あらすじ
フリートーク、エピソードトーク、掴みに切り口、語り口……数多の才能を見出し、「オードリーのオールナイトニッポン」等でトークの壁打ち役を務める放送作家が、ついにその術を皆伝!!
オードリー 若林正恭さん推薦!!
「この教室の授業のせいで、痛い目にあった時に
「儲けた〜」と思ってしまう身体になりました。」
フリートーク、エピソードトーク、掴みに切り口、語り口……本書は、数多の新人アイドル、芸人に寄り添い、巧みなアドバイスで彼らのトーク力に磨きをかけてきたメンター、放送作家・藤井青銅氏がそのトーク術についてまとめた一冊です。
「トークの途中がおもしろければ、オチは無くてもいい」
「誰かに聞いてもらうことで、話し方のコツを見つけた人は伸びる」
「〈心の動き〉を切り口にすれば、トークの題材には困らない」
「キャラを作ったり、背伸びしたり、パブリックイメージになんて、合わせなくていい」…etc.
若林正恭さん、山里亮太さんを描いたドラマ『だが、情熱はある』(日本テレビ系)へ本人役での出演も記憶に新しいところですが、YouTubeチャンネル「オードリー若林の東京ドームへの道」では、第一回ゲストとして若林さんと“二人っきりサシ対談”。
番組を観た視聴者からの「⻘銅さんのトーク本があったら、絶対に読みたい!」という多くのリクエストに応え、本書の執筆がスタートしました。
「あの人は、どうしていつも面白いネタを持っているのか?」
「つい聞き入ってしまうトークには、どんな秘密があるのか?」
“面白いトーク”とは何か?を突き詰め、話し手のボールを真摯に受け取り、返す、その運動を40年以上も続けるなかで導き出したトーク術を整理し、アップデートさせながら執筆された本書で、自分に合ったトークの正解が、きっと見つかるはずです。
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Posted by ブクログ
この本のここがオススメ
「友人やお母さんのエピソード紹介が主眼ではなく、その人とあなたが直接からんでの話になっていれば、聞き手はあなたの視点でその状況を面白がることができます」
Posted by ブクログ
一般的に、「面白い=笑える」と思っている方が多いでしょう。もちろんそれも大きな要素ですが、「面白い」は笑いだけではありません。
たとえば「このミステリー面白いよ」と誰かに薦める時、多くの場合はそこに笑いはありません。ハラハラ、ドキドキ、アッと驚く謎解きが「面白い」のです。サッカーの試合だと、芸術的なシュート、神がかりのキーパー、針の穴を通すようなパスの応酬が点を取ったり取り返したりの試合は「面白い試合」ですが、この「面白い」も、笑いではありません。
「へ~、そうなのか」と感心するのも、「なるほど!」と納得するのも、「すごい!」と驚くのも、「面白い」。「ええ話しやなあ」も「せつないなぁ」も、「ワクワクする」も「感動する」も「泣ける」も…すべてが「面白い」。「面白い」にはそういう意味があります。
語源というのはそれもコジツケの感があるのですが、「目の前(面)」が「パッと明るく(白)」感じるから「面白い」だと言われています。たしかに「そうだったのか!」とか「すごい!」は目の前がパッと明るくなる感じ。笑いもそうです。
ですから、笑いというのは「広い意味での面白い」の中にある「狭い意味での面白い」だと思った方がいい。芸人さんは目の前の人に笑ってもらいたいから、そこにこだわるのはよくわかります。けれど普通の人ならば、あまり「面白い=笑い」に縛られると、身がすくんでトークなんかできなくなります。
そう、トークは笑えなくてもいいんです。ここでも誤解をしないように急いで言っておきます。もちろん人に笑ってもらうのは嬉しいし、場の雰囲気もよくなる。笑えるトークはいいことです。けれど、笑わせることが目的ではなく、何かを伝える時に笑いもあるといいね、なくてもいいけど、ということ。
