あらすじ
ホモ・サピエンスは進化を間違えたか?
霊長類学者でゴリラ研究の第一人者である著者が、長年のフィールドワークでゴリラと向き合う中から紡ぎ出した文明論、人類論が凝縮された1冊になります。
世界中で大きな被害を出している異常気象。地球が悲鳴を上げているとしか考えられないが、その原因は現代人が作り出した文明や科学にある。そんな危機感を、ホモ・サピエンスと最も近いゴリラの生き様、ゴリラの目を通して分析。人類と自然の付き合い方、人類と文明、人類と戦争など、さまざまな切り口から、文明を変える力への期待、希望について語る。
(底本 2024年2月発売作品)
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Posted by ブクログ
ジャングルの知性。
山極先生は、ジャングルがすべての生物のコモンズ、だという。
「ゴリラの社会で暮らしてみて私が感じた人間の本質とは、150人以下の小規模な社会で顔見知りの仲間とともに、自己犠牲の精神を発揮して助け合う能力であった。」
けれど、定住化、技術の発展を通して、社会が急速に拡大し、人口も増大。
大きくなった集団間で領土や所有権を競うようになった帰結が、争いの絶えない人間界となってしまった。
この時期、平和を考えるうえでもとても大事な示唆を与えてくれる本です。
・・・
・言葉こそ文明、ではない。
例えば、人間の脳はゴリラの3倍の大きさだけれども、この脳はだいたい40万年前にすでに発展していて、そのさらにあとの7-10万年前に言葉が生まれた、らしい。
人間以外の霊長類を比較すると、
集団のサイズが大きいと脳も大きいことが分かる中で、
言葉は集団サイズを拡大することには貢献しなかった、という。
なぜなら、ダンバーという研究者によれば、現代人の脳の大きさは150人ぐらいの集団サイズに匹敵し、これは現代人が登場する約8万年前にはでき上がっていた。
150人という規模は、現代でも食料生産をせずに暮らす狩猟採集民の村の平均サイズ。
そしてその後に言葉が生まれても、1万2000年前に農耕-牧畜という食料生産が始まるまでは、このサイズを維持していたと言える。
言葉はシンボルの中でも抽象化の進んだものだという。
言葉には重さがなく、気持ちは伝えない。
「共感力は身体の共鳴によってしか発揮されない」。
では言葉は何をもたらしたのか。
たぶん気持ち以外のことを伝えることには大きく役立ち、知らない人やモノについても想像力をベースに情報を増大させたのだろうと思う。
ユヴァル・ノア・ハラリでは、言葉を基とする認知革命により、虚構の世界が発展していったことが論じられている。そのことにも触れつつ、著者は言葉が持つ分断の影響も指摘する。
・共食にたどる社会性。
人間が社会性を発展させていった進化の過程を論じられていてとても興味深かった。
直立二足歩行は、身体能力も低下させるし、出産についても不利な側面がある中で、
手で食物を運んで食べさせる、という行為を可能にした。
共同保育し、共食する。
食べ物を持ち帰り、分け合うことを通してつながっているのが人間の進化の特徴となったと論じられています。
「人間の子どもはエネルギーの大半を脳の成長に回すので、身体の成長が遅れる。人類の祖先は類人猿から引き継いだ長い長期をさらに延長させ、分担して食物を運んで共食をすることによって脳の拡大を実現したのである。
こういった人類独自の進化の歴史の中で新たな社会性が発達した。それは、共感力を高めて仲間のために尽くすという性質である。そもそも熱帯雨林を出た初期の人類が草原を遠くまで歩き回って食物を探し、それを安全な場所に持ち帰って共食を始めたとき、仲間のことを思う気持ちが芽生えたはずである。類人猿は食物がある場所でしか分配しない。」
現代でも、日本ではとくになのか、お土産などでお菓子を買ってきて同僚や知り合いに分ける習慣がありますが、これは人間が発展させ、維持してきた社会性の延長なのかな。
慣習化されて半強制になってしまうと、無意味な伝統だ、と思ってしまいがちですが、
なにもとくに圧力がなかったら、逆にあげたいひとにあげたくはなると思う、と気付いたり。
まさに、つながりたい、つながるための行為なのですね。
・食と性の融合。
いかに食物を確保、摂取するか、
いかに交尾、子孫を残すか。
生物の命題、でもあり、これは人間も同じだと。
生物学的な理由もなく、社会的な理由のみが働いている規範を「ゼロタイプの制度」というそうです。
例えば、人間に見られる性に関する行動規範、服を着ること。
それをしないと生きられないわけではないのに、社会的に通念として決まっていること。
最近は一人で食事をすることも問題ない、という流れではありますが、やはりそこにもともとあるのは、ごはんは一緒に食べるものであるということ。
「料理は愛の表現であり、それを食べることは愛を受け入れて一体化することにつながる」。
それが家族であり、親しい人であり。
「パートナーとだけの愛の受け入れは性交渉になる」。
なるほど、と思いました。
関わりたくない人とは一緒に食事をしたくない。
一方、家族ってなに、って考えると、一緒に食事を重ねてきた人、たとえ食べる時間がずれてしまったとしても、食べ物、冷蔵庫や食器を共有してきた人、なのかもしれない。
親や近しい人が買ってきたり作ったりしたものを食べることは、食料なだけではなく愛も受け取っているということなのかもしれない。
だからこそ、時に重く感じてしまうこともあるのかもしれない。
食べものの持つ力、すごいかもな。
・争い
本来人間は、自己犠牲の精神を持っている、という。
そして著者は、この精神は、言葉の登場以前に確立されていたと考え、「自己犠牲は道徳というより、美徳と呼ぶにふさわしい行為」なのでは、と述べられています。
ではなぜ分断が進んでいるのか。
日本の思想家の一人、関係性と流れに注目した「自然学」を提唱された今西綿司さんは、すべての生物が社会を持つ、と論じられています。
日本の哲学の特徴の一つとして、
自分の溶けこんだ世界観。
これに対比されるのが、西洋の自分と切り離される世界観。
西洋哲学では、自然を人間が客観的にみる視点があり、これが自然を科学する、というアプローチになっている。そこには、他生物に対する利他も感じられます。
欧米でもユクスキュルの環世界といった、人間が自然の一部である考え方もあったが、主流としては広がらなかった。でも最近では、Bioregionalismというような、生態系の中に人間を位置づけるような姿勢も重要視されるようになってきたと言っています。
たしかに、自分も生態系の一部であり、手段の一部であったら、他者を攻撃することは自分への攻撃を意味するよなー。
生態系が悲鳴を上げ、人は殺し合いをやめない今日。
山極先生は、客観的でも抽象的でもない、生身で自然の動きを感得することの大事さを強調されています。
「人間は共感と同情を基調にした利他的な社会力を強め、それを道徳として社会の規模を拡大したのである。しかし、道徳が通用する範囲はいまだに共同体の内部に限られている。国や民族や宗教の境界を超えてはあまり働かない。それが、戦争の世紀を終わらすことのできない私たちの課題である。」
美徳が他集団に対して使われる。
今一度、私たちが育んできた共感の関わり合い方に立ち返ることで、
小規模な内部だけではなく、自分もその一部である多様な人間社会と生態系の恵み全体に対して、友情も愛情をも向けられる姿勢を持つことができる。
そんな壮大で重大な希望を現実にしたい。