あらすじ
前代未聞の「羊飼い作家」誕生秘話エッセイ。
最初の一頭を飼ってから、最後の一頭の出荷を見届けるまで
「羊飼い一代記」を綴った傑作エッセイ
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「お仕事は何を?」
「羊飼いです」
「……え?」
という、なんとなく微妙なやりとりを重ねてきたのは、ひとえに日本人は羊飼いという職業に馴染みが薄いせいであるのかもしれない。
(本文より)
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酪農家の娘として生まれたからこそ、その過酷さは身にしみており、大学卒業後も農業に関わるつもりはなかった。
だが大学時代に教授宅で催されたバーベキューで出逢ってしまったのだ、美味しい羊肉と――。
「自分でも生産してみたい」との思いから一念発起しニュージーランド実習へ。
さまざまな縁にも助けられながら、勉強を重ね、日々実直に羊を育て、出荷し、羊飼いとして収入を得られるようになった。やがてお得意先のレストランシェフに「河崎さんとこの肉はお客さんに出すのが勿体ないほど美味しい」と言われるまでに。
順調に回り始めた羊飼い生活を、それでもなぜやめる決断をしたか、そしていかにして小説を書き始めたのか。「小説家前夜」の日々を綴る。
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Posted by ブクログ
羊飼いをやめられて専業作家になられたのは知っていましたが、その経緯がこんな切ないというか辛い話だったとは⋯。やめたくなかったけどやめざるを得なかった、やりたいこととやらなければならないこととの狭間で、こういうとき「ああ!自分がもう一人いたら!」なんて言う人もいて、私はそういうタイプですが河﨑先生は(そのしんどさと大切さを痛感するあまり)そんなことを思ったりはしない方なのだろうと思いました。
(思おうと思わざろうと現実は何ら変わんないですね)
自分の家で飼っている動物を食べることを当たり前だと思って育ち上がった、ということがよくわかりました。ゆえに手塩にかけた羊もおいしく食べるのは当たり前と。
自分は自分ちで飼ってた鶏の卵さえも食べられない人間でした。まぁ家業じゃなくてペット的に飼ってたせいもあったと思いますが。
河﨑先生の、時にはドライすぎるんではと感じるような野生動物を描き出す冷徹さの理由を本書で理解したように感じました。いやしかし、羊や鹿を捌ける40代女性って日本にそんなにいるだろうか。稀有な技術をお持ちの人には違いない。
そして学生の時にたしなみはあったにしても「よし、小説を書こう」と思い立って書いた作品がほぼいきなり入賞に絡んだり大賞に選ばれたりするというのも、ただならなかった才能なのではとやはり思わずにはいられない。
それにしても本当に文章が上手いなぁと唸ります。5章6章は息を飲むような読み心地で思わず読みながら前のめりになっていました。
5章でお父さんが開頭手術を受けられますが、私も自分の親が頭の手術をしたとき、先生と同じようなことを思ったのを思い出しその時の先生の心情を想像し苦しくなりました。
7章の中で、子供に家畜を飼わせてその動物を殺す、さらに時には食べるまでするいわゆる「いのちの授業」について「動物を能動的に殺すことを教育という名のもとに子どもたちに受容させるのは、どうか考え直してほしい」と強く訴えていることにはっとさせられた。
私はそういう映画も観たことがあり鑑賞後、何かもやもやとしたものが残っていたけれどうまく言葉になりませんでした。でも河﨑先生のこの文を読んで「そうだ、これだったんだ、だからもやもやしたんだ」と分かった気がしました。同調圧力の怖さ。子どもによってはトラウマになってしまいかねないとさえ今は思います。
河﨑先生の人生は一人で体験するには稀有すぎるというか貴重すぎるというか、あっけにとられる思いでそしてあっという間に読み終わりました。
「私の羊は美味しかった」その言葉に羊飼いとしての矜持をとても感じました。
いやほんとにすごい人だ。
Posted by ブクログ
羊飼いという職業の奥深さを知れた。
