あらすじ
枯葉ほどの軽さの肉体、毀れた頭。歩んできた長い人生を端から少しずつ消しゴムで消して行く母――老耄の母の姿を愛惜をこめて静謐な語り口で綴り、昭和の文豪の家庭人としての一面をも映し出す珠玉の三部作(「花の下」「月の光」「雪の面」)。モントリオール世界映画祭審査員特別グランプリ受賞ほか、世界を感動に包んだ傑作映画の原作。
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著者の自伝的小説三部作「しろばんば」、「夏草冬濤」、「北の海」に続いて読んだ。小説中の洪作、すなわち井上靖は長じて文豪となったわけだが、この「わが母の記」の三つのエッセイでは、その見事な筆致で惚けてゆく母親の晩年を冷静に、しかし優しく描写している。本作を読むことで洪作三部作は完結したのだと感じ入った。
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晩年の母との日々を綴った作品。約5年ずつを空けた3つの作品から構成されている。5年ごとに老いが進む母。自らの人生の記憶を少しずつ消しゴムで消していくような母。世話をする子供たちのことも分からなくなっていく。しかし、母の中では母なりの世界が展開されているようだった。
井上靖の簡易でありつつも味わい深い文章がまた素晴らしい。
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米子市の「アジア博物館・井上靖記念館」を訪れた折、購入した本の内の一冊が「わが母の記」だった。「母」という存在は年齢を重ねれば重ねるほど大きく、そして、感謝の度合いも深まってくるものだ。その恩の最たる存在である「母」を井上靖はどんなふうに書き記しているのだろう、という思いから読み始めた。最初の方に父との最後の思いが書いてあったが、さもありなん、男同士というのは、そのようなものだろうということを感じ、自分も息子達からそのような思いを抱かれながら、この世を去っていくのだろうという思いを持った。
主題は「母」。「母」の脳が次第に壊れていくにつれ、記憶がどんどん消されていって、しまいに幼児、赤ちゃん化していく、そして、自分が産んだ子達さえ、その消去の中へ組み込まれていく。著者本人もしまいには「亡き者」にされてしまうが、その中であっても、淡々とした筆致の中に、母に対する著者の「母」への深い思いを感じた、というのも「母」の顔の表情やら行動の観察がとても細やかだったから。
現在の私には実母と義母の二人の母がおり、幸いに存命中だ。その二人の母のことが読書中、しばしば意識に昇ってきて、著者の母が老耄し、行動が変質していく姿に、著者と同じ思いを抱いたり、同苦したりした。私の二人の母は、やはり老齢による劣化は免れられず、変化していっている。変化の仕様が全く異なっているというのは、どんなことに生き甲斐を感じたのか、どのようなことに幸せを感じたのかにも依るのでは、と思う。中には、老耄の果て、別人格になってしまう人もいるということも聞く。我が身のことも含め、死ぬまで予断を許さないのが人生、ということを肝に銘じながら、「自己最優先」という「我」の膨張には特に注意を払い、人の中にあって、「生きる」ことの意味を学び続けていきたい。
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「もう面倒見切れない気持ちになっている」実の母親をそんな風に言う場面なんて嫌だなぁ。そう思った時、昔私の祖母が呆けた時を思い出して頭を抱えた。 そうだ、中学生の私も母が大変そうで『大好きな』ばーばに腹が立っていた。 身近な人間が急激に変わっていくのをすんなりと受け入れられる人間なんてそうはいないんだった。それでも暖かく忘れていく母を見守っていくささやかな愛の詰まった一冊でした。
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老髦の母、壊れた精神と小さな体。著者の一人称を主体として、晩年の母をめぐる家族の様子を、淡々と、幾らか抑制の効いた語り口で綴る。
昭和の家族模様とはかくあり、また今日でもかくあるべきなのかもしれないと感じた。
壮年期を迎えた方々に、特に読んでほしい一作です。
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80歳を過ぎて少しずつ記憶が消え、幼児化してゆく母と、見守る息子。息子の語り口調。映画では見せ場、泣かせ所があったが、小説はもっと淡々と描かれている。
「花の下」「月の光」「雪の面」の三部作。風景の中で、老いた母と若い母が合わせて描かれる場面があり、その文章が綺麗で感動した。
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井上靖初読、映画は過去、樹木希林氏ご逝去の直後に観ていた。
著者の母が老い、主に認知症を進行させていく様を長男の立場でありながら極めて客観的に描く。
耄碌していく母は少女性を復活させ、我儘な振舞いを見せる。
人は歳を取る毎、ある一定の年齢を経ると子供へ還っていくと言うが、彼女の場合は無垢と狡猾がせめぎ合っている様だった。
