あらすじ
執筆期間15年のミステリ・ロマン大作『鈍色幻視行』の核となる小説、完全単行本化。
「本格的にメタフィクションをやってみたい」という著者渾身の挑戦がここに結実…!
遊廓「墜月荘」で暮らす「私」には、三人の母がいる。孔雀の声を真似し、日がな鳥籠を眺める産みの母・和江。身の回りのことを教えてくれる育ての母・莢子。表情に乏しく、置き物のように帳場に立つ名義上の母・文子。ある時、「私」は館に出入りする男たちの宴会に迷い込む。着流しの笹野、背広を着た子爵、軍服の久我原。なぜか彼らに近しさを感じる「私」。だがそれは、夥しい血が流れる惨劇の始まりで……。
謎多き作家「飯合梓」によって執筆された、幻の一冊。
『鈍色幻視行』の登場人物たちの心を捉えて離さない、美しくも惨烈な幻想譚。※電子版はリバーシブル・カバー仕様ではありません。
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Posted by ブクログ
体から内臓が飛び出たり異形が現れたりなどのグロホラーにはある程度耐性が付いているものの、なかなかインパクトのある作品だった。
性欲の先にある悲劇と第二次世界大戦前の革命のギスギスした雰囲気が嫌な感じに混ざり合って物語をよりダークかつ奥深いものにしている。
その惨劇の様子を主人公が淡々と語る文体がまた良い味を出していた。
新しい恩田陸の顔を垣間見た気がした。こういう作品ももっと読んでみたい。
Posted by ブクログ
まず、リバーシブル・カバーが非常に素晴らしい発想。『鈍色幻視行』を読んだ方にとっては驚きと感動の両方が味わえるだろう。実際に飯合梓の『夜果つるところ』を読んでいるような気分になる。 物語の中身は陰鬱な状況が続く。主人公のビイちゃんの生みの親である和江はビイちゃんに襲いかかる、時には悪魔と叫ぶ。そして、登場人物の何人も殺される。和江もその紳士も心中する。犬も殺される。犬を庇ったりんも殺される。 なるほど。呪われた作品と言われるのもわかる気がするな。
Posted by ブクログ
ずっと仄暗い、夢の中にいるような作品だった。
ビィちゃんと呼ばれる“少女”の語りで唐突に始まって、説明もないまま話は進んでいく。
ので、こちらも遊郭『堕月荘』で生まれた女の子の話なんだろうな〜戦争終わりが近い時代の話なんだろうな〜となんとなくピースを拾いながら読み進めていった。
最後明かされるビィちゃんの素性、そして続く長い夜。
『鈍色幻視行』の作中作品ということで、こちらのほうが早く手に取れたので先に読んでみたけど、これがガチの単体作品だったらわけわからんかったなーで終わる内容だった。二次創作ぽい。
どう絡んでいくんだろう。期待ばかりが膨らむので期待通りだといいな…
Posted by ブクログ
注:内容にかなり触れています。
『鈍色幻視行』の感想では、『鈍色幻視行』の登場人物たちと同じ気持ちになれるように『夜果つるところ』を先に読んだ方がいいのでは?と書いた。
が、実際に『夜果つるところ』を読んでみると、先に読むのは『鈍色幻視行』で。
それをよっぽど気に入った人だけが、『夜果つるところ』を読めばいいのかな?と思うようになった。
ただ、恩田陸の小説が好きで。恩田陸の小説はほぼ全部読んでいるみたいな人であれば、『夜果つるところ』を先に読むことで、ファンとしての興を満たせるのかもしれないなーとは思う。
いずれにしても『鈍色幻視行』にある、『夜果つるところ』の抜粋はネタバレにはなっていない。
あくまで、話の筋(の一部)だ。
それを読んだからといって、この『夜果つるところ』がつまらなくなるわけではない(だって、それは著者本人が書いているんだもんw)。
ていうか。
『夜果つるところ』を先に読んだからって、『鈍色幻視行』の面白さが増すわけでもない(と自分は思ったw)。
であれば、著者が言っているように、『鈍色幻視行』を先に読んで。
それを楽しみながら、恩田陸がそこで書きたかったこと(言いたかったこと)を読者として受け止めた方が有意義であるように思う。
ただし、『夜果つるところ』を読んでも、『鈍色幻視行』で曖昧なところがクリアになるわけではない。
というか、『鈍色幻視行』の曖昧な部分は、そういうストーリーだからだ。
『鈍色幻視行』と『夜果つるところ』は、読者にテーマパークみたいな至れり尽くせりな楽みが提供される本ではない。
注!
