あらすじ
満州民族、漢民族、朝鮮民族、蒙古民族、日本民族が協力し争いのない平和な国づくりを目指した満州国。満州躍進の象徴となった特急「あじあ」号、日満親善のアイコンとなった満映の李香蘭、智謀・石原莞爾参謀が「世界最終戦争」のために引き起こした満州事変、清朝復活の執念にとらわれた皇帝溥儀、国策で満州に渡った二七万人の満蒙開拓団……。五族協和の王道楽土を夢見た約一五五万人(軍人を除く)の在留邦人はどう暮らしたか。ソ連による満州侵攻、日本敗戦によって、彼らに何が起こったか。わずか一三年あまりで消えた実験国家の建国から崩壊まで貴重写真でひもとく。
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Posted by ブクログ
写真が語る満州国
著者:太平洋戦争研究会
発行者:喜入冬子
発行:2024年7月10日
ちくま新書
日本が満州に溥儀を立てて成立させ、経営をしていた満州国について、当時の写真を多く集めて語っていく、なかなかの労作。各章、前半に写真をたくさん掲載し、後半に文章で歴史を語っていく。したがって、文章自体がコンパクトにまとまっているので、満州の歴史を知るために辞書的に置いておきたい一冊でもある。
もちろん、詳細まではカバーしていないが、これぐらいのことを知っていれば全体像を掴むには十分だろうと思われる。
とくに満州国の歴史に詳しくはないが、意外なことが書いてあった。知っている人には意外でもなんでもないかもしれないが。
満州は満蒙開拓団を入植させ、農業を中心に植民地に近い利権を得るために造られたイメージがあるけれど、実は農業よりも重工業を中心とする産業の拠点化を目指していたことを知った。戦争で疲弊した国内での産業の成長をあきらめ、日立製作所や日産自動車、日本化学などを有する日産コンツェルンを進出させて、それまでは満鉄コンツェルンが担ってきた重工業会社を日産に移し、大産業化を図ったのだった。それを実行していったのが、岸信介と腹心の椎名悦三郎だった。
関東軍の財源の大部分は、アヘンの販売利益だった。
アナーキスト大杉栄とその妻、甥を虐殺した甘粕正彦は、実に軽い罪だけ負わされ、服役後は民間人として関東軍の裏仕事をしていた。謀略などダーティーな仕事をしていた悪だったが、国策会社である満州映画協会(満映)の経営者(理事長)になると、そのダーティーさから一転した。赤字解消のため、年功序列廃止など人事の刷新、日本人と中国人の社員・俳優との間にあった給料格差の廃止、徹底した能力主義導入、高官の宴席で女優に酒の酌をさせる悪弊の廃止などを行った。スタッフや俳優たちから絶大な信頼を得ていった。
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「満州」という呼称は、清朝時代(1616-1912)の中国東北部「東三省」(遼寧省=奉天省、吉林省、黒竜江省)全体の総称として使われていたが、語源は民族名。古来から北方民族により漢民族の中国とは別に国家が造られていた。
満州農業移民100万戸移住計画:500万人の日本人を移住させようとした。結局、約27万人と言われている。
満鉄は株式会社を装った政府機関、総裁(のち理事長や社長などに変化)は政府任命、経営方針も政府命令。東インド会社をイメージし、満鉄を通して満州を植民地支配する。明治40(1907)年4月1日~。
鉄道と炭坑の運営、植民地内の土木、教育、衛生などの施策遂行、そのための徴税権も。政府代行のミニ政府的要素。
関東州の租借期限と満鉄の経営期間が満州全土独占を目指すネックに。遼東半島の租借権は1898年から25年、満鉄経営権は1903年から36年間。そこに願ってもない第一次大戦。日本も参戦し、関東州租借期間(1997年まで)、満鉄線(2002年まで)と安奉線(2007年)の経営期間をそれぞれ延長できた(各99年間の延長結果)。
1931年9月18日、柳条湖事件を起こした。しかし、爆破の規模は小さく、直後に奉天行きの列車が何ごともなかったかのように通過した。これを合図に関東軍が動いたが。9月22日に関東軍の吉林占領を「侵略行為」として中国は国際連盟に提訴。幣原外相は軍を自発的に満鉄付属地へ撤収することを表明、連盟は日本の誠意に期待して「日本軍の速やかな撤収を勧告する」という理事会決議を出すに留めた。
1931年11月2日、満州事変に関して、関東軍奉天特務機関長・土肥原賢二大佐が溥儀に釈明した。満州人民が新国家を建設するのを援助する方針だ、新国家の指導にあたるよう望む、とも。溥儀は「その国家が共和制か帝政かを知りたい」と聞くと、「もちろん帝国です」と答えた。
1932年2月18日に独立宣言。
国体=民本政治
国主=執政
国号=満州国
年号=大同
国旗=新五色旗
溥儀は翌日にニュースを聞き、「これは共和制」ではないかと激怒するも、最終的には執政への就任を受け入れる。建国1年後に帝政に移行し皇帝になるという溥儀側の条件を日本がのんだため。実際には2年後にそうなった。