さっきから、自分が見たもの、自分が経験したこと、自分が感じたことを話した方がいい…としつこく言っています。「自分が見たものをそのまま話す」というのは、誰にでもできる簡単なことのはず。ところがこれが、意識していないと単純なミスをおかしやすいのです。
ずっと以前、まだ伊集院光さんが新人の頃、彼が深夜放送(深夜三時からの『オールナイトニッポン2部』)でトークする内容を事前に雑談っぽく聞いてアドバイスをしていたことがあります。
「今日はどんな話をするの?」
「こんなことがありましてね…」
と彼はその日の番組で喋る予定のフリートークをザッと話してくれます。
とはいえ、私は彼の番組の作家ではないので、彼が事前に私に喋らなければいけない理由なんてありません。が、なんとなく毎週、そういうことになっていました。私としては、まだラジオで喋ることに慣れていない若者のトークになにかアドバイスをしておきたいという思いでした。が、それは好意の押し売り。彼にすれば迷惑な話で、あとにして思えば嫌だったろうなあと思いますが。
もうずいぶん昔のことです。ほとんどのトークは忘れましたが、いくつか覚えている話もあります。
「歯が痛くて、歯医者に行ってきたんですが……」
というトークをした時です
「その歯医者の待合室で……」
「ちょっと待って。それはキミんちの近くの歯医者? それともと新尾クリニック?」
「近所です。で、その待合室で……」
「ちょっと待って。そこ流行ってるとこ? 待合室の他の患者はいたの?」
「いましたね。で、しばらく待たされて……」
「ちょっと待って。待合室にいる他の患者って子供? 老人?」
「子供がいて、バタバタとうるさかったんです。こっちは歯が痛いのに。で、ようやく先生に診てもらうと……」
「ちょっと待って。その先生はおじさん? 女医?」
彼は面白い話を早く進めたいのに、私は何度も彼の話の腰を折る。が、この時彼は、ハタと言葉を止めた。
「あっ……」
「どうしたの?」
「さっきから藤井さんが聞いてること、俺が先に言わなきゃいけないんですね」
今となっては、その病院が近所だったのか、待合室が混んでいたのかどうかなど、全部忘れています。ここでは例としてそう書いているだけ。実際は違うかもしれません。けれど、彼がハッとして「先に言わなきゃいけないんですね」と言った光景だけはよく覚えています。
自分の経験をトークする時、一番陥りやすい点がここなのです。自分は見ているから相手に伝わっているつもりでつい描写と言うか、説明をスルーしてしまうのです。が、トークを聞く相手はそれを見ていない。伝わっていないのです。といって一から十まで全部事前に説明をしろというわけではありません。それは聞いていて煩わしいし、テンポも悪くなります。
トークの展開上、先に説明をしておかないと伝わらない点は意識して描写し、他はそんなに意識せず普通に話せばいいのでしょう。
こうやってアラ探しをしてみると、たしかに、どんどん出てきます。書いている私の脳内には、ドーパミンだかエンドルフィンだかが分泌されているのでしょう。
これは他山の石として自分のトークを磨いていけばいい…のでしょうが、わかったからといってすぐにできるとは限りません。
ですが、なにもアドバイスせずに、ただ「盗め」と言うよりはいいと思っています。この章の冒頭にも書きましたが日本の伝統芸能や職人の世界ではよくこの「盗め」が使われます。体育会系の色が濃い組織でもそうです。
この言葉は、なんとなく以心伝心でものごとの神髄を伝えているようで格好いい。けれど私は、それは「アドバイスする言葉をもっていないことの言い訳」ではないか、と意地悪く思っています。後輩になにかを教えるには、自分がこれまでにやってきたことを分析し、整理し、多少は理論づけし、それを相手に伝わるような言葉に変換しなければなりません。それがうまくできないから「盗め」なのではないか?
