あらすじ
第2次世界大戦の結果、ドイツや日本など400万人以上の将兵、数十万人の民間人が、ソ連領内や北朝鮮などのソ連管理地域に抑留され、「賠償」を名目に労働を強制された。いわゆるシベリア抑留である。これはスターリン独裁下、主に政治犯を扱った矯正労働収容所がモデルの非人道的システムであり、多くの悲劇を生む。本書はその起源から、ドイツ軍捕虜、そして日本人が被った10年に及ぶ抑留の実態を詳述、その全貌を描く。アジア・太平洋賞特別賞受賞。
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Posted by ブクログ
シベリア抑留
スターリン独裁下、「収容所群島」の実像
著:富田 武
中公新書 2411
シベリア抑留とは、日本人だけではなかった。戦争中に捕虜となったドイツ兵をシベリアで強制労働させていた
日本軍の捕虜が、戦後捕虜であったのに比べて、ドイツおよび同盟軍の捕虜は、戦時捕虜であった
ドイツ、ポーランドの強制収容所におくられたソ連人捕虜は最も悲惨な最期をとげた
2万を超える捕虜は、1941年のうちに1万8千人が銃殺され、解放まで生き残ったのは、2500人だった
逆に無条件降伏時のドイツ人捕虜は、180万5300人
1943年時点では、ドイツ人捕虜の死亡率は、52.5% 食糧、衣服、医薬品が不足、給養は極めて不足していた
捕虜は、労働に供さないとわかると、本国に送致し、労働ができる捕虜は、シベリアに留め置かれることとなる
ソ連の中央政府が、帰還を約しても、地方政府は、その帰還をできるだ遅くなるように調整を加えていた
満州、樺太、千島からの日本人捕虜は、約60万、ソ連、モンゴルに連行され、数年、長くは11年もの間、各地の収容所で強制労働に就かされていた。これを、日本では、「シベリア抑留」という
1945~46の冬が最も厳しいものであった。極寒に加え、物資の不足、重労働で多数の死者が出た
抑留死亡者の80%がこの時期に亡くなっている。飢え、寒さ、重労働を三重苦と称している
極寒と、重労働に加え、チフスや、赤痢などが蔓延した
労働の現場は、ノルマが課せられて、100%の目標に達しない場合は、強制的に長時間の労働が課せられた
死亡した人は、少ない墓地や、凍土のために、捨て置かれたようである
モンゴルでは、ウランバートル郊外の墓地に埋葬されたが、遺体が遺棄された、ソ連と大きく異なったとある
引揚者や、現地で亡くなった方の調査については、厚生労働省もあまり熱心ではなかったようです。
ソ連崩壊後に発表されたロシア語の名簿に対して、その名前を日本語に当てて、一人一人を発表し、HPに乗せた村山常雄氏の話がでてくる。
戦後、靖国だなんだと物議をかもす前にこうした現地の情報を丹念に収集し、保存し、日本人の中で共有していくことこそ、やるべきことなのではないかと感じました。
右も左もどうでもよく、故地で倒れ、無念のうちに亡くなった方々を祀るのはこうした、基本的なことがらをちゃんと明らかにしていくことだと感じました。
目次
まえがき
序章 矯正労働収容所という起源
Ⅰ 強制労働による社会主義国家建設
Ⅱ ポーランド侵攻による捕虜収容所開設
第1章 二〇〇万余のドイツ軍捕虜―侵略の「人的賠償」
Ⅰ 独ソ戦争―ソ連軍捕虜への過酷な仕打ち
Ⅱ ドイツ軍捕虜の運命―労働使役と劣悪な収容所
Ⅲ 政治教育と送還―反ファシスト要員の養成
第2章 満洲から移送された日本軍捕虜―ソ連・モンゴル抑留
Ⅰ 日ソ戦争―満洲制圧と日本軍捕虜六〇万人
Ⅱ 処遇と送還―「三重苦」と日本人同士の争い;
Ⅲ 抑留の地域差―ハバロフスク地方とモンゴル
Ⅳ 独立労働大隊―ドイツ軍捕虜体験者との接触
Ⅴ 戦犯・政治犯とされた長期抑留者
第3章 「現地抑留」された日本人―忘却の南樺太・北朝鮮
Ⅰ ソ連軍による南樺太・北朝鮮占領
Ⅱ 南樺太居留民三〇万人―「島ぐるみ」抑留
Ⅲ 北朝鮮居留民と満洲避難者の総難民化
終章 歴史としての「シベリア抑留」の全体像へ
あとがき
参考文献一覧
用語・訳語・略称
シベリア抑留関連年表
ISBN:9784121024114
出版社:中央公論新社
判型:新書
ページ数:288ページ
定価:860円(本体)
2016年12月25日初版
2017年10月15日再版