あらすじ
地方創生やB級グルメなど地方を盛り上げようとする取り組みが盛んだ。だがなぜ地方の人たち、とりわけ中山間地の人たちばかりがんばらなくてはならないのか? 都市と農村の関係から、農業生産のあり方や流通、食べ方の変化に目を向けたとき、そこには都市を優先し合理性を重視する社会のシステムがあることが見えてくる。農村風景の変容も、このシステムとふかく結び付いている。農村風景を入り口に、食と農業のあり方から、都市と農村の幸せな関係を構想する。
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Posted by ブクログ
大変良本だと思う。
農村の風景という切り口から都市と農業のあり方について考えられている。
都市と農村の選ぶー選ばれる関係。農村側は競争化に置かれ、疲弊しきっている。
その土地の環境に則した作物をその土地の資材で育てることが、美しい農村の風景を作る。
消費者の意識は案外簡単に変えられる。社会システムを変える必要がある。
一消費者としては風景をつくるごはんを意識し、選択し、食べることから。今の農業の現状を見てるとそんなことで間に合うのか、、という気持ちにはなるが、、消費者の選択が変わればシステムが変わっていくのも事実。自分にできることをやりたいと思う。
石積みが減少している理由について書かれている部分に大変納得した。空石積みだと構造計算ができない、監理しにくいから、扱いやすい(標準化しやすい)コンクリートに置き換わっていったとのこと。
住宅にしても全く同じなのだと思う。その土地の環境、資材を無視して、扱いやすいものに切り替わっていく。輸入品、効率化の社会。。
Posted by ブクログ
持続可能な農村を一番手前に据える。環境本位の持続可能性、職人の育成で農村社会に多様性を持たせる。風景がよくなるメカニズムを農泊に入れ込む。社会システムの方を変える必要がある。なんだけど、どうやったら変わるのかなあ。地域の耕作地と農作業のサイクルに関心がないとまずい、棚田の維持に貢献するかが手前で、それがなかったら施設のデザインに取り入れるのは価値の搾取。失われそうになって価値を認めることを良しとするか。地域内の資材の移動で完結できる工事による修復は届け出不要。保険システムの整備。設計基準を必要とする社会システムを否定する。土地ごとにある材料に応じてヒトが工夫する社会。
そこに自由あるんだろうか。女性に対する手間は無限大にあるとするケアを軽視する今でも残るげんなりする価値観をそぎ落として土地の知恵を受け継ぐことができるのだろうか。市場側が大きすぎるのは確かにそうなんだけど。
Posted by ブクログ
著者は景観工学が専門。地方を考えるにあたりすごくいいことがたくさん書いてある。が、タイトルはやっぱりちょっとフィットしない気がする。
P034 「地域活性化」と呼ばれるが、実際にはすごく元気な地域にしようというものではなく、地域が衰退してしまわないための現状維持のための取り組みである。都会の消費者は自分達が食べたいものを食べ、好きなように暮らしているのに、中山間地域などの農村の人たちは、こうした取り組みをしなければ自分たちの地域を維持することができない。【中略】農村の人たちが「活性化」の取り組みをしなくとも、普通に生きていても農村が元気だといえる状況を作る必要があるのではと考えるようになった。農村が、都会の人々に選んでもらえるよう、農産物を買ってもらえるよう、常に顔色をうかがわなければならないのはおかしい。
P052 「良質な風景とは、時間と場所における社会的、経済的、環境的要因の『幸せな統合』である」(イタリアのPSN(農村振興のための国家戦略計画))
P099 農業者が観光事業を行うアグリツーリズモでは、農業者自身が「観光客からの見え方」を意識しながら農業をすることになるのである。そのため、例えば棚田地域では「コンクリートより石積みで直したほうがよい」と農業者自身が考えるようになる可能性は髙い。
