あらすじ
「古池や蛙飛び込む水の音」芭蕉のこの俳句を英語で説明するとき、「蛙」をa frogとfrogsのどちらで訳すべきだろうか。単数か複数かを決めないまま翻訳することは英語では許されない。ほかにも「ちらちら」「どんどん」などの擬音・擬態語、「雨ニモ負ケズ」の漢字カタカナ交じりの表記、「顔が能面のようだ」といった比喩など、翻訳困難な日本語表現を紹介。夏目漱石も村上春樹も登場する、海を越えた日本語論。
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Posted by ブクログ
めちゃくちゃ面白い
ひとつだけ気になったのは、翻訳によって、失われるものと残るものは何か、という問いだ
私はこれは片手落ちと思う
翻訳によって、失われるものと残るものに加えて、得るものは何か、を考えたい
この本のしている考察は、まさに得るもののひとつであるし、例えば、「古池や 蛙飛び込む 水の音」の蛙が、英訳されたときに単数形か複数形かを選ばざるを得ないことで失われる曖昧さは確かにある。
あるのだが、それは画一的な見方であり、単数を獲得してるともいえる。
翻訳は、失ったばかりでなく、何かを得ている。というか、何も失わないように翻訳するのが無理なように、何も得ないように翻訳することも不可能だろう。
そこで得てしまうものは正しいものではないのか?
意味や価値の領域で正しさというものを問うてしまっている時点で、この質問自体が失敗している
つまり翻訳は、何かを失い、何かが残り、何かが加えられる
それは正しいか正しくないかではなく、原理的にそうなるので、そのことをどう用いるか、にしか問いの意味が生まれ得ない
Posted by ブクログ
「古池や 蛙飛び込む 水の音」について、ふと思ったこと。
この俳句の世界では、蛙は日本語で「ぽちゃん」と音を立てるのか?「ぼちゃん」と音を立てるのか?蛙が水に飛び込むまで、周りは静かだったのか?周りの環境も考えると、どんな訳が良いだろう?
いろいろな疑問が浮かびます。
Posted by ブクログ
今までにも言語について少し学んでいたが、初めて知ることもあっておもしろかった!!
言語そのものについて学ぶと、外国語を学ぶのも文学を読むのも音楽を聴くのももっと楽しくなるだろうなと思えた
日本語と英語を行き来することで、「認知的な視点」の違いを明らかにできる。英訳された、あるいは英語の詩を読むのもいいな。
Posted by ブクログ
日本語を英語に翻訳することについて書かれた本なので、日本語の勉強にも英語の勉強にもなり学びの多い本でした。英語と日本語で省略・反復する部分が違う、文化の違いで比喩が機能しなくなるといった話は意識するといった話など、言語という身近なテーマだけに確かにそうだなと思える部分が多く、知的好奇心を満たす面白さがありました。特に日本語の特性について意識してなかった指摘が多く、このあたりを意識すると日本語の使い方が上手くなる気がします。
Posted by ブクログ
ただ英語を勉強して、ただ留学をするだけでは短歌や和歌を翻訳するということはできない。英語を日本語に翻訳するということは日本語を人並み以上理解する必要があり日本語の素晴らしさ、美しさを再確認できる本だった。