満州国において、日本人は一等皇民(天王の民)、朝鮮人は二等皇民(日本領だったので日本人扱い)、満州人(漢民族・満州民族)は三等皇民だった。法律で決められたわけではないが。
数多くの日本人が「満州」に渡ったが、基本的には中国本土(万里の長城より南)からの出稼ぎ労働者の流入や、強制移民などがその大半を占めていた。なぜ中国人を強制的に連行していったのか?満州での産業開発が急ピッチで行われたのと関係している。
1937年8月21日、国策会社である株式会社満州映画協会が発足。映画を通じて満州国の正当性をプロパガンダすることが目的。製作、配給、映写業務。満鉄あがりが経営をしていたが赤字、1939年に新理事長就任、甘粕正彦。大杉栄、内縁妻・伊藤野枝、甥の橘宗一を虐殺、服役後は満州で民間人として日本軍に協力、関東軍の背後でいくつもの謀略工作をした。ところが、満映の理事長就任後の仕事ぶりは、それまでのダーティーさとは180度異なっていた。年功序列廃止など人事を刷新、日本人と中国人の社員・俳優との間にあった給料格差を廃止、徹底した能力主義導入した。また、高官の宴席で女優に酒の酌をさせる悪弊も廃止し、スタッフや俳優たちから絶大な信頼を得ていく。
満州国政府は、1932年11月にアヘン禁止にしたが、中毒者は当局に登録させ治療名目で政府が販売するアヘンに限り吸引許可。つまり、届け出をすれば誰でもアヘンが吸える専売制とした。これにより政府は莫大な利益を得、関東軍の財源もアヘンによる利益が大多数を占めていたと言われる。
北満州を横断しているシベリア鉄道の一部、東清鉄道は、清朝崩壊後に名を変え、満州が出来てからは北満鉄道と呼ばれていた。ソ連は1932年に売却を提案してきた。1934年、満鉄に正式譲渡。
1936年10月、関東軍は満州国政府と満鉄関係者を鞍山近郊の温泉に招待し、「満州産業開発五カ年計画に関する非公式の懇談会」を開催。満州国政府7人はすべて日本人だった。「満州産業開発五カ年計画大綱」が成文化され、商工省を辞して実業部次長→総務庁次長に抜擢された岸信介により実施された。腹心は椎名悦三郎。
岸の最大の功績は、新興財団・日本産業株式会社(日産)を満州国に引き入れて、産業開発を具体的に動かしたこと。日産の総帥・鮎川義介は岸の遠縁にあたるという人脈もあった。日立製作所、日産自動車、日本化学など130社、15万人を有する日産は、満州に進出して「満州重工業開発株式会社(満業)」と改称した(1937)。かつての大コンツェルン満鉄は、鉄道部門・撫順(ぶじゅん)炭鉱・調査部門だけに縮小され、おもだった重工業会社は満業に移った。
五カ年計画が本格化すると、中国人を計画的に受け入れた。満州国に入国してきた華北地方の中国人労働者は、1938年が49万人、1939年が93万人、1940年が131万人。すでに中国と日本が戦争中なのに占領軍である日本の募集に応じて故郷を離れ、日本が奪って建国した満州に出稼ぎに行かなければならなかった農民がいかに多かったか。
問題は自発的労働者ばかりではなかったこと。1940年頃から何らかの強制力をもって中国人労働者を連行するようになった。1940年の131万人のうち、42万人は強制連行だった。1941年には満州国と華北の間で入満労働者募集協定ができ、華北の労工協会が設立されて、募集(人狩り)業務を行いだし、1941年に91万人、42年に106万人、43年に78万人が満州に送り込まれた。
強制連行は、日本軍の作戦として寝込みを襲って引っ立てたり、地域一帯を数万という軍隊で囲い込み、逃げ遅れた農民を捕まえるという方法も採用されたりした。
満蒙開拓団の入植により最初に出来たのが、弥栄(いやさか)村だった。満州移民の模範村として、後年、最も宣伝され、視察者も多かった。入植にさいしては銃と軍刀の威圧の下に進められた強制的な買収工作が行われ、さすがの関東軍付吉林軍顧問の東宮鉄男大尉もいくらかのためらいをみせ、日記にもそれを書いている。
集団開拓移民:200-300戸からなり、診療所、学校、本部といった故郷施設を備えることが原則。5年後には村政を敷き開拓村となる。
集合開拓移民:30-100戸からなり、集団移民より自由な立場での入植が可能。独立した公共施設を持たないことがある。鉄道沿線や都市部に定着。
分散移民:一集落をつくるに満たない小集団で、集団・集合開拓団周辺やその内部に入植。
関東軍では1945年6月、在満邦人の「根こそぎ動員」を始めた。兵役適齢の在満日本人男子35万人のうち、行政や警備、産業などでどうしても必要な10万人を覗き、25万人を収集し、八個師団をなした。開拓団として入植していた者も例外とせずに召集。
満州とソ連との国境線各地の後方に残された一部部隊の奮戦は、まことに壮絶なものがあった。満州東部の牡丹江では、正攻法では勝ち目がないとみて、挺身攻撃を繰り返した。幹部候補生主体の1680人からなる部隊は、ソ連戦車部隊を迎撃。ほとんどが爆弾を身に抱いての体当たり戦法で40両を破壊し、生き残ったのは約100人。
敗戦時の開拓団は、普通の開拓団が24万2300人、満州開拓青年義勇隊が2万2800人、報国農場七四場が4900人、合計27万人。