編み物にはまってから、毛糸に興味が湧いて、その流れでこの本に出会った。
直木賞受賞時の会見で、著者が前職は羊飼いと知り、放牧的なイメージの職業だと勝手に想像していた。でも、肉体的にも精神的にも追い詰められながらも、羊を飼ってみたい、生産してみたいと、チャレンジしていく姿がコミカルに生々しく綴られ、最後に廃業する時の悔しさが伝わり胸に詰まった。
作中には、美味しそうな羊料理も出できて、新鮮な国産羊肉を食べてみたいと思った。
やりたいことに集中するためには、取捨選択しなくては、全てを失ってしまう時がある。死んでは何もかも出来ない、なんとかして心も身体も健康でなければ何も出来ない。
私も踏ん張っていきたい。
Posted by ブクログ
自分で美味しい肉を生産したいと思い、羊飼いになった著者のエッセイ。
羊飼いになるために実家に戻り、家業の酪農を手伝いながらも羊の生産や執筆も行うバイタリティー溢れる著者。
自分で生産した羊を食べることに抵抗はないの?という愚問にも真向から答えているところに好感が持てる。
動物の解体を手早く無駄なくできる人を尊敬するという著者を私は尊敬する。
写真が数多く挟まれているが、去勢前の純粋な目をした子羊がとんでもなく可愛かった。牧場でのびのびと育って、最後は屠畜場で肉になり生涯を終える羊たちを、見事に育て上げた著者の想いに触れることができて嬉しかった。
そうか、生産者は消費者に美味しい肉を食べてほしいと思ってくれているんだ。気が付けば日頃、動物の肉を無機質に噛みしめている私にとって、目が覚める思いだった。かと言って、すぐに生命に感謝して食べよう!等と思いながら食べるのは無理かも。だが、生産者が汗水垂らして飼育した肉をいただいているのだ、ということだけは忘れずにいたい。
執筆業に専念する直前の著者は、介護に酪農に執筆に羊に…とそれは目まぐるしい日々だった。誰も著者の選択を責められないし、潔い幕引きだったと思う。自分の育てた羊の最期を見届けても、感情的になったりしないところがまた素敵だった。
こんなにのめり込めるエッセイは、滅多にない。
Posted by ブクログ
河崎秋子さんの『颶風の王』を初めて読んだ時は衝撃を受けた。
動物や、北海道の厳しい自然の中で生きる人たちの、凄まじい生き様を見せつけられたからだ。
その後も、野犬、鳥、ヒグマなど、様々な動物たちが人によって殺されていく小説が描かれた。正直言って、そのどれもを快く思って読んだわけではないが、彼らが命や自然と向き合う姿には、限りなく惹かれていった。
食肉になった姿しか知らない自分が、屠殺される羊の一部始終を読まされるなんて、耐えられるかと思ったが、この本を読み進むうち、(まだ完全に、ではないが)粛々としてその事実を受け入れようとする自分がいた。
そして「いのちの授業」として小学生の前で行われる鶏の屠殺が、子どもたちの一人一人異なった感受性に対して、いかにその場では相応しくないのかを、理路整然と述べてくれた。
このことは、目の前での動物の死を受け入れるのが苦痛な自分にとって、救われる言葉だった。
それを正しく伝えることができるのは、酪農の家庭に育ち、生まれた時から経済動物としての牛と向き合って、何度も動物たちの死に触れ、害獣のエゾシカを駆除して捌き、飼っていた鶏を締めて食べるのが当たり前だった河崎さんだからこそ、だったと思う。
(ところが、このページがどこにあるのか読後に探したが、なぜかいまだに見つかっていない。幻〜?だったの??)
河崎さんは、牛や羊の世話に加えて、父親の介護が重なった一番大変な時に『颶風の王』でデビューする。
いよいよ作家と羊飼いの二足のわらじ(さらに介護)が限界と悟った河崎さんは、自分で苦労しながら肥育した羊を肉にして売り、最後の羊たちの屠殺を見守るのだ。
その後の感慨と、サプライズなラストシーンは河崎さんにとっての、「最後の羊」に相応しい素晴らしいものになっている。
余談だがイギリスで代々牧羊を続けてきた、ジェームス・リーバンクスによる『羊飼いの暮らし』(ハヤカワノンフィクション文庫)にも河崎さんが解説を書いている。
以前、「羊飼い」というものをまだよく知らずに読んだが、今一度、この本も読み返そうと思っている。