かつて落語家の立川談志さんも似たようなことを言っているのを発見して、以前から密かにそう思っていた私は勇気づけられたものです。
スポーツの世界では「名選手必ずしも名監督ならず」という言葉があります(もちろん例外もありますが)。つまり天才プレーヤーは自分でできてしまうので、それを分析、整理、理論づけする必要がない。言語化も必要ない。だから、往々にしてできない人に言葉で伝えるやり方が不得意であるということ。
逆に現役時代そこそこの成績だった選手は、自分がうまくなろうと苦労して分析、整理、理論づけ、言語化してきたので、指導者になった時は言葉にして伝えることができる(当然、これも例外はありますが)。
この言葉は、スポーツ以外でもよく使われます。とくにビジネスの世界では、管理者教育やマネジメント理論として好まれるようです。
「わかる」と「できる」は別のもの。トークに限らず、世の中そんなものです。そうではあるけれど、闇雲に「盗む」から始めるよりは、反面教師のアラ探しをして「わかる」から始めて、「できる」を目指した方がいいのではないか?…と芸人でもタレントでもないし、そこそこの一作家である私は思っています。
渋谷は、私の学生時代から人気のある街で、よく行きました。渋谷にはNHKがあります。放送作家としても、よく行く街になりました。私は何十回、何百回もそこを通るたびにいつも、
「人が多い交差点だなあ」
と思っていました。おそらく東京に住んでいる人はみんなそうだろうし、テレビでもよく中継されるので、全国の方々もそういう感想でしょう。
ところがインターネットの時代になり、SNSが人気になると、外国人観光客によって、そこが東京の観光名所として一躍有名になったのはご存じの通り。
「信号が変わると、四方から大量の人々がどっと押し寄せ、それぞれがぶつかりもせずに交差点を渡り切る。それを二分ごとに一日中、秩序立てて繰り返している。この光景は実に日本人らしい」
言われてみれば、日本人らしいのかもしれません。
あそこは昔からハチ公像が有名でした。交差点はその前にある道路。言ってみれば、 人が多いだけのただの交差点です。「ただの交差点」が世界的な観光名所になるなんて。いったい誰が想像したでしょう?
「とくに雨の日は、上から見ると色とりどりの傘が交錯し、動くモザイク画を見ているようで美しい」
たしかに美しい。映画『シェルブールの雨傘』のオープニングと同じ光景が目の前にあったのに、私たちは見ているのに見えていなかったのです。
何十回、何百回そこを通っていながら、私はいつもただぼんやりと「人が多い交差点だなあ」と思っていただけ。それはたぶん、「この街にはなにもないですよ」と同じです。
東京では他に、新宿・歌舞伎町や秋葉原も外国人観光客に人気です。もちろんもともと特徴のある街で、よく知られていました。けれど、街そのものが観光スポットになるという発想は、日本人にはありませんでした。
地方では、元乃隅神社(山口県)、あしかがフラワーパーク(栃木県)、朝倉富士浅間神社(山梨県)…など。むろん地元では以前から知られていたのでしょうが、多くの日本人が外国人観光客によって初めて知った観光スポットです。
なんだか、明治時代にフェノロサが日本の仏像や絵画の美を発見した故事を思い出します。
目の前にあるのに見ていない。外からの視点によって初めて、そこになにかがあることに気づく。私はそれを「切り口」と呼んでいます。
言わずもがなですが、それは外国からの視点に限りません。東京から見た地方もあれば、逆に地方から見た東京もあります。男と女、大人と子供、専門家と素人……。同じものを見ていても、それぞれ微妙に違う部分を見ています。いや実は自分の中だって、学生時代の自分と現在の自分とでは、同じものを見ても感じることが違います。
立場が異なるもの同士の間に生まれる違和感や、誤解、勘違い、勝手な思い入れ…などは普通はマイナスに作用します。が、それが「切り口」を生むこともあるのです。
なにもないと思っている日常でも、別の切り口で見てみればなにかを発見することもある。面白いトークとはそういうところから生まれたりします。
放送作家としてラジオ番組を担当していると、基本的には毎週タレントさんに、「最近なにかありましたか?」と聞きます。近況トークをしてもらうためです。しかしたいていの場合、答えは「なにもないんですよ」。
タレント活動というのは、普通の人間の日常よりも変化に富んでいます。毎日決まった会社に決まった時間に通うのではなく、いろいろな場所で仕事があるし、地方でロケやステージを行う場合もあります。会う人も毎回同じではなく、時には有名な人や、めったに会えない人と会ったり。珍しい話を聞けたりもします。なにもない、はずがないと思うのですが……。
でも多くの方が「なにもなかった」と感じている。なぜでしょう?