P103 ①地域によい影響を与える作物、農法を進めること②その価値を発信すること③その価値を理解してくれる人を増やすこと の3つのステップが必要になる。これは「有名にして売る」ことをダイレクトに目指すのとは根本的に異なる。
P121 「段畑で作られたぶどうのワイン」というと消費者は、苦労して作ったんだろうとか、希少性がある等の解釈をする。その解釈通りの事実がある場合もあるが、消費者はその事実を知っていてそう解釈しているのではなく、多くはなんとなくそう思っているだけである。そうした根拠に基づかない感情的な価値は「イリュージョン」であると彼女は言う。【中略】ブランド化もそれが単なる雰囲気であればイリュージョンに過ぎない。【中略】そうした消費者の「感情的な価値づけ」が購入意欲につながっていることは確かなので、それが効いているうちに、地域や環境への貢献などを明確に示しつつ、価値観の転換を促すことが必要なのだと気づかされる。
P144 過疎は従来住んでいた人が減り、今までの生活水準を維持できなくなるのであり、当初から生活に不便なために人が多く住まなかったのは「辺地」なのである。現在でも、ややもすれば「辺地」と「過疎」の混同が生じがちである。(北海道新聞 本多貢)
P147 高度経済成長期の「近代化」「効率化」という価値観やそれを支える制度の下、その価値観から外れる地域が「条件不利地域」と考えられるようになった、ということではないだろうか。制度や価値観からなる「社会のシステム」が変わったことで、どのような地域を良い地域とするのか、不利な地域と考えるのかが変化したのである。
P194 大きさや形を整える「高級化」は、農業を必要以上に労働集約的なものにする。消費者と生産者が「連帯意識」をもって、真に必要な価値はなんなのかを再検討する時期に来ているのではないだろうか。
P200 規格外の野菜を買うことによいイメージがあるようだ。しかし売る側が、規格外であること、だから安いことをことさらに強調して売るのは少し不気味だ。規格を作っているのも売る側だからである。規格がないことと規格外であることは、全く異なる。
P211 空石積みなら何でも地域性が出るというわけではない。
P238 「地域の人々がしていること」は「地域の人々がしているから」という理由でよいと思われがちである。【中略】地域の人々が、他に選択肢がない中生存戦略としてローカルなものを作り出しているとすれば、それを「地域の意思」ととらえてしまってよいものだろうか。【中略】単に表層的に都市の人の求める価値で地域戦略を練るなら結局は地域の人々の負担は増える。しかも他の「ローカル」との競争にさらされる。その競争のルール(何を良いものとするか)は都会の流行によって決められる。戦えば戦うほど疲弊する競争である。
P246 大規模農家が有利になりがちな効率化を唯一のルールにするのではなく、農家に付随して地域の環境を豊かにすることもルール、そうした土俵の上ならば、中山間地域も勝ち目がある「農業だけでは棚田は維持できない」とあきらめてしあうのではなく、その状態を作り出しているシステムを変えようということだ。「棚田が維持できない」のは、動かすことのできない前提なのではなく、社会のシステムが生み出した現在の状況でしかない。
Posted by ブクログ
自分の食べるごはんも、風景をつくるごはんでありたいと思った。
特に話題として出てきた水車とかうちの田んぼでもポンプの代わりに使ってみたいと思ったり、石積みもしてみたい。
Posted by ブクログ
風景、地方、農業を考える本
メモ
・農村風景と食の関係
著者は、農村風景が食べ物と密接に関連していることに着目し、その奥にある複雑な関係性を探求
・都市と農村の関係性
本書は、なぜ中山間地の人々ばかりが頑張らなければならないのかという問いを投げかけ、都市と農村の真に幸せな関係を模索
・環境・社会・経済の連鎖
著者は、農業や消費のあり方が農村の社会や環境に影響を与え、風景がこれらすべてとつながっているという視点を提示
・「風景をつくるごはん」という概念を通じて、私たちの食べ物の選択が農村の風景や環境に影響を与えることを示しています
・農業を食料生産の場としてだけでなく、環境を創出する場として捉え直している