【感想・ネタバレ】定本 日本近代文学の起源のレビュー

あらすじ

明治20年代文学における「近代」「文学」「作家」「自己」「表現」という近代文学の装置それ自体を豊かな構想力で再吟味した論考.文学が成立して思考の枠組みになる過程を精神史として描いた.「西洋の文学批評に根源的な衝撃を与えるだろう」(F.ジェイムソン)と評価された古典的名著を全面的に改稿した決定版.

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Posted by ブクログ

ネタバレ

東浩紀が『思想地図β』にて、文学は村上春樹などによって更新されたが、批評は柄谷行人『日本近代文学の起源』で更新が止まっている、と書いていた。随分と刺激的な暴言だ。柄谷行人にはその後『トランスクリティーク―カントとマルクス』、『世界史の構造』などの著書があるが、マルクス主義化した後の政治的思想家柄谷行人の仕事は、ばっさりと切り捨てられていることになる。政治を語ることに意味を見出していないオタク思想家東浩紀なりのはったりだが、僕も東の意見に賛成で、『日本近代文学の起源』の頃の柄谷の方が、政治化した後の柄谷より好ましい。というわけで『定本 日本近代文学の起源』。

日本近代文学は、ヨーロッパの近代文学の歴史を模倣して、発展していった。しかし、夏目漱石は、日本の近代文学が、ヨーロッパの近代文学と同じように発展していく必然はないとする。漱石は当時のリアリズムの作家よりも、フィールディングなど近代イギリス文学が明確に起立する前の作家を好んだという。

例えば、ロシア文学における近代主義は、ツルゲーネフの文体である。二葉亭四迷は、現代口語体の発見者として、日本近代文学史にその名を刻まれているが、柄谷によれば、二葉亭四迷は、ツルゲーネフの翻訳者として、同時代の作家に影響を与えたという。二葉亭が翻訳したツルゲーネフの近代的な文体から影響を受けて、同時代の作家は日本近代文学を構築していった。

ロシアに近代文学をもたらしたのはツルゲーネフだが、ロシア文学にはゴーゴリ的な文体の伝統もある。ほら話、ロシア特有の悲しみ、寓話、こうした近代文学におさまりきらないゴーゴリ的な文学の素養を、ドストエフスキーは継承したという。

近代文学に特徴的な記述方法とは、ルネッサンス近代絵画に見られる遠近法と関係する。遠近法の見方で世界を観察すると、風景が生まれる。遠近法があったからこそ、近代文学に風景が描写される。さらに遠近法で風景が描写されると、個人の内面も発見される。客観的に世界を観察するまなざしは、自分自身の心をも遠くから、冷静に観察し始める。遠近法があったからこそ、個人の内面が発見されたという逆説。

近代文学は風景を描写し、個人の内面を描写してきたわけだが、柄谷が『日本近代文学の起源』を書いていた当時からして、近代文学の語法は破綻し始めていた。現代はさらに破綻が加速している。ケータイ小説では、風景が描写されない。ネットでは個人の内面を赤裸々に吐露することは、ポエム始まった、メンヘラーだとして嘲笑の対象になる。何故ネット社会では、風景も内面も不要になったのか。風景の文章化を待つまでもなく、写真画像や動画ファイルでより濃密に風景を体験できる。内面描写は何故嫌われるのか。ネットは、一つの社会である。たくさんの情報が集積する。読者に役立つ肯定的情報こそ、ネットでは評価される。ネガティブな情報は、そういう意見もあるだろうねと見られがちだ。

ネットの普及で、価値観が多様化した。一つの事実を前にして、肯定的に評価する人もいれば、否定的に評価する人もいるということが、明白になった。小難しい小説や評論なんて、実は大勢の読者が望んでいないこともまたはっきりした。評価が集積している情報が、ネットでは評価される。日本近代文学は、ネットの時代に足場を失う。しかし、新しい形の文学はどんどんネットで生まれている。『うみねこのなく頃に』など、今までのものさしでは評価できない新しい文学たち。東浩紀による『ゲーム的リアリズムの誕生』などの仕事は、『日本近代文学の起源』を更新しただろうか。

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2011年01月22日

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