トークでは日常とは違うなにか大きな出来事を話さなくては――と思っているのではないでしょうか? もちろん大きな出来事があればそれを話せばいいのですが、小さな出来事だっていいのです。
たとえば仕事でどこか地方に行った時、それをどうトークにすることができるのか? 番組では打ち合わせしながら、作家やディレクターが雑談交じりにいくつかの「切り口」で質問することがあります。
すると、最初は「なにもない」と言っていた旅でも、「あ、そういえば、こういうことがあった」となにかを思い出したりします。あるいは、サラッと流して話すところや飛ばしたところで「そこのところを詳しく聞きたい」と言うと、「え? この話面白いですか?」となることもあります。本人がつまらないと思って除外していた部分は、他者からみれば興味深いこともあるのです。その結果、内容のあるトークになることも多い。
考えてみれば、そもそもトークのために旅に行っているわけではなく、なにかの仕事で出かけているのです。視点の中心は仕事にあり、それ以外のことに注意がいかないのは当然のこと。私たち他人に聞かれて、初めて気づくこともあるでしょう。
旅のトークは「どこに行ってなにがあったという出来事」だけでなく、いろいろな語り方があります。とくに「その時こんなふうに思ったという心の動き」で切り取れば、平板な出来事も立体的になるのです。
「心の動き」なんていうとなんだから高尚な表現ですが、なに、たいしたことではありません。ちょっとした好奇心や違和感や、おせっかい、早とちり、野次馬精神、嬉しい、恥ずかしい、羨ましい、腹が立つ、不安感、高揚感、ガッカリ感、後悔…など、どれも誰だって持っている普通の感情です。自分のそういった気持ちをテコにすればいいだけです。
ということは、「心の動き」を切り口にすれば、トークの題材は旅に限らない。食事会でも、買い物でも、散歩でも、大掃除でも、徹夜でも…なににでも心の動きはあるわけですから、トークのネタはいつでも私たちの周囲にあるということになります。
おそらくとトークが上手な人は、ふだんからこういった「切り口」をいっぱい持っているのだと思います。とはいえ、しじゅう鵜の目鷹の目で「なにか面白いことはないか」とキョロキョロ周囲を見渡している必要はありません。
「自分」を伝えるためのネタ選び――ジャガモンド・斉藤正伸さん
斉藤 失礼します! お願いします!
