。はぁなるほどなと思うものもいくつかあったのでまたゆっくり再読しよう。
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大正時代の終わり頃から亡くなる直前の昭和10年までの間に、小冊子の巻頭に載せた短文集。エッセイと言えばエッセイなんだけど、随筆という方がしっくりくる。巻末の解説が寺田寅彦のイメージをうまく説明しており、納得がいく。日常の情景(この人はいろいろなところで昼ご飯を食べるが、そういう時にふと視界に入ったもの)に対していろいろな想像を働かせ、それを一般化したうえで人間社会の矛盾や科学技術の行き過ぎた進歩などに対して素朴な疑問を呈する。そこが科学者でありながら、とても人間臭くて読む人の心を打つのだろう。
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本と対話しながら感想を書いてました。それをそのまま転記します。ネタバレ注意です。
・寺田寅彦、夏目漱石の弟子。物理学者。
・一発目の「土の善し悪し」で、今と昔も環境に左右されるのは変わらねえんだなと思った。
・一節目からこの世の真理というか、当然の事をズバッと示された。共感する。日常と詞歌の間にはガラスがあるのみ。ただし穴が空いている。誰でもやろうと思えば通れる穴。通り抜けているうちに(触れているうちに)穴は大きくなり何時でも行き来できる。これはなんにでも当てはまる。俺だってギター弾かなくなったら下手くそになるし。
・p14,スッポンが鳴いた話好き。固定観念に囚われている人々を表現できている。何が証明されていて、何が証明されていないから結論はこうだ!と言える人になりたいなあ。
・p18,犬のあくび新聞。俺にもあくびが移った。
・p20,人と自然の間には、想像もできないような関係があるかもしれない。それはまさにその通り。所詮、学問を完璧に完成させることは人類滅亡までには不可能なのではないかと考えてしまう。不完全な学問を前提に生活しているのが我々。一方で、理論に基づいて機械等は動くからそれでいいじゃんとも思える。
・p21,巻雲はスースー雲。その通り。巻かれてないもん。スースーしとるもんな。
・p25,身の回りの些細な変化でさえ恐怖になる。共感する。俺親知らず抜いた時同じことを思った。ただこいつは俺より気にしすぎな人だったらしい。文末の「坊主になった」は、髪型の変化を嫌って意図的に坊主にしたのか?それか気にしすぎて病んで病気になった?割と好きな詞かも。
・p27,「非音楽的な耳」と決めつけるのはどうなのw
そういう曲が存在するのは知っている。それもまた何か意図があって作曲された曲と思うし、ピアニストとしてそれを表現したかった可能性もあるんじゃないか?もしくは非音楽的な耳の持ち主で、ただ記録更新したかっただけかもしれないね。
・p28,共感しかない。確かに目は閉じることができるが耳は閉じれない。鼻もそう。どんな進化を経た結果なんだ?生まれた瞬間からその状態。ただ、目が閉じられない状況もあるよねと突っ込んでしまったが、そういう話をしたいんじゃないんだろうからスルー。
・p29,宗教と科学の話。調べたところ、宗教は脳死で何かを信仰しているらしい。だから理不尽で筋の通らない言い訳をして戦争なんか始まるんや。てっきり、宗教の起源は科学と思っていたが、違うらしい。例えば、火を神とするゾロアスター教?アヴェスター?なんか、火起こしは科学やろ!なんて思ってしまうのだが…当時は科学が発展してなかったからしゃーないんかね?2024年に生きてるから昔の価値観は分からん!
宗教なんて今では戦争するためのツールにしかなってない気がする。科学の檻にぶち込んどかないとダメなんじゃない?要は寺田寅彦に同意する。
・美術評論家の点数付けの話、1+1は2という世界しかないと思い込んでいるヤツらの話。例えば、ベクトルは向きによって0-2の値を取るので1+1は2という考えは安直だ。固定観念に囚われているという話をしたいと思うのだが、寺田自信でその後(前か?)、俳句を例に、俳句のルールがあり、それに従ったものは俳句になる。従わなければ俳句ではない何かになる、と言っている。あくまで「美術評論」というものになるために1+1は2を使っているのであって、もしかしたら彼らも固定観念に囚われている訳では無いのかもしれない。ルールに縛られた評論家と作者の対話ではないか?
・p103,人形のような人の話。自分の意見(心)を宿さないと人形と同じという意図と捉えた。社会人になると、今までの自分を振り返ると心に突き刺さる。以下に「誰かの言いなり」だったかを痛感させられた。ただ今はどうであろうか?今は「これがやりたい」「こうあるべきでは?」等の自分なりの考えをやっと持てて来た気がする。人形から人になりつつあるのだろうか。そう願いたい。
・p219,個人的に好きな詩。仕事に忙殺されて、帰宅する際に幸せを感じることがあるだろうか?あるならそれは幸せなことで、社会人から一個人にしっかり戻れている証拠かもしれない。経験上、社会人のまま帰宅し、社会人のまま風呂飯を済ませる。寝るまで社会人かもしれない。なんと不幸なことかと今思う。幸せは色んなところに転がっているはずなのに、それを見つけることが出来ない。それは、土曜日と日曜の夕方まで社会人として生きているからなのでは無いだろうか?
