あらすじ
歴史を振り返ると、日本人が抱くこうした“宗教的グレー“な感性が随所に垣間見られます。
その一例が、奈良の東大寺にある「手向山八幡宮」と呼ばれる神社の存在です。
なぜ仏教寺院に八幡様を祀る神社があるのか。
それは、聖武天皇が東大寺の大仏造立のために全国に協力を募った際、
大分県の神社・宇佐八幡宮が積極的に協力したという背景があるからです。
おもしろいことに、手向山八幡宮のご神体は、僧侶の形をした八幡様です。
これほど神仏が混在する宗教観を受け入れる国は、世界広しといえどそう多くはないはず。
本書では、そんな日本独自の“グレー“な宗教観についてご紹介していきます。
(本書「はじめに」)
●戦国時代にキリスト教の宣教師たちが
日本に来たのは殉教を望んでいたから
●神託を変えることで
朝廷の信頼を勝ち得た宇佐八幡宮
●日本の新宗教に日蓮に
関連しているものが多いワケ
●伊勢神宮のお伊勢参りを支えた遊郭
【目次】
第1章 日本人は神を信じてきたのか
第2章 仏教が根付いたのは「多神教」だったから
第3章 多才な空海と孤高の最澄
第4章 「民衆の救済」がなかった平安仏教
第5章 鎌倉新仏教は庶民をスポンサーに
第6章 武士に好まれた禅宗の魅力
第7章 なぜ一向宗は織田信長の脅威だったのか
第8章 豊臣秀吉がキリスト教に危機感を覚えた真の理由
第9章 徳川家康はキリスト教と豊臣家の団結を恐れた?
第10章 廃仏毀釈は明治政府の命令ではなかった
第11章 神道は本当に宗教ではないのか
第12章 日本における「本当の信仰」とは?
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Posted by ブクログ
日本人は天皇をワクチンとし戦後一日の思想転換で免疫を獲得したことで特異な宗教観を身につけたと、以前何かのレビューに書いた。そのことはそれほど間違いではないと思っているが、正確には、戦前から宗教を外来種のごとく扱ったり、八百万の神にしてもロジカルな言語化はせずに無意識下に鎮座する存在として受け入れてきたように思う。それは、“騙されたフリをする“態度にも近く、庶民のための実用的な神であり消極的な信仰であった。
ー 明治時代に国家神道が歴史として教えられていたとき、当時の知的階層や科学者たちはどこまでこれを信じていたのでしょうか。結論から言えば、彼らは国家神道を信じていなかったと私は思います。しかし、国家神道は天皇制と深く結びついている以上、天照大神の子孫が天皇であるという神話を「馬鹿馬鹿しい」と公然と批判するわけにはいきません。無政府主義者や社会主義者などの一部の思想家をのぞき、知的階層の人々の中でも国家神道を直接攻撃する人物はほぼいませんでした。
この“騙されたフリ“をする実用化志向は、喋るはずのないネズミに夢をみるようなテーマパークや台本のあるプロレス、明らかな反日政党を排除しない姿勢、ブランドやアイドルへの推し活など、そこかしこに見られ、その究極が天皇や宗教ではないだろうか。
もっともそれらは、だからこそ“信仰“なのであり、その観念を抱く限りは“本気で信じている“のであって、夢を醒ますような発言をしてしまうと喧嘩になるだろう。信仰とは持続。思い続けなければ存在しない、オルタナティブファクトだ。
本書はそんな日本人の宗教との付き合いを歴史に沿ってかつ著者の仮説も織り交ぜながら綴られる。
ー 海幸彦と山幸彦が本当に天皇家や隼人族の祖先だったかどうかは実際にはわかっていませんが、この物語で私が気になるのは終始一貫して山幸彦が善玉、海幸彦が悪玉として描かれている点です。この物語から推測するに、日本人は海よりも山への畏敬の念が強いように思います。
ー 法然の教えに基づいて「悪い人ほど極楽に行ける」と解釈し、それを逆手に取って「いくら悪いことをしても、南無阿弥陀仏と称えれば救われるから、どんなに悪いことをしてもいいじゃないか」と考える行為です。法然はその考えを厳しく戒め、阿弥陀様への感謝を忘れてはならず、日ごろから悪行を行ってはいけないと説きました。
ー キリスト数の「デウス」という言葉に充てられたのが、「大日如来」という単語でした。これを聞いた日本の僧侶たちは、ザビエルを「ヨーロッパから来た同業者である」として受け入れ、非常に友好的な態度を示したのです。カトリックの神父たちは後頭部を剃り上げているし、外見的にもお坊さんのように見えなくもありません。その点も、僧侶たちが宣教師たちを受け入れた理由でしょう。最初は友好関係を保っていたわけですが、途中で両者の関係に決定的な亀裂が生まれる出来事が発生します。それは、キリスト教という一神教と仏教や神道という多神教の対立などという難しい問題ではなく、「お稚児さん」の存在でした。キリスト教では、同性愛はご法度です。ところが、日本の寺院では、女色に走らない代わりに、お稚児さんと呼ばれるかわいらしい美少年たちを僧侶たちが愛でる文化がありました。この事実を知った宣教師たちは衝撃を受けます。少年が僧侶と特別な関係にあるという文化に対して、「これは到底受け入れられない」と判断し、両者は袂を分かつことになります。
ー 現在、伊勢神宮に参拝に行くと、違和感を抱くことがあります。それは、神社につきものであるお賽銭箱が置かれていないことです。実は伊勢神宮に奉納できるのは国家や天皇家といった特別な人に限られており、私たち一般人はお賽銭を捧げることができません。
成り立ちが俗なら布教も俗であり、だからこそ日本の宗教史は生活史と重なる所が多い気がする。本当の神は、本来人間ごときには語り得ない無言の存在だと私自身は信じている。これも不可知論的な信仰である。
Posted by ブクログ
文体が難しくなく読みやすい。しかし、作者の個人的な感想や推論が多いなと感じた。宗教を知ろうとするきっかけの本としてはいいと思うが、深く学びたいと思ってる人には物足りないと思う。
Posted by ブクログ
<目次>
第1章 日本人は神を信じてきたのか
第2章 仏教が根付いたのは「多神教」だったから
第3章 多才な空海と孤高の最澄
第4章 「民衆の救済」がなかった平安仏教
第5章 鎌倉新仏教は庶民をスポンサーに
第6章 武士に好まれた禅宗の魅力
第7章 なぜ一向宗は織田信長の脅威だったのか
第8章 豊臣秀吉はキリスト教に危機感を覚えた真の理由
第9章 徳川家康はキリスト教と豊臣家の団結を恐れた?
第10章 廃仏毀釈は明治政府の命令ではなかった
第11章 神道は本当に宗教ではないのか
第12章 日本における「本当の信仰」とは?
<内容>
専門ではない近世以降の内容は消化不良の気がする。さほど新しい内容はないし、自分の見解も少ない気がする。豊臣家とキリスト教も根拠は薄いし…。