青銅 斎藤さんは最近、映画の解説のお仕事が多いと思いますが、今日は映画以外の話にしてね。
斉藤 はい。映画以外の話をします。
青銅 どうぞどうぞ。
斉藤 僕は今、「映画紹介人」という肩書で、映画の紹介をしているのですが、最終的には映画ではなく、相方のことをしっかり紹介する「相方紹介人」をやりたいと思っているんですよ。
斉藤 相方さんは、あの大きい人でしょう。ルックス的に、彼はザ・芸人さんだよね。
斉藤 そうそう。大きい人です。相方のきどは小学一年生からの幼馴染みで、僕と見た目は正反対で、体重も僕の倍くらい、百キロもあって、目も小さくて、開いているか開いていないんだかわからない、陽気なおデブさんのような雰囲気を持っている。相方はずっと彼女がいなかったんです。でも三十歳になった時に、彼女ができて。
青銅 おお。おめでとう。
斉藤 でも四ヶ月後にフラれちゃったんですよね。その一週間後に事務所のお笑いライブがあったんですが、その時に芸人の先輩や仲間たちから「なんでフラれたの?」といじられまくって、相方はけっこう傷ついてしまった。聞かないでほしいのにって。
青銅 まぁ、そりゃそうだよね。最初の彼女にフラれたら辛いよね。
斉藤 気持ちはわかるけど、芸人さんとしては面白いじゃないですか。でも相方は辛かったみたい。そのストレスなのか、本番にネタのセリフを全部飛ばしちゃって。僕も一生懸命、漫才を続けようとしたんですけど、全然うまくいかなくて、途中からもうアドリブでいくしかないなと。「ネタ飛ばしちゃって、どうしたの? なにがあったの?」と聞いたら、「事務所の先輩後輩に彼女と別れたことをいじられて辛かった。何でお前止めてくれないんだ!」と叫び始めて。
青銅 素晴らしいじゃないですか。『THE SECOND』のマシンガンズのような。
斉藤 そうなんですよ。それが皮肉なことに、僕らジャガモンド史上一番ウケて、その年の事務所ライブで初めて優勝できたんですよ。まぁ、そういうこともあって、それくらい魂を乗せた漫才をまたやりたい。相方の面白い面を世に出したいし、紹介していきたいなというのが僕の願望としてはあるんです。
青銅 芸人さんって、どうしても自分じゃない話とかしちゃうんですよ。
斉藤 しちゃいますね。トークの時にかまえてしまうこともあって、ファイトスタイルとっちゃうというか。自分でも嫌ですよね。
青銅 斎藤さんは芸人の中でも、流暢に喋れるタイプですよね。活舌もいい。
喋るお仕事をしていない三浦さんと中山さんは、もしかしたらこう喋らないといけないの? と思ったかもしれないけど、僕は流暢に喋れる必要はないと思うんですよ。「あのー、えーと、なんだっけな」って入れてもいいと思うの。途中で止まってもいいと思うし、僕自身もそうだし、言い淀んだりしてもいいし。
それに上手な人は、上手に喋ることが面白いトークだと思ってしまう危険性があるんです。でもそれって別物なんですよ。斉藤さんは違うけれど、流暢に喋れるだけで面白くない人っている。だから流暢な人は危険なんですよね。自分で喋れると思っているけれど、それは淀みなく口から言葉が出るだけの話で、人が興味をもっているかどうかはまた別問題。逆にいえば、淀みなく言葉は出なくても人は聞いてくれるので、別にいいんですよ。
斉藤 その通りだと思います。僕はよく「喋りがうまいね」と言っていただくこともあるのですが、たぶん面白いとは別なんですよね。
斉藤 あと芸人さんは本当じゃない話もするしね。漫才のネタでも「彼女がいない」とか「本当は歌手になりたい」とか言うけど、ああいうのはネタのためのトークであってね、本当に思っている話じゃない。金芽米だよ、やっぱりこれからは。「金芽米・斉藤」だよ。斉藤さんはもっと自分の話をした方がいいよ。
漫才はネタです。その中で語っていることが真実だとは、誰も思っていません。「彼女が欲しいなあ」と言っていても、それはネタのための嘘であって、本当は彼女がいる場合だってあるでしょう。でも、まだ売れていない二十代の若者が言うから、リアリティがある。まるっきりの嘘ではなく、彼らの中にある思いを何倍かに膨らませて語っている。見ている方も、彼らからそういう言葉で出てくることに不自然さがないと感じます。だから、嘘でもいいのです。