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物理学者にして文学者、さらには音楽家だったという寺田寅彦のマルチな才能を垣間見ることができた。
自然現象や、動物の生態、人の行動特性とか、身の回りで生じていることへの観察眼が多角的で冴えている。
師匠の夏目漱石同様、猫が好きだったみたいで、可愛らしい側面も垣間見える。
晩年は、日々病に蝕まれるなかで、人間の身体について淡々と描き続けていた様子が分かった。
当時は、自由に海外旅行へ行ったり、インターネットで情報収集したりできない時代だったが、寺田氏は視野が広くて自由な発想を持ち、時には婉曲的に、ソフトに社会を批判していたのだろう。
他の随筆集も読んでみたい。
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物理学者であり俳人の寺田寅彦による、余所行きではない散文集。夏目漱石の門下であったということは知っていましたが、氏の文章に触れることは初めてだと思います。生活の中の何気ない出来ごとが綴られ、それが現在にも通じるところが多々あり興味深い。 印象に残った一文。「眼は、いつでも思ったこ時にすぐ閉じることができるようにできている。しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。なぜだろう。」(p28)
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20201218 科学者の随筆。らしくなさが読んでいて考えさせられた。科学をどう利用するかが大事と言われればわかるが科学を使う大義を誰がどのように判断するのか今そこを考える時期なのだと思う。
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短文の随筆がまとめられた本。
数行〜2ページ程の短文たちは、まるでSNSの呟きを読んでいるような心地になる。
寺田氏の視点から紡がれる日常や自然は独特で新鮮でもあり、それと同時に現代の私から見ても共感する部分があった。
街をぶらぶら歩きながら、ぼんやりと考え事をしたくなるような本だった。
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"日々の日常をつづったエッセイ。寺田寅彦さんの偉業は何も知らないが、感性を大切に日々を過ごしていたことがわかる。
自然の畏怖を感じることのできる心がある科学者であったことがよくわかる一冊。"
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こうやって毎日の中で書き溜めたものを、まとめて本にできるなんて、いいなぁ
これ読んだ限りでは、人間を50タイプに分けたとしても、わたしは寺田さんと同じ部類に入る気がする、似てると思う
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朝が寒いからって布団の中で着替える。なんて、お茶目!
平凡な日常からこんなにお洒落な文が書けるなんて。こんな風に日記を書けたらどんなに幸せか!
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この方の文章、好きだなぁ。学者さんらしいというか、日常の諸々の雑記みたいなものなんだけれど、感情だけでは語らない理性的なところがあって面白い。大正から昭和にかけての世相なんかも読み取れて、歴史で習ったような時代がリアルに感じられます。
もっと色々読んでみたいです。
※元々なんでこの著者の名前を知ったんだったかなぁ、と考えてみたら、"ご近所の博物誌"という、わかつきめぐみさんの描いた漫画の作者コラム欄で紹介されていたんだった。もう20年近く前に読んだ漫画から今につながっているんだなぁ。
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のんびり、ゆったり。
そんな生活をしていた作者の鋭い感性と科学者としての洞察力が溢れていました。
関東大震災のことが書いてあって、予想外に救われた気分になりました。震災後の自然の回復力のところ、読んでいてじんわり目頭が熱くなりました。
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寺田寅彦は、本書カバー記載の紹介文によると、日常の中の不思議を研究した物理学者らしい。池内了の解説にもあるが、日記の断片とようなものを集めたものが本書のようだ。
印象には残ったのは次の2箇所。『祖先の声から出直さなければならない』『花を咲かせないで適当に貧乏しながら適当に働く。平凡だが、長生きの道はこれ以外にない』
変化が激しい時代でも変わらない何かを探している。日本という国の中で、長い時間をかけて洗練された知恵・歴史の叡智を探究してみたい。そこに拠り所があれば良いのだが。
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“くだらない人間や、あるいはきわめていけない人間の書いたものでも後世を益することはある。たとえそれがどんなうそでも詐りでも、それでもやはり人間のうそや詐りの「組織」を研究するものの研究資料としての標本になりうる。ただしそれが「詐らざるうそ」「腹から出たうそ」でなくいと困るかもしれない。
とは言うものの、「詐りのうそ」でも結局それがほんとうに活きていた人間の所産である限り、やはりそれはそれとして標本として役立つかもしれない。
全く役に立たない人間になる、ということほどむつかしいことはないかもしれない。”(p.251)
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「学者であって、しかも同時に人間であることがいかにむつかしいものかということをつくづく考えさせられ」たりする、情緒ある科学者の随筆。蟹を持つ男の息子や島田を結う娘、庭の花壇の栄枯盛衰などなど、日常に思いを寄せている。「なるべく心の忙しくない、ゆっくりとした余裕のある時に、一節ずつ間をおいて読んでもらいたい」という著者の願いがしみじみ伝わってくる。昭和初期(1933年)に書いているというのも、歴史を振り返れば皮肉でもあり、また永遠でもある。