淡々とした文章は、殆ど悲哀を介在させぬ。
靖自身はあくまで物書きとして実母を観察・取材していたのだ、と思う。
「全身小説家」と自称した井上光晴のみならず、近代の作家にはこう言ったタイプが多く見られる。
樹木氏は映画の見所を訊かれる事に辟易としていたが(没後展覧会の映像より)、本書にも同様の姿勢が窺えた。
昨今の過剰に情緒と泣き所を盛り込んだ小説の合間に読む事で、読書脳がリセットされた様な思いも。
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人が年老いていくと食べて排泄するだけの一本の管になる。そもそも、それこそが生物の基本的な活動なんだと・・・他の出来事は薄ぼんやりと霧の彼方へ・・・DNAを無事に次世代へ引き渡したのなら、わが身は死を待つばかりなり(合掌
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最近、井上靖にはまっています。文章が好き。幸いにして家族一同無病息災であったのですが、1年半ほど前に祖父がなくなりました。短い闘病生活でしたが、その時、親を看取らんとする両親の、叔母の背中を見ていた気持ちを思い出しました。今の私の立場は孫娘にあたる芳子のようなものですが、いずれ立場が筆者や、その姉妹、ひいては母へと移っていく。本当に素晴らしい手記でした。
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井上靖の一作。母の晩年を書いた作品。惚けてしまった母の描写がやはり秀逸。自分の将来を考えてしまう。惚けると理性をなくし、感覚の世界に生きるのか。
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全編にわたり、母への強い思慕を感じさせる本だった。
いつまでも元気だと思っていた親がだんだんと老いてゆく。老いてゆくだけではなくて、だんだんと壊れてゆく。壊れていって、そのうち、家族のことを忘れてゆく。
認知症で次第に記憶や社会性を失っていく母の姿を、時に冷静に厳しく綴っているが、その筆致は冷酷でも残酷でもなく、親が子を戒めるような愛情あるものとなっている。
次第に我を失っていく親の姿は同時に、次第に親を失っていく子どもの切なさと悲しみを投影していて、心を打つ。
ひっそりと、しんみりと、気がつくと父母を想う気持ちになっていた。
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枯葉ほどの軽さの肉体、毀れた頭。歩んできた長い人生を端から少しずつ消しゴムで消して行く母--老耄の母の姿を愛惜をこめて静謐な語り口で綴り、昭和の文豪の家庭人としての一面をも映し出す珠玉の三部作。モントリオール世界映画祭審査員特別グランプリ受賞ほか、世界を感動に包んだ傑作映画の原作。
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老いにひとつの形容詞しかつけられないような人にはなりたくないと思った。家族がいまよりも家族だったころ、良い意味でも悪い意味でも縛り縛られてたころの、ひとりの尊敬する文豪の、実話。
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時代背景など、難しい点もいくつもあったが、心がジーンとする小説だった。
家族をこんな風に見つめ続けられたら、見つめられ続けたら、なんというか幸せだと思う。
映画は見なかったけど、小説だけで十分楽しめた。
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井上靖本人の母親の老いに関して
家族が経験したことを
本人目線で淡々と綴っている。
とはいえ、母親の面倒を見たのは
主に女姉妹家族や妻娘であるため、
だから、淡々と分析できているのでしょう。
母親がどんどん子供返りしていくとか、
家族や周りを困らせているさまは、
なぜ?と、
分析せずには居れないのかもしれません。
別荘があったり、お手伝いの方がいたり、
家族が助け合えたり、
恵まれているとはいえ、
大変な時間をすごされたことでしょう。
人が亡くなるということは、
大きなことです。
そして、全ての人が、行く道なのです。
状況などは違えども、
全ての家族が通る道なのです。
感慨深くよませてもらいました。
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大作家が老いとともに生きる自分の母について書いたもの。母への思いを綴るというよりは、「花の下」「月の光」「雪の面」という3編で足かけ10年を追っていく。作家ならではというべきか、明治の男らしいちいうべきか、感情はあまり出さずに、いまでいう認知症の症状がだんだんと濃くなっていく母について書いている。