しかし、売れて世間的な知名度が上がった。金銭的にも余裕ができた。すでに結婚をしている場合もあるし、子供が生まれたケースだってある。そんな状況で、今さら「理想のデート」とか「モテる方法」という話題をやられても、見ている方は無理があると感じます。それでも「元々、作られた嘘のネタなんだし、すでに完成された芸なんだから、やってもかまわない」という考えもあるでしょう。けれど、やっている当人たちが無理があると自覚してしまうと、もうできなくなるのです。
落語やコントのように別の誰かになって演じる芸ではなく、漫才は素の自分として演じる芸です。ですから、素の自分の「ニン」と嘘としての「ネタ」の間にズレが生じてくると違和感が出てきます。多くの場合、漫才コンビのネタはだんだん、自分たちの「ニンに合うもの」に変わっていきます。たとえば、朝早く目がさめてしまうとか、健康のためウォーキングをするとか……。
今これを読んでいるあなたは、たぶん歌舞伎役者でも落語家でもなく、おそらく腹話術師でも漫才師でもないでしょう。でも、あなたにもニンはあるのです。ですから、あなたがなにかトークを語る場合は、あなたのニンに合っている方がいい。
「ニン」という概念は包括的で直感的で、その人物全体をカタマリで把握しているようなところがあります。
「あの役は、あの役者のニンに合わない」「合わないねえ」
「あの落語家のニンに合ってる噺だな」「合ってるね」
「ニンに合った漫才で面白い」「うん、合ってる」
などと言っているだけで、ファン同士の会話はなんとなく成立します。具体的なことはなにも言ってないけど、「私(私たち)はわかっている」という優越感が味わえ、同時に「世間にはわからない連中もいるだろうけど」という意味もうっすらと感じさせるベンリな言葉です。
第3章でもふれた「盗んで覚えろ」にも似ています。私は、ベンリな言葉にはチェックのセンサーが働くのですよ。そこで、「盗めというのは、アドバイスをする言葉をもっていないことの言い訳ではないか?」と考え、言語化のチャレンジをしてみました。
同様に、ここでは「ニン」という概念を説明できないか試みてみましょう。具体的な言葉で把握することができれば、自分のニンを認識する手助けになるのではないかと思います。
まず、「ニン」を構成する要素は、大きくは内面と外見に分けられます。
【内面】
その人の性格や、考え、得意不得意、こだわり、好き嫌い…といったこと。陽気だったり、引っ込み思案だったり、へそ曲がりだったり、せっかちだったり、のん気だったり……。キャラクターという言葉がこれに近いもしれません。そういった内面から出てくる発言の内容(過激だったり、温厚だったり)や、喋り方(早口だったり、ゆっくりだったり)がその人の印象を作ります。
あなたはどういう性格でしょうか? いつも静かな人が急に陽気に喋り出すのは変だし、たぶん相手もビックリします。ふだん考えてもいないことも、付け焼刃程度の知識でカッコつけて喋ってみても相手に届きません。ニンに合っていないからです。面接のトークでうまくいかないのはこれです。
人は、自分のなかにあるものしか外に出てこない。それがあなたのニンを作ります。
でも内面は「ニン」の半分。残りの半分は、他人からの外見――目で見える外見と、除法として認知される外見、におってできていると考えます。
さて、ここからの表現が難しい。
いま世の中では、人を見た目で判断してはいけない。年齢による偏見や差別はいけない、肩書や経歴で判断するな、と言われています。ルッキズム(外見重視主義)とかエイジズム(年齢主義)というもので、それはその通りだと思います。最近は日本でも、エントリーシートや履歴書に顔写真や年齢はいらないという企業も出てきています。
しかしニンは、外見を抜きにしては語れない。
【見た目】
背が高い/低い。瘦せている/太っている。髪の毛がフサフサ/そうでもない。イケメンあるいは美女である/そうでもない…など(かなり表現に苦労していることにお気づきでしょう)。これらは、自分ではどうしようもないこと。