以下では『鈍色幻視行』の中で登場人物たちの語る、飯合梓作『夜果つるところ』の評価について触れています。
以下を読む場合、『鈍色幻視行』を未読の方はその内容に一部触れていることを了解の上で御覧ください
★3つは、このお話を単体として読んだ時の評価。
つまり、この『夜果つるところ』というのは、著者が作中作に挑戦してみたいという、いわば作家の興みたいなものによって書かれたもので。
内容については、ファンが読めば楽しいって程度のものだということだ。
ただ、『鈍色幻視行』の作中作としての、この『夜果つるところ』の評価をするなら★は間違いなく5つだろう。
だって、飯合梓作『夜果つるところ』の評価は、『鈍色幻視行』の中で登場人物が、最初に読んだ時(まだ若くて多感な頃)に読んだ時は、“限りなく耽美的なゴシック・ロマン”としてその世界観にすっかり魅入られてしまったのに対して。ある程度の年齢になった今では、“寓話めいたファンタジー”のように、“読後感が180度違っている”と語られているのだ。
しかも、実際の著者である恩田陸は、この『夜果つるところ』を飯合梓という別の作家が書いた小説として書かなければならないという制約もある。
つまり、恩田陸はこの『夜果つるところ』を、小説として優れたものとして書けないのだ。
ぶっちゃけ言うなら、この『夜果つるところ』という小説はケレン味の強さが売りの、キッチュな小説でなければならないということだ。
それって、(プロの作家としては)技術的にも、書くモチベーションでも、相当大変なことなんじゃないのかな?と素人としては思ってしまうんだけど……。
とはいえ、そこは恩田陸。
いっやぁー、恐れ入りました(^^ゞ
「『夜果つるところ』はケレン味のあるキッチュな小説でなければならない」という意味で、見事なまでにそれが具現化されていることに驚かされた。
というのも、本当に陳腐な小説なのだ。←『鈍色幻視行』を読んだ人は「陳腐な小説」というのが褒め言葉だとわかると思う(^^ゞ
ありがちな舞台設定といかにもなストーリー、歌舞伎のような大仰な美。
見事なまでに、ファストフードのハンバーガーみたいな大衆小説として書かれている。
その反面、著者はこの『夜果つるところ』を、(『鈍色幻視行』の読者が)お金を払って買って読む本としても書いている。
大して面白い小説ではない。
でも、読んだ読者が、ある程度の満足を得られるようにも書いているのだ。
その辺りのさじ加減は本当に上手い。
ただ、飯合梓作の小説になっているか?というと……、
なんだよなぁーw
本には、フェイクの奥付があって。
そこには「1975年5月30日 初板発行」とあるのだが、確かに、読んでいるとその頃の小説や大人が見ていたドラマ(というよりは、その頃に読んだり見たりした小説や大人が見ていたドラマ)の雰囲気が感じられる。
(ただ、なんとなくだけど、70年代半ばよりは60年代っぽいかなぁーと思った)
「集英社文芸ステーション」にある著者のインタビューに、“(飯合梓は、『時をきざむ潮』で江戸川乱歩賞を受賞し、その後消息を絶った)藤本泉さんのイメージが少し入っているかもしれません。”とあるが。
確かに、藤本泉は主に70年代半ば活動していた作家(ウィキペディアより)だけど。
藤本泉は学生の頃に『時をきざむ潮』を読んだことがあるんだけど、記憶の限りでそこで描かれている風景は70年代よりも前って感じなんだよね。
そういう意味で『夜果つるところ』はまさに藤本泉っぽいのかな?(あくまで自分の記憶のイメージ)という気はするんだけど。
ただ、読んでいると、どこか記憶のある文章に「やっぱりこれは恩田陸(の文章)だよね?」となってしまうのだ(^^ゞ
そんなことを思いながら、これを読んでいたら。
ていうか、恩田陸の小説の世界観って、そもそも『夜果つるところ』の世界観とダブる部分があるんだろうなぁーということに気づいた。
ただ、まぁ、それは本人が書いているんだから当たり前か?w
(というよりは、恩田陸が子供の頃に見た/読んだナニカの世界観をダブらせている?)
そういう意味じゃ、(辛口の感想になるけど)これは“よくもわるくも”恩田陸の小説って感じかな?
だって、ここに描かれているような、今っぽく手心が加えられた甘っちょろい描写では『鈍色幻視行』に出てきたようなアクの強い人たちの心を揺さぶるのは絶対ムリだ(^^ゞ
「色」がないんだよ。
ひたすら、画面の暗い茶色がかったモノトーン。
『鈍色幻視行』に出てきた登場人物たちの心を鷲掴みにする小説なんだから、グロテスクなまでの極彩色の洪水で圧倒しなきゃ。
ま、ラストだけは極彩色だったけど(^^ゞ
ただ、著者の小説にそういう描写を求めるのはお門違いだし。
自分も、今更そういう描写を読みたいと思っていないのも確かだ。
それと。
お話の後半に登場人物が「我々の切り札です」と言う場面があるんだけど、そういう内容なら、60年代や70年代に映画監督や出版社の編集者、映画編集者みたいな、いわゆる戦後の文化人たちは『夜果つるところ』に(思想的に)共感を抱かないんじゃない?という違和感がある。
ただ、その後、主人公に言う莢子の「前に言ったわね。あそこを目指すの。夜の終わる場所。あの場所を目指して、後ろを振り返らないで」という言葉に、その時代に戻ってはいけない的な共感を抱くことで(思想的な反感)は目をつぶったのかな?とも思う。
というより、『鈍色幻視行』に出てくる戦後の文化人たちは、ラストの舞のシーンに代表されるような、いかにもな「美」のグロテスクさにこそ魅入られたのであって。
彼ら彼女らみたいな人たちは、その「美」に対する自らの共感こそが全てなのかもしれない。
いずれにしても、著者の「作中作への挑戦」という趣向はすごく面白かった。
大成功と言ってもいいんじゃないだろうか?
ただ、自分は読者なので。
『夜果つるところ』そのものについて言えば、あくまで著者のファン向けで。
特に著者のファンでない人は、『鈍色幻視行』を読めばそれで充分だと思う。
なにより、『夜果つるところ』を読んだからといって、『鈍色幻視行』で曖昧にされたことがわかるわけではないし。
そもそも、『鈍色幻視行』の本筋に、曖昧にされたまま終わっている部分はない。
ていうか。
それを言ったら、『鈍色幻視行』も結構ファン向け(それも昔から読んでいるファン向けw)なんだけどね(爆)