あらすじ
たとえば紀貫之によると伝えられている「高野切」は,書を学ぶ人の手本となる書である.この名品には書き間違いがあるといわれ続けてきたが,しかしそれは本当に誤字脱字なのか.著者は実作者の目をもって書と対話し,ひらがなという大河の最初の一滴にさかのぼる.「つながる」という本質に注目しながら,美の宇宙を読み解くこころみ※この電子書籍は「固定レイアウト型」で作成されており,タブレットなど大きなディスプレイを備えた端末で読むことに適しています.また,文字だけを拡大すること,文字列のハイライト,検索,辞書の参照,引用などの機能は使用できません.
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Posted by ブクログ
文字とは何か、アートとは何か、書とは何か、今までなんとなく持っていた先入観をひっくり返してくれた素晴らしい本。
すみれを菫でなく万葉仮名で表したのは、東アジアという壮大なスケールに拡散させず日本列島に咲くあのすみれという風情を伝えたかったから。
万葉集の舒明天皇の国見の歌がカモメに加萬目を当てて意味が含まれていたように、万葉仮名が漢字をつかっているが故に表音文字になりきらなかった、つまり漢字の意味が浸透して字自体が意味を持ってしまう。そこで女手が生まれた。
寸松庵色紙、秋萩帖、高野切などを題材に、誤字や脱字とされているものが言葉の本質に根ざして生まれたもので、現代の我々こそ言葉の表現がいかなるものかを見失っているのではと指摘する。連結した表現するや掛字、併字だったり、霧で隠されることを暗示した隠字、伏字、重字、畳字、顕字といった技巧。不自然な筆触から白菊が秋風に吹かれているように表現されているもの、上の句と下の句の空間に月の光を表したものなど。
東アジアでは書が文化の中心で絵画はその亜種とされていた。彼岸意識と此岸意識。葦手が絵文字と関わるかも。春はあけぼのは原文に読点などはなく、オリジナルは失われていて現存している写は切れ目なく続いていて清少納言の意図はわからない。一字一字を読む中で重層的に刻々変化していく春はあけぼの全体のシーンが立ち上がってくる。
篆書、隷書、草書の歴史とか王羲之といった書の基礎知識も教えてくれた。
Posted by ブクログ
これはすごい新書です。びっくりしました。恐る恐るでしたが読んでよかったです。ひらがなってずっと文字のひとつだと思っていましたが文字と絵画のあわいにある表現手法であることを知りました。日本人のメンタリティを象徴する芸術だと思いました。書にも和歌にも距離感のあった自分がなぜこの岩波新書を手にしたか?実は上野の森美術館でやっていた展覧会「石川九楊大全【状況篇】」の最終日に駆け込んで来ました。「言葉は雨のように降り注いだ」というサブタイトルになんか感じるものがあったのです。墨地で叫んでいるような初期の作品や河東碧梧桐らの俳句を文字で墨絵のように描いている作品や9•11や3•11から生まれた作品にも心動きましたが、ご本人が学芸員を引き連れて解説しながら閲覧しているのに遭遇、その姿が単純にカッコいい、と思ったのです。どんな文章書くのだろう?と手にしたのが出版間もないこの新書だったのです。これは展覧会と違ったインパクトがありました。先ず最初は、日本語という言葉があるから文字があるのではなく、漢字、ひらがな、カタカナという三種類の文字に対応する言葉が一体となって日本語があるという指摘にやられました。その中でひらがなが掛字、隠字、併字、重字、畳字、顕字…様々な技巧をともなって言葉以上の感情を伝える表現であることに、驚いてしまいました。もちろん、流麗な草書を読み込める訳でもなく、新書ではあり得ないような写真図版と、丁寧な印刷文字での再現というサポートがあってやっと、なんかわかる気がするというレベルですが…。さらに上野の国立美術館でやっている「神護寺展」で空海の真筆を見て、文字の力をちょっとすごいと思う夏休み展覧会シリーズでした。
Posted by ブクログ
共通認識がある中でこそ、表音文字と思われるものが多層的な表現を行えることに衝撃を覚える。広く文字が普及している現代において、反比例するように意味が通じなくなり、文字が増えていくこととの豊かさの比較へと考えを巡らせた。