一方、自分で選べる見た目もあります。髪の毛はロングヘアかショートヘアか? 七三分け、ボサボサ、スキンヘッド……。毛を染めたり、髭を生やしたり……。
ファッションも重要な見た目です。ふだんからおしゃれな人、どうもあか抜けない人、いつも同じ服装の人、奇抜なファッションをする人……。アクセサリー、バッグ、腕時計などの小物もそう、高級なものを身につける人、無頓着な人、身につけない人……。すべて自分で選んでそうしているわけですから、「周囲にどう見てもらいたいか」という見た目のアピールです。
ふだんからTシャツ・ジーンズ姿の人とでは、同じことを言っていても印象が違います。
あなたはどういう見た目でしょうか? 身体的特徴は、一般的にはプラス評価されるものとマイナス評価されるものが決まっています。しかしニンの場合は、いわゆるイケメンであっても「なんか鼻にかけてる感じがする」とマイナス評価だったりすることもあって、そこが面白い。ファッションも同様です。
【声】
声と喋り方もニンを構成する大きな要素です。一般的に低く落ち着いた喋りは説得力があり、信頼感を生みます。甲高い声で早口の人は、長く聞き続けると疲れてしまいます。
とはいえ、そこには聞く側の好き嫌いも入ってくるので、一概には言えません。それに、声質は生来のもの。今さらどうしようもありません。せめて喋り方で工夫するしかなく、それで世間には話し方教室のようなものが存在するのでしょう。
【年齢】
年齢は、自分ではコントロールできません。人は等しく年をとっていきます。見た目ともリンクしますが、世間では名前の下に書かれた(〇歳)という数字にけっこう印象を左右されるのです。そして、自分のことなのに、当人もそう思ってしまう。
人は普通、若い時は「もっと大人びて見られたい」と思い、ある程度年齢を重ねてくると逆に「もっと若く見られたい」と思う。わがままなものです。年齢が「若い」か「年輩」かというだけで、印象にはそれぞれプラス面とマイナス面があります。
A「若い」のプラス面――新しい、情報通、時代とマッチ、失敗しても許される…など。
B「若い」のマイナス面――未熟、不安定、青くさい、生意気…など。
C「年輩」のプラス面――思慮深い、安心感、安定感、枯淡…など。
D「年輩」のマイナス面――古臭い、守りに入っている、時代遅れ…など。
年齢の如何にかかわらず、人は常にプラス面が欲しい。だから年配の人はAを得るために若いファッションをし、アンチエイジングに余念がない。逆に若い人はCを得るために、男性は髭をたくわえたり、女性は大人びたファッションをする。そんなことはなにもしなくても、白髪交じりで顔に皴が刻まれた男性の言うことはそれなりに説得力を持つ。あえて髪を染めないグレイヘア宣言をする女性の発言は、急に説得力を増したりするのです。
同じことを言っていていても、若い時は周囲から「生意気」と思われ、年をとってくると周囲に納得される。逆に、若い時はその人に会っていた発言が、年をとってくると「まだそんなことを言っているのか」とたしなめられる。そういう経験のある方も多いでしょう。実年齢とニンとが合わなくなってくるわけです。
歌舞伎や役者や落語家の場合はとくにそう。若い時はニンと合わなかった役柄や噺が、年をとるとニンに合ってきたというエピソードはよく聞きます。その反対が、「漫才師は年を経るとデートネタができなくなる」ということなのでしょう。
あなたはいくつでしょうか? 年相応の話題を選んでいるでしょうか? 背伸びしたトークをしていませんか? 若いのに年齢以上の訳知り顔で語ってしまう、年輩なのに無理して本当はよく知らない若者言葉を使っている。両方とも、背伸びです。恥ずかしながら、私も時々やってしまいますが……。
【属性】
一番大きなのは男女差です。同じことを言っても男性だと納得され、女性だと生意気だと思われることは多い。男社会の弊害です。
その人が独身であるか結婚しているかで、周囲の受け止め方が変わる場合もあります。何人かの子供を育て上げたお母さんが持つ説得力は、本人の自信もあるのでしょうが、周囲がそういう情報込みで見ているからでもあります。高学歴であるとか、どんな職業であるかとか、お金持ちのボンボンであるとか、若い時から苦労をしてきたとか…見た目や年齢からはうかがい知れないそういう情報も含めて、ニンはできあがります。