書かれているのはおそらく昭和30~40年代頃のことなんけど、周囲の人たちの認知症の人への対し方がいまとちょっと違うなと思った。いまほど研究が進んだり人々の意識のなかでも「普通のこと」「誰でもなること」というものではなかったであろう頃。それゆえの忌避感やこういう接し方しちゃダメじゃんみたいなこともあるんだけど、一方で接し方にゆとりがある感じがした。ま、それは時代のせいでもあれば、みんなでおばあちゃんを看るような家族・親族の一体感もあってのものなのだろうけど。
著者は長男風吹かせてるわりには、結局母と長く一緒に暮らしてくれたのは、(母の希望もあったからだけど)妹2人だったようで、息子とは役に立たないものよ。この頃にしてそうなんだから、いわんや現代をや。
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樹木希林の映画を見て購入。学生時代にしろばんば、あすなろ物語、とんこう、天平の甍など五十年前読んだ記憶が呼びさまされる。硬派な小説だけど爽やかさが感じられる。
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最後の年表で名前は変えられているんだなと知る。よって、ノンフィクションのカテゴリではないかな。親が死んで自分と死との距離が近くなる。親が死から自分をかばっていてくれたんだなという文豪ならではのセンスが光る。
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映画を見た時、作中に使われる詩が好きで
原作の方にも手を出したが、家族構成も違って詩も出てこなくて、映画はけっこう脚色されていたのだとわかった。
では、映画でうたわれたあの詩はどこから来たのだろう。
〝おかあさんと 渡る 海峡〟
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自分の母親の晩年を、死を、この様に言葉という形で表現できる作家という生業を羨ましく、また尊敬の念を抱かずにはいられない。
認知症の祖母を想う。今祖母は、どのような世界を生きているのだろう。
祖母と過ごした時間が愛おしく、また両親を思慕させられる一冊だった。
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認知症の母を理知的な観察眼をもって記録した本。私の祖母も同じだ。離れて暮らしている為、感情的に巻き込まれることはないのだが、、。(認知症は魂の半分はあの世にいっている状態。向き合う家族に多くの体験と感情をもたらす為に、現世で最後の役目として、半身を残して、我々に語りかける状態だ)という見解を何処かで読んだことを思いだす。
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認知症云々というより、慈愛に満ちた眼差しではあるもののある意味冷酷な生命の記録といった感じ。
やっぱり生きるというのはどうあれ他人様に迷惑をかけるものなんですな、謙虚にならんといかんです。
主人公(?)である母にとって旦那のことは完全に忘却の彼方って結構応えますよ、自分もその対象になってしまうかも、気をつけないと、、、
映画もなかなか良かったが、本の方が一枚上って感じ。
流石井上靖です。
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花の下、月の光、雪の面、と被る内容が書かれてあり少し中弛み感があった。映画を観る前に読もうと手に取った本。高齢者が増えていく
これからの世の中、認知症の発症数も増えていくことでしょう。可能であれば、周りの方をなるべく手こずらせずにこの世を去りたいと私は思う。
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高校時代に一度、春に映画を観る前に一度、 そして今回また読んだ。
同じ井上靖の作品で人の成長を感じたが、"幼少に戻る"老いの形もそれもまた人の成長のひとつなのだろう。
個人的に、高校時代より経て今、家族や親戚としてとても考えさせられた。
映画とはまた違う感慨。
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母が映画を観、とても良かったと感動していたため、
先に原作をと思い購入。
映画はまだ観ていません。
この原作を読み、どうして映像化しようと思ったのだろうか。
珍しく、、感想が、、ない。。
Posted by ブクログ
エッセイとは取りにくいけれど私小説とも違う不思議な語り口。自分の母親の老いた姿を通して人生の集約を見ている著者がいるが、その著者は読者自身でもある気がする。読み始めた当初は、この作品はいったい何を伝えたいのかと思ったほど的が絞れなかったが、これは人間の業(ごう)と言われる物が書かれているのではないだろうかと感じるようになった。一人の母の人生ではなく人間すべての避ける事の出来ない人生のひな形のような物、でしょうか。
そして人生の終焉に近づいた母が状況感覚の中に生きて、その人生舞台の照明は消え、きらびやかな道具立ても無くなってまだらな記憶の中でただ一面に降る雪を眺めるようにして周囲から隔たった自分だけの立ちで位置本当の孤独のにいるのだろうと思った。