男は男らしく女は女らしくというジェンダーバイアス(社会的性差の偏見)は周囲からのものですが、自分自身がそれに取り込まれてしまう場合もあります。社会的な立場によって周囲の反応が変わるのは人の世の常。それへの対応によって、あなたのニンができあがります。
【キャリア】
これは年齢ともリンクしますが、経験を積むことで、周囲からの評価も積み上げられていきます。過去の仕事の評価も加わってくる。周囲の高い評価も、低い評価も、ニンに加わってきます。「社長」は「社長」として世間に遇され、それへの対応によって、尊大であるとか、意外に腰が低いとか、気さくであるとか、重みがないとか…その人のニンができあがります。
出世していないということもまた、ニンになります。そしてそれはマイナスとは限らないのが、ニンの面白いところです。
身も蓋もないことですが、あなたのキャリアはあなたが作る。なんだか転職サイトの広告みたいになってきました。自分の中にある経験が外に出る。それが、あなたのニンを構成する一つの要素になります。
以上書いてきた内外全ての要素がレイヤーとなって何層も重なり、その人の「ニン」ができあがるのだと思います。
しかしこうやってみると、ニンはルッキズム、エイジズム、ジェンダー…と昨今重要視され、問題視される価値判断と密接な関係にあります。
けれど面白いのは、一般的な世間でのプラス評価マイナス評価は、ニンにおいては必ずしもそうではない、という点。そして、AさんのニンとBさんのニンは違っていて当然、そこに優劣はなく、ただ「Aさんらしい」「Bさんらしい」というだけ。その人はそういう人なんだからという認識があるだけ、という点。
だから、「ニンがいい/悪い」という言い方ではなく、「ニンに合う/合わない」という言い方なのでしょう。
どうやらニンは、ダイバーシティ(多様性)だけは早くからクリアしていたようです。
自分のことを話すトークは、自分のニンに合ったものの方が説得力がある。当然です。逆にニンに合っていないトークは聞いていて辛いし、おそらく喋っている方も辛いのです。
野暮を承知でいえば、
「人がね、本気で悔しがったり惨めだったりする話は面白いんだよ」
という言葉は、
「人の不幸は蜜の味、他人の失敗を笑え」
という意味ではありません。
「いかにも芸人らしい突飛な行動やおかしな経験でなくてもいいんだ。キミは自分の話を誰かに聞いてもらいたいんだろ? 自分に興味をもってもらいたいんだろ? うまくいかずに悔しかった、恥ずかしかった、せつない、惨めだったとか、本気で聞いてもらいたいことの熱量は相手に伝わる。だったら君のそのトークを面白がってもらい、結果的に笑ってもらえばいい。いや、笑ってくれなくても、共感してもらえばいいじゃないか」
ということ。
さらにもう一つ、野暮を重ねると、これは芸人志望の若者だけの話ではありません。なにかに頑張っているけどなかなか他人に認められなくて、自分はダメなんじゃないかと思っている若者に、
「その惨めな思い、うまくいかない悔しさは、きっと誰かに伝わる。伝わって、キミの方を見てくれるよ」
ということ。だからこのドラマは、お笑いファン以外の方にも共感されたのでしょう。
その後、私はオードリーとオールナイトニッポンをスタートさせ、毎週会うことになるのですが、時々若林さんは、
「嫌だったこと、辛かったこと、悔しかったことも、のちにみんなトークにできると思えば最強じゃないかと思った」
という意味のことを言いました。
よく「人生において無駄はない」なんて言います。その時は、役に立たないこと、ただの寄り道、無駄な行為…と思ってやっていることも、のちの人生のどこかで不意につながってきて、意外に役立つことがあります。ああ、あの時のあれは無駄じゃなかったんだなあ、と思います。
マイナスばかりを積み重ねていると思っていたけど、そのマイナスがプラスに転じることもあるのです。そうやって生まれたトークバルーンを、
「ほう、これはなかなか深い色つやのバルーンですね」
「しばらく寝かしておきましたからね」
「なるほど。熟成ものですか」
なんて言いながら共感し